何度でも



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1月12日午後2時。

琴子は検査室に出す検体を持って階段を下りていた。下りきった場所で激しい口論が聞こえた。

「だからと言って、このまま届くのをここで待ってろと言うんですか?」
「では、どこへ行けば受け取れると言うんだね」
「ですから、封鎖された道に車はいるわけですし」
「で、君は、どこの病院へ持っていくともわからない薬をこの病院のためだけに根こそぎ持ってくるつもりか」
「そんなことは言ってません。少し分けてもらうだけです。それだって本当は届けてもらう薬品の一部にしか過ぎません」
「もちろんこの病院は地域にとって大事な救急場所であることは確かだろう」
「それなら、なおさら…」
「どこも事情は同じだ。それを病院から医師や看護師、薬剤師がそれぞれ薬を取りに出かけて行ったらどうなる?それを届ける役の者たちは何をする?その者たちは助かるかもしれないが、それは私たちの役目じゃない。届ける者、受け取る者、使う者、それぞれ今は大事な役目がある。少なくとも今は君の出番じゃない」

琴子は階段室からなかなか出られず、どうしようかと扉の取っ手に手を置いたままだった。
ところが不意にその扉が開き、人が出てきた。
ぶつかったその人は、ぶつかった琴子に少しだけ頭を下げたが、唇をかみしめており、涙はこらえたように赤い目をしたまま、階段を駆け上っていった。
琴子はその人の顔を見てあっと思った。
それは地震のあった直後に外来で会ったあの薬剤師・東郷だった。
琴子は階段室を出ながら、ようやく先ほどの話は薬剤部部長との話だったのだと気づいた。
救命でも病棟でも薬の在庫は切れかかっていた。
ICUなどは当然備蓄も多く、当然これほどの大規模な大学病院である薬剤部でも、ある程度は確保されているものだが、需要が多いのに供給は全くないという状態は滅多にない。
いつでも電話すれば届くという状態から一転、全く届かないとなっては焦れても仕方がない。
薬剤部部長の話はもっともだったが、東郷の話も気になるところだ。

考え事をしていたせいか、ドアが左肩に触れて、少し身体を引いた。
左肩の湿布がツンと匂った。
昼をすぎてすぐ主任に連れられ、処置室で手当てを受けた。
誰にも言っていなかったのに、と琴子は首を傾げたが、幹が気づいていたかもしれないと思い出して、黙って肩を出した。
「入江先生が…」
続けた主任の言葉を聞いて、琴子は胸を熱くした。
幹から直樹へ。直樹から主任へ。
こんなときでも、自分のことを気にかけてくれる人がいる、と。

「入江くん…」

このまま救命外来まで駆けていきたかったが、手には検体が握られていた。これを届けるのが今の琴子の役目に違いない。
そう思い直して検査室へ急いだ。

検査室に検体を渡し、琴子はふと騒がしい外を見た。
何やらざわついた違う雰囲気だった。
カメラを構えた人と、その向こうでマイクを握った人。
ああ、何かテレビの人だろうかとぼんやりと考えた。
いつもなら、誰か有名な人が来てるんだろうかと駆け出す勢いの琴子だったが、さすがにその気力はなかった。
そのままぼんやりとマイクを握った誰かがしゃべるのを聞いていた。
もちろん中継などではなかったが、その様子から報道関係の番組であることは見て取れた。
急に何かを思い立って、琴子はそのカメラに駆け寄っていった。


 * * *


突然一人の年若い看護師に声をかけられたテレビ局の女性アナウンサーは苦情かと思い身構えた。

「あの、お願いします。あなた方のヘリコプターに患者を乗せて搬送してほしいんです」

言われた言葉にアナウンサーはカメラマンを見て首をかしげた。
苦情ではなかったが、その『お願い』は今までにない突拍子もないものだった。
避難所を回るたびに、取材ではなく救援物資を運べと怒鳴られたことはあった。

「それはちょっと…」
言いかけたアナウンサーの言葉を遮るようにして看護師は言い募った。
「だって取材ではどんどん飛んでるでしょ。今は車も通れなくて、早く無事な地域へ搬送しないと命の危ない子がいるんです。お願いします、ほんの片隅でいいんです。ちょっと無事な地域へ送っていただければ…」
「ヘリコプターは確かに飛んでますけど、それはうちの局とは限りませんよ」
「どこの局でもいいんです。もちろん自衛隊でも警察でも。でも無理なんです。テレビ局ならあちこち行くんでしょ?」
「…それは、まあ」
「ここで命を救ったとなったらあなたの局は独占取材で評判が上がるかもしれないじゃない。打算でも何でもいいんです。助けてさえくれれば、あたしのことは悪く書かれたっていいんです。一人の患者だけ助けようなんて虫が良すぎるけど、それでも何もしないよりはましなんだもの」

すがりつくようにして必死に訴える看護師に少なからず興味を持ったアナウンサーは、今まさに立ち入り禁止になっている救命センターに目を向けた。

「…救命センターを取材させてくれるなら」
「そ、それは、あたし一人で決められ…」
「琴子ちゃん!!」

今度は少し年配の女性と険しい顔をした青年が後ろから看護師に声をかけてやってきた。

「大丈夫だったの?」
「お義母さん…」

二人は盛大に抱き合って喜び合っている。
久しぶりに再会した家族のようだ。

「皆、無事だから安心してちょうだいね。ちょっと連れてくるわけにはいかなかったのだけれど」
「道がひどいようですね。裕樹君が言ってました」
「そうなのよ。それより、好美ちゃん、大丈夫なの?」
「ええ、もちろん」

そう言いながら少しだけ表情を曇らせた看護師は、改めてアナウンサーを見た。

「なにか取材なの?」
「えっと、あの、好美ちゃんをヘリで運んでもらいたくって、取材用のヘリに乗せてもらえるように交渉してたんです」
「ああ、ヘリコプターで…」

思案顔をした後、年配女性は思いついたようにこちらを見た。
アナウンサーは、何か厄介ごとを頼まれるような気がして、本能的に少し怯んだ。

「あなた、局はどこかしら?」
「…Mテレビです」
「あら、やっぱりパンダイがスポンサーになってるじゃないの。
ね、どうかしら。スポンサーとしてパンダイから援助する形でヘリを一台融通してもらうっていうのは?」
「ええっ」
「本当にもう、こういう時にヘリの一台でも飛ばせられないだなんて、パパの会社もまだまだね。
ねえ、あなた、スポンサーとしてバックアップする形なら問題ないでしょ?何なら上の方に電話の一本くらいかけさせるわよ。パパも何か手助けしたいって言ってたし」
というが早いか、懸命に電話をかけ始めた。もちろんつながりにくい中でのことで、何度も熱心にかけ続け、あれよあれよという間に話を進めてく女性を前に、自分の思惑とは関係なく違う方向へ進んでいくのを感じて、アナウンサーはものも言えなかった。
カメラを抱えたカメラマンはどうするんだという感じでアナウンサーを見ている。
話がついたのか、女性が電話を切って10分も経たないうちに折り返しの電話がかかり、話は決まってしまったようだった。

「さ、好美ちゃんのところへ行くわね。裕樹が先に行ってるはずだけれど。琴子ちゃんは仕事のほうは大丈夫なの?」
「あ、そうだった。あたし、検体届けに来てそのままだったんだ」

女性が見送る中、「主任に怒られる〜」と言いながら看護師は駆けていった。

気がつくと、アナウンサーのポケットの中で、携帯電話が震えていた。
もちろんその内容は、大手おもちゃ会社のパンダイが提供の元、一刻も早く透析を行わなければいけない状況にある女性患者をヘリで搬送する過程をニュースとして独占取材を行えという上からの命令の電話だった。
目の前であっという間に話を進めた女性が、パンダイの社長夫人だったというのは、後ほどの取材で明らかになることであったが、むしろ最初に突撃してきた看護師に少なからず興味を覚えたのだった。


(2009/11/26)


To be continued.