6
琴子の一日はなかなか長かった。
昼休み、琴子に興味津々の新しき同僚は、何かと琴子に探りを入れようと会話のきっかけを待っていた。
「その、斗南大学病院と比べてどう?」
琴子は誘われた食堂で定食を食べていた。
残念ながら直樹はいなかった。
「そんなに変わらないと思いますよ」
「そう」
「あ、でもなんだか神戸のほうが上品な感じがするかも」
「そうかな〜」
あたりさわりのない会話が続く。
「じゃあ、入江先生は、向こうの病院でもあんな感じなのかしら」
「あんな感じって?」
「うーん、あまり女の人に興味ないとか」
そりゃ、あたしというれっきとした奥さんがいるんだから当然よね!
と思いつつ、琴子がいなくてもきっと興味はなかったに違いないという事実にはあえて目をつぶる。
「入江先生には奥さんがいるからって」
「ああ、そう、その噂」
「前もあったんだよね。前にこの病院に来てたとか」
…それは奈美ちゃんのときのことだろうか。
いや、今も来てるんだけど。
二人の同僚の視線が痛いほど突き刺さる。
詳しく知りたいというのがありありと見て取れる。
それはあたしのことです、と言おうとしたが、思わずその言葉を飲み込んだ。
「入江先生の奥さんも看護師だって」
「なんか優秀そう」
午前中だけで失敗した数々の出来事を思い浮かべると、今すぐに告白する気になれなかった。
せめてもう少し優秀な姿を見せないと…。
そうよ、今までもあったわ、このパターン。
おまけにこの後入江くんが…。
「あ、そういえば、あなたも入江よね。東京は入江っていう名字多いの?」
「あの、あたし…」
「あ、入江先生よ!」
ぎくっと琴子の全ての動きが止まる。
「東山先生、入江先生、こちら空いてますよ」
後ろを向いたまま、琴子はどうしようかと硬直する。
「ああ、ありがとう」
にこやかに答えた東山医師は、直樹を伴って琴子の隣の席へ。…着こうとしたが、さりげなく直樹に割り込まれた。
隣にいるのに妙によそよそしい琴子に直樹はなんとなく思い当たる。
「入江先生、今夜、入江さんの歓迎会を兼ねて飲み会をすることになったんです。今日は手術日でもないですし、当直でもない日でしたよね」
直樹はビクビクしている琴子になんでまた隠してるんだという視線を向けながら、さりげなく言った。
「とりあえずは」
「よかった〜。結構皆来るって言ってましたから」
「おいおい、僕は歓迎されてないのかな」
「あら、東山先生ももちろん来て下さいね!主催は東山先生なんですから」
「ふーん、でもそばに奥方がいるんだから、入江先生は望みないんじゃないかな」
「…そばって…?」
「そりゃ、こんな無愛想のだんなを追ってきた健気な琴子ちゃんだよ」
ヒッ。
喉から出かかった悲鳴を飲み込んだ。
その瞬間、食堂の空気が何度か下がったのを感じた。
「い、入江さん…?!」
同僚二人の絶句を横目に、直樹はそれ見たことかとご飯を食べ続ける。
琴子は琴子で黙々とご飯を食べながら考えていた。
入江くんを守るために戦うって決心したのに〜。
どうしていつもこうなるのかしら。
そうよ、それもだいたい無責任な噂がいけないのよ。
入江くんの妻だからといって絶対優秀でなきゃいけないなんておかしいわよね。
「今夜の打ち合わせがあるから、先に行くわね…」
ふらふらと同僚は食堂を出て行った。
後に残された琴子を見ながら、東山医師はのんきに言った。
「琴子ちゃん、彼に飽きたら僕が引き受けてあげるからね」
すでに琴子ちゃん呼ばわりの東山医師を無視して、直樹は言った。
「おまえ、このパターン何度目だ」
「さ、三度目…?」
「いい加減学習しろよ」
「だ、だっていつも入江くんのせいであたしはとばっちり受けるから」
「…誰のせいだって?」
「そんなこと言ったって、皆勝手に誤解するんだもん」
「最初から言っておけばいいだろ」
言えなかったんだもん…!
「俺のせいじゃなくて、おまえが優秀になればいいだけの話だろ」
そ、それができるくらいなら苦労してないっ。
涙目で黙って反論しながら、琴子は同僚の後を追って食堂を出て行った。
「琴子ちゃん、冷たいだんなは気にせずにおいでよね〜」
東山の声にかぶさるように、直樹は大きなため息をついた。
* * *
「入江先生、飲んでますか?」
琴子は直樹にさりげなく背を向けて、他の看護師と直樹の会話に耳を済ませる。
結局昼休みの後、噂は瞬く間に廻り、琴子は斗南ではお決まりの視線を受けることになった。
つまり、入江先生の奥さんてたいしたことないじゃない、という嫉妬の視線。
何よ、失礼ね!とは思ったものの、その後の仕事を何とか失敗なく終わらせることだけに全神経を集中していたので、正直構っていられなかった。
やっとのことで一日の仕事を終えると、斗南で働いていた以上の疲労感が琴子を襲った。
おまけにその後直樹とは会えないまま飲み会へ。
こ、こんなはずじゃ…。
歓迎会とは名ばかりの飲み会。
どう見ても外科だけではなく、聞きつけた看護師と医師がわらわらと寄り集まっている感じだ。
居酒屋はほぼ貸しきり状態に近い。
これも東山医師のお手つき…いや、人徳なのか、琴子をひと目見ようと集まったせいなのか、直樹目当てなのか。
ビールの入ったガラスのコップを歯噛みしながら、琴子は後ろの会話に注意を払う。
「ええ、斗南に派遣という話もあったんですけど、自信がなくて一度はお断りしたんです。入江先生が帰った頃にお話があったら行ってみようかな〜」
ぐいっと1杯ビールを煽ったところで、すっとコップが取り上げられた。
あ、あれ?
消えたコップを探して琴子はきょろきょろと見回した。
見上げると空のコップを持った直樹が立っていた。
「もう飲むな」
「な、なんでっ」
「また醜態さらしたいのか」
「あたしの、歓迎会なのに?!」
「またおまえを背負って帰る身にもなってみろ」
う……。
「琴子ちゃんなら僕がちゃんと送ってあげるよ〜」
すでに酔っ払いの東山医師が直樹の肩に手を乗せようとしたそのとき、世にも恐ろしい目でギロリとにらまれた。
「……本当にお二人は夫婦なんですか?」
その一言に、琴子は周りの目が一斉に自分に向けられるのを感じた。
「そうだけど」
その直樹の一言で、あちこちで漏れるため息。
ほっと息をついた琴子だったが、さりげなくこの場にいる皆が聞き耳を立てているのを知った。
直樹は琴子のコップを取り上げたが、自分はいたって淡々とアルコールを手にしている。
仕方がないので琴子はそばにあった唐揚げを取ろうと…。
「入江先生、食べてますかぁ?」
横からさっと手が伸びて、琴子の目の前にあった唐揚げが直樹の元へ。
あた…あたしの唐揚げ…。
割り箸を持ったまま琴子の手は宙をさまよう。
仕方がないのでこの店の名物の明石焼きを一つつかむ。
「どうやってお知り合いになったんですかぁ?」
「…どうやってって、突然同居してきたから」
ナニ?!という空気が周りを取り巻いた。
ボチャッ。
つゆにつけようとした明石焼きが落下する。
…い、入江くん、できればもう少し詳しく説明して…。
「ど、同居、ですかぁ…」
何か激しく勘違いされてる気がするけど、この際だからもういいや…。
琴子はつゆに浸かった明石焼きを堪能した。
チラッと直樹を見ると、しれっとした顔でから揚げを食べている。
絶対楽しんでるっ。
絶対意地悪してるっ。
琴子はつくねを食べようと串を手に取った。
大きな口を開けてほおばった。
「で、プロポーズはどちらから?」
げほっ、ごほっ。
大きなつくねが危うく琴子の気管を塞ぐとこだった。
直樹は、パシッ、と軽い音を立てて割り箸を置くと、その質問者を見ずに立ち上がった。
その質問をした者は、少しばかりその雰囲気に恐れをなして小さな声で尋ねた。
「…あの、どちらへ…?」
直樹は静かに立ち去りながら「トイレ」と答えた。
(2007/12/26)
To be continued.