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どこかで目覚ましが鳴っている。
入江琴子の朝はいつもそんな感じで始まる。
昨夜は直樹と再会した夢を…。
「夢じゃないっ」
がばっと起き上がると、けたたましく鳴り響いていた目覚まし時計のアラームを止めた。
いつもの部屋とは違うシンプルな部屋。シンプルすぎてかえって物足りなささえ感じる。
よく見るとダイニングテーブルにはコーヒーカップ。
普段の部屋なら見えるはずのないテーブルが、違う場所に来たことを思い出させた。
「入江くん?」
見回せば何者の気配もない。
「もう行っちゃったんだぁ」
のろのろと起き上がってみれば、どこにも直樹はいなかった。
狭いシングルベッドをほぼ占領して眠りについたものの、再会の喜びにはしゃぎ疲れた琴子が朝早い直樹に合わせて起きるのは無理な話だった。
さすがに初日から遅刻させるのをためらったのか、琴子に合わせてセットされた目覚まし時計に直樹の優しさを感じた琴子は、ちゃっかり直樹所有のインスタントコーヒーを味わうことにした。
しばらくボーっとした後、ややのんびりしすぎて慌てて病院へ向かうことになった。
* * *
直樹はそっとマンションを出てから、病院へ向かう足取りがいつもより軽いことに気がついた。
まだ会えないと思っていたのが、いきなり一緒に働くことになったのだ。
自分で思うよりも琴子がいないことが堪えていたらしい。
ところが病院へ着いてみると、朝の挨拶代わりにあらゆる人から質問された。
つまり、あの女は誰なんだ、と。
そっけなく「妻です」とだけ答えた。
研修医時代に知っていた上の面々はともかく、直樹が以前いた頃に比べると人もある程度入れ替わっている。
その全ての人が優秀なる斗南からの派遣医師に興味があるのだから仕方がない。
そして、もちろん琴子とて逃れるわけがない。
そろそろ着いてもいい頃か。
時計を見ながら、ぎりぎりに駆け込んでくるであろう琴子の姿を思ってふと笑う。
そのふとした笑みに周りの医師がざわめく。
あの冷静沈着を絵に描いたような入江医師が…、思い出し笑いをしている…!!
それだけでその日のトップニュースになるほどだから、直樹の人気はたいしたものだと言えよう。
もちろん本人はそんなこと思ってもいないだろうが。
* * *
さて、直樹の予想通りぎりぎりで病院に駆け込んで、およそ余裕というものが感じられない琴子。
教えてもらったロッカーに駆け込むと、にぎやかに着替えているほかの看護師たち。
時折聞こえる言葉が斗南とは違うことを感じさせる。
何とか間に合いそうだと思ったのもつかの間、琴子の着替えているロッカーの向こうで聞こえた会話に身を震わせた。
「ちょっと、聞いた?入江先生の話」
「東京から来た看護師の話?」
「聞いた聞いた」
「なんだかやけに親しいんだよね」
「いいじゃない、今日聞いてみれば」
…それって、あたし?!
琴子は物音を立てないようにこっそりと着替え終わると、これまたこっそりと更衣室を出ようとした。
…が、戸口にあった消火器を蹴飛ばしてしまった。
ドン ガシャン ゴトン ゴロゴロ…
非常に気まずい沈黙が訪れた。
誰?という視線とともにのぞき込まれた琴子は、消火器を元に戻すと、慌てて更衣室から出て行った。
外科病棟に着いたときにはすでに緊張と慌てたせいで、汗だくで怪しい風体になっていた。
あ、やっと来たという師長の表情から、周りが並々ならぬ関心を持って待っていたことが伺える。
朝の挨拶がてらに入江医師との関係を聞き出そうとしていた面々は、とりあえず朝の申し送りに阻まれることになった。
琴子の自己紹介も終わって早速業務開始。
いきなり患者を受け持つのは無理なので、補助的な仕事と雑用を任された。
ところが、琴子の不器用さによってことごとく失敗。
それぞれ顔に
本当に派遣されるほど優秀なのか
という疑問がありありと見て取れる。
なんだかあたし、役に立ってないかも…。
ワゴンの上の物品をひっくり返したところで、さすがに琴子は青ざめた。
一日目で緊張しているのだろうと周りは何とか納得してくれた。
…が、結構これが日常だとは言えない琴子だった。
* * *
医局から外来へ向かう途中、直樹にも気づかないで走り抜ける琴子を見た。
思ったとおり時間ぎりぎり。期待を裏切らないやつだとまたもや笑みがこぼれる。
朝からいつもどおりの琴子の姿が見られただけで元気になるのは、きっとあまりにも離れすぎたせいだと思うことにした。
斗南ではその慌てぶりにいつも眉根を寄せて、苦々しくため息をつくのが常だったのだから。
一人の医師が直樹の後を追いかけてきて言った。
「外科に斗南からの派遣看護師が来てるって?入江先生、どんな子か知ってる?」
直樹は振り向きもせずに答えた。
「知ってますよ」
「へぇ、美人?それともかわいいタイプかな?」
「…ドジで役に立てるかどうかあやしいくらいの仕事ぶりですが」
「いや仕事ぶりはどうでもいいんだけど」
「…名前は入江琴子」
「へぇ、名字一緒かぁ」
「…私の妻ですが」
「はぁ?」
「彼女が何か?」
「君、結婚してたの」
「前にいたときも散々言いましたが」
「いや、だって、女に全く興味ないみたいな感じだから」
「だから?」
「ははあ、その奥方に首根っこ押さえられてんだろ」
「…………」
「ま、いいや。早速見に行こう」
そう言って浮かれ気味に病棟へ行ってしまった。
引きとめようかと一瞬振り向きかけたが、それもバカバカしいのでやめた。
その医師の名を東山、という。
東の西垣に西の東山…。
正直どこにでもああいう人種はいるんだな、と思うのだった。
* * *
午前の回診が始まった頃、琴子は病室の一つで点滴に悪戦苦闘していた。
まだ刺していないが、刺す前から不吉な予感に身を震わせる患者。
もちろん初めて腕前を披露する琴子としては、できるだけ失敗は避けたい。
それが妙な気迫となってその病室の雰囲気を異様なものにしていた。
「沢井さん、ガーゼを交換しますよ」
陽気な声で現れた医師は、すかさず点滴の針と腕を交互ににらめっこしていた琴子を目ざとく見つけた。
「あ、そこの看護師さん、介助してくれるかな」
突然声をかけられ、針を持ったまま振り返る。
もちろんその針に怯える患者さんはお約束だ。
「あ、あたしですか?」
「そう、君。…おっと、君は新しい看護師さんかな」
ちょっとわざとらしくそう言うと、琴子はにっこり笑って答えた。
「あ、はい、斗南から来ました、入江琴子です」
「入江?って、噂の奥方か」
「はい?」
「ふーん、これはまた…なるほどねぇ」
「な、何か?」
「いやいや、入江先生も人が悪いな。こんなかわいい奥方だから黙っていたんだな」
直樹が聞いていたら、「別に黙っていない」と思いっきり否定しただろうが。
「あ、あの、介助ですよね」
琴子はここではじめて名札を確認した。
東山先生か。
なんとなく、誰かに似てる…。
「おお、そうだった。じゃあ、まず創を見せてもらおうかな」
琴子は患者・沢井のお腹を出して、当てられていたガーゼをはずしにかかった。
それは思ったよりもなかなかはがれず、エイ!とばかりに思いっきりはがした。
これにはさすがの東山医師も何も言えず。
「ふむ、さすがに僕が縫っただけはある、きれいなもんだよ。
はっはっはっ、さ、消毒」
「はいっ」
ボタッ。
付けすぎた消毒が垂れた。
とりあえず見なかったふりで消毒を続ける。
「ガーゼ、くれるかな」
「はいっ…っと、あっ」
ひらりとガーゼが宙を舞った。
ぺたりと東山医師の顔に乗った。
「す、すみません」
慌てて次のガーゼを取り出した。
「い、いや、いいんだよ、これくらい」
次のガーゼは無事に渡され、何とかガーゼ交換は終わった。
青ざめた琴子は、廊下に出た東山医師を捕まえて声をかけた。
「すみませんでした、き、緊張して」
「そんなに恐縮されると困っちゃうな。
そうだ、このお詫びは僕と今夜歓迎の食事会で…」
「しょ、食事会ですか」
「え、でも、入江くんに聞かないと…」
ずいっと迫る東山医師に琴子は軽いデジャヴを感じた。
「歓迎会ですか、東山先生」
そこで耳聡く聞きつけた他の看護師が間に割って入った。
「ま、まあ、そんなようなものだね」
「それなら、入江先生もお誘いして行きましょうよ」
「入江先生も〜?!」
「じゃ、時間と場所はこちらでセッティングしますから。入江先生もお誘いしておきますぅ」
「あ、おい…」
そう言うとさっさと決めて他の看護師は立ち去っていった。
「何も入江先生まで誘わなくても…。しかし、君のだんなはよくもてるな。そう思わないか」
琴子はすでに東山医師の言葉は半分しか聞いていなかった。
そうよ、ここでも戦いだわっ。
入江くんを他の女の毒牙から守らなきゃ。
…あ、そうか。
西垣先生にそっくりだったんだ。
やっと思い出してすっきりした琴子だったが、点滴を忘れられた患者がいたことに思い出すのは、随分後のことだった。
(2007/12/24)
To be continued.