<



何度でも



10


1月12日、午前10時。

自宅が無事だったスタッフが、一人二人やってきた。
それでも大半は病院までたどり着けないようだった。
病棟は一時退院をする患者でざわめいていた。
琴子も幹も退院する患者に書類を手渡し、申し訳なさそうに頭を下げる。
中には不満そうな患者もいたが、それぞれ病棟を去っていった。

救命から要入院の連絡が次々に入る中、幹は琴子とともに救命外来へ行くことになった。
おそらくそう指示した主任も地震発生以来ほとんど休んでいないに違いない。

「入江くんや救命のスタッフが倒れないといいけど」

琴子がぽつりとそう言った。

「そうね」

そう答え、幹は琴子の左肩を見た。
朝、確かに左肩をかばっていた気がしたのだ。
暖房も入らず、上から上着を引っ掛けている今の状態では全くわからない。
意識的に左をかばうようなそぶりも今のところ見られない。

入り組んだ病院内を歩いていくと、外来には騒がしさがあった。
病院の敷地は広大な大学の一つであり、大学の敷地内にもたくさんの人が集まっているようだった。
外にも臨時の救護所が設けられ、スタッフがそれぞれ歩き回っている。
いつの間にか炊き出しもあり、暖かそうな湯気が見えた。

「ねえ、モトちゃん、後で炊き出しのご飯もらわない?もちろん余っていたら、だけど」
「いいわね」
「主任にも少し休んでもらわなきゃ」
「そうとなったら、急いで救命での用事を済ませましょ」

二人は救命へ続く渡り廊下を急いだ。


 * * *


数値に変化は見られないが、依然として危険な状態には違いない、と直樹は検査結果を机に置いた。昨夜運ばれてきた好美の検査結果だった。
どうやって他地域へ送ればいいのか、見当もつかない。
多数救急車は来るものの、その救急車に頼めるのはほんの一部にしか過ぎない。何せ道路状況が悪すぎるのだ。
その道路状況のせいなのか、届くはずの薬剤が届かない。
薬の残り状況への不安から、スタッフにもだんだん焦りが見えてきていた。
薬剤部へ連絡しても、仕方がないのはわかっている。
薬剤部に保管してあった在庫分と病棟から回された緊急薬剤を今日は使うしかない。
しかし、それだけでは足りないものも多数ある。
おまけに使える機器の修理もいつ済むのか。
いつもならすぐに手術に回すべき症例も、今の状況では麻酔もままならないので、重症例に限られる。それでもあまりに重症すぎるものは、実質手の施しようもないのだ。
こんな状況を誰が想像しただろう。
いや、一度この状況を経験したものはいる。
大地震から立ち直った者たちもいるのだから。

「入江先生、肝損傷の大貫さん、外科へ移動します」

その声に振り向けば、そこには琴子と桔梗幹がいた。
琴子が患者に声をかけている間に幹に手早く事務連絡をする。
その合間、早口で幹が言った。
問い返す間もないうちに、患者を運ぶための準備に入っていた。
いつもなら琴子が泣きながら抱きついてくる場面だが、「後で来るから」と手を振った。
ストレッチャーを押そうと体勢を変えた幹の肩をつかみ、慌てて問い返す。

「どういうことだ」
「言葉通りの意味です。まさか気づいていないとは思いませんでしたけど。いえ、責めてるんじゃないんです。こんな状況ですし。ただ、このまま…見ていられないんです」

そう言うと、幹と琴子はストレッチャーを動かして行ってしまった。

「入江先生、アストマ(喘息)重発作が来ます」

呼ばれてはっと我に返る。

「呼吸器の佐賀先生を」
「呼んでます。ME(この場合医療機器を取り扱う工学技士、及び医療機器メンテナンスを主に扱う科)に連絡の上でメンテナンス終了した呼吸器を手配中です」

今は、立ち止まることが許されない。
直樹は音も立てずに閉まっていったドアの向こうに少しだけ思いを馳せた。
だが今は、それだけだった。


やっと小休止をがもらえ、直樹は食事より先に琴子の姿を探した。先ほどの子どもも何とか落ち着いたためだ。
ずっと救命処置室から出ていなかった。
仮眠も全てICU(集中治療室)内の休憩室だった。
食事も満足に食べる暇のない状況で、正直身体を休めるべきだとわかっていた。
それでも、幹が告げた言葉を確かめるために琴子を捜した。


1月12日、午前11時半。

何か、いつもとは違う風景。
もちろんそんなことはわかりきっている。
いつもは人もまばらな病院玄関横には、人が大勢寄り集まっており、その人波の中に沸き上がる湯気と食べ物の匂い。
そこで初めて自分が空腹であることを知った。

「入江先生」

人並みを掻き分けて呼ばれた。
差し出されたプラスチックの椀を何気なしに受け取り、ようやくその人物の顔を見た。

「清水主任」

少々疲れてはいるようだが、それでもそのきりっとした雰囲気は崩れておらず、さすがと言うべきだった。

「どうぞ、お食べになりませんか」

そう勧められて、ようやく直樹はその匂いと温かさを実感した。

「…いただきます」

空腹だった。
確かに空腹だったが、今までそれを空腹だと認知する機能がどこかへいってしまっていたのではないかと思われるほど、機能的に食べ物を口にしていた。

「やはり、こういうものを食べないと、心が荒んだような気がしてしまいますね」

そこが玄関前であるにもかかわらず、二人は雑炊を口にした。
二人以外にもその場で受け取った食事を口にする者たちであふれ、そこがどこかということは問題ではなかったのだ。
ただ温かな食べ物を口にする、それがどれほど重要なことなのか、直樹は湯気に喜ぶ人々の顔でそれを知った。

「琴子さんを探しに見えたんでしょう。彼女は一足先に病棟へ戻っているはずです。
ごめんなさいね、あまり休憩もとらせてあげられなくて。それに家や子どもさんも心配でしょうに」

そう言われて、直樹は動かしていた箸を止めて、清水主任の顔を見た。

「皆、きっと心配なことは山ほどあるでしょうに、今は誰も口にしないんです。その緊張が切れてしまうときが怖いんですけどね」
「救命でも同じです。
今は次々に患者が運ばれてきて、処置をするのに必死です。
誰かの愚痴に付き合う暇も、泣き言を言う暇もないくらいで、このまま続けられるのか、誰もが不安なのに口にできない。
琴子を、もう少しだけお願いします。
今すぐに駆けつけてやりたいんですが、それをしてしまうと…」

その後の言葉はさすがに言えずに濁した。
清水主任は心得たようにうなずいた。

「それから、左肩…隠しているようですが、痛めているようです。これも俺が気づいたわけじゃなくて、桔梗からなんです。治療してやりたかったんですが、ムキになって隠しているようで。全く動かせないわけではなさそうなので、おそらく打ち身だとは思うんですが」
「わかりました。病棟に戻ったらすぐに」
「お願いします」
「はい。でも、近いうちに必ず、琴子さんを甘えさせてあげてくださいね。彼女の元気が私たちも元気付けること、知ってらっしゃるでしょう?」
「…ええ、そうですね」

そう答えて、直樹は自嘲気味に笑った。
その元気を欲しているのは、間違いなく自分のほうだと。
去っていく清水主任の後姿を見送り、直樹は口に出せなかった言葉を思い返す。

有無を言わさず現場から琴子を連れ出して、抱きしめて大丈夫かと言うことは簡単だった。
ただ、それをしてしまうと、今度は自分が甘えてしまうだろう。

桔梗の言葉が耳に残る。

…あの()、笑ってないの。声に出して笑ってないのよ。

外科病棟に向きかけた足を無理矢理救命センターへと向かわせた。
中では好美が一刻の猶予もなく苦しんでいる。
本当に笑えるようになるまで、まだ少しかかりそうだった。

…琴子。

多分…、寄りかかって大丈夫だと言ってもらいたいのは、ほかならぬ自分だ、と直樹はわかっていたが、それでも救命センターという戦場さながらの仕事場に戻っていった。


(2009/09/22)


To be continued.