何度でも




1月12日、午前2時、救命病棟。

琴子は好美のベッドのそばに座りながら、何度かうとうとしていた。
それを見た直樹は、仮眠部屋へ行くように進めたが、逆に直樹の身体を気遣われる言葉を聞いただけだった。

「裕樹くんが戻ってくるまでいるって、約束したの。
…邪魔だったら、ごめんね」

救命のスタッフは、邪魔だと思うほどそこまで構っていられなかった。
もちろん今救命のベッドは全てふさがっていて、状態の落ちついた患者から病棟へ移動させている始末だ。
病棟でも専門科も関係なしに空いている所から埋めていくので、大きな負担になっているのは間違いない。
おまけに自宅にいたスタッフもなかなか集まらない。
こんなときなので、家族もちはなお一層勤務とはいえ来られないのだろう。
電車も動かない、車も動かせないとなっては、来ようにも来られないのか。
病院の外に出る機会のないスタッフには、外の様子がまるっきりわからなかった。
聞き伝えで『ひどいことになっている』との言葉だけでは、どんなに想像力をたくましくしても高が知れている。
唯一、関西の地震を経験した者だけがこの実情を把握しているようだった。

直樹の身体も疲れていた。
まともな休憩は食事のときだけで、座ればそれだけ疲労感が押し寄せてくる。その食事でさえ、この状況になっては片手で非常食を食べながらカルテ書きをする。
今となっては食事は命を繋ぐためのものであって、お腹を満足させたり楽しむためではない。
仮眠室に入ったのもつかの間、裕樹と好美が救命に来たのだから。
もちろん今までにもほとんど寝ずに丸二日ほど仕事をしたことはある。
当直明けの仕事などざらにあるのだ。
ただ、今回は事情が違う。
いや、事情など関係ない。
そういう思いが廻る中、救命のドアが開いた。
裕樹とともに駆け込んできたのは、好美の両親だった。
それぞれが泣きはらした顔で入ってきたが、なにぶん夜中であることと、ICUへ入るには身支度を整えなけれければならない。
看護師から説明を受けて、好美の両親はもどかしそうにこちらを見ていた。
裕樹は辛抱強く両親への説明が終わるのを待ち、好美の両親とともに入ってきた。
ベッドの傍らにいた琴子を見ると、裕樹は目を見開いて直樹を振り返った。

「俺が呼んだ」
「…そうなんだ」

琴子は裕樹と好美の両親に気がついて、今まで自分が座っていたベッドのそばを3人に譲った。
両親が好美に呼びかけたりしている間、裕樹は一歩下がってそれを見ていた。

「これからどうするか、まだ決まっていないの」

琴子の言葉に裕樹は唇をかみしめた。

「どこか、被害の少ないところへ搬送するしかないんだけど、搬送する手段が…」

琴子は裕樹の背中を叩くと、にこりと笑った。

「今夜は入江くんがちゃんと見守ってくれる。あたしたちは搬送手段でも考えよう。…ね?」

裕樹が直樹の顔を見ると、琴子の言葉を受け取るようにうなずいた。

「…お兄ちゃん、頼むよ。身内だからって勝手なお願いは許されないってわかってるけど。
好美、助けてやって。お願いだよ、お兄ちゃん」
「…わかってるよ、裕樹」

まだ好美のそばを離れない両親を残し、琴子と裕樹はICUを出た。
器械に囲まれたICUを出ると、二人はほっとしたようにため息をついた。

裕樹はふと気づく。

「あのさ、僕、家に帰ってないんだ」
「うん、一度帰ったら?」
「その、琴子とお兄ちゃんは…」
「…ごめんね、まだ帰れそうにないって伝えてくれる?」
「そうじゃなくて!」
「あ、ごめん、一応災害伝言ダイヤルにも吹き込んでみたんだけど」

裕樹はのん気にこちらを見る義姉を不思議に思った。
いつもなら真っ先に聞くはずなのに、と。

「あいつらや、母さんたちのこと、聞かないんだな」

琴子は無表情のまま、裕樹の顔を見た。

「だ、大丈夫だよ、うちの辺りは無事だったって言うし、火災とか起きてなければ全然平…気…」
「そ、そうよね。だって、あんなに丈夫に作ってある家だから」

裕樹はあまり顔色のよくない琴子の顔を改めて見た。

「琴子、あまり寝てないんだろ?まだ明日も働くんだろ?おまえこそもう寝ろよ」
「うん、ありがとう、裕樹くん。好美ちゃんのことはあたしもちゃんと考えておくから」
「…頼む」
「…もちろん、任せておいて!」

琴子には裕樹の言葉が痛いほどわかった。
もしこれが直樹だったらと思うと、いてもたってもいられない気持ち。
ましてや好美を連れてきたのは裕樹なのだから。

「そ、その代わり、今から一度家に帰って皆のこと見てくるよ」
「…うん、お願い、ね。きっとお義母さんたちには迷惑かけてると思うけど」

誰かを心配する気持ちは、いつでも心苦しい。
裕樹はただうなずいて、救命外来を後にした。


1月12日、午前7時。

桔梗は凝った身体を伸ばして起き上がった。寒さで息が白いのがわかる。
この分では体の弱ったものは風邪をひくに違いないと危惧する。早く電力が回復してくれればいいのに、と。
そばで壁にもたれてウトウトとしている琴子がいた。
途中で何事か呼ばれて抜け出していたのも知っている。このまま寝かせておきたいが、あいにく代わりの者はいないのだ。

「琴子、起きなさいな」

少し揺すると、琴子は寝ぼけた様子で身動きした。頭を少し振って、眠そうにあくびをする。

「ああ、モトちゃん、おはよう」
「よく眠れたって顔じゃないわね。ま、ベッドでもないし、こう寒くっちゃね」
「うん。ねぇ、モトちゃん。昨夜、裕樹くんの彼女が運ばれてきたの」
「へー、生意気に彼女なんているのね。ま、入江さんの弟だから素材は悪くはないけど」

琴子は軽く笑って言った。

「そうね。彼女、好美ちゃんっていうんだけど、クラッシュなんとかで…」
「クラッシュ・シンドロームでしょ。挫滅症候群」
「そ、そう、それ」
「…まずいわね。どうなってるの?」
「とりあえず輸液でつないでる。でも、透析が必要なの。搬送する手段がなくて…」
「病人運んできた救急車に乗せてまた送れば?」
「あまり時間がないの」
「道も悪いし、時間かかるでしょうね」
「うん。どうしたらいいか考えるって、約束したの」

そう言って琴子は立ち上がった。

「…っつ」

一瞬顔をしかめる。

「…何、どうしたの?」
「え、何でもない」
「…何でもないわけないでしょ」
「えー、本当に大丈夫よ」

琴子は後ずさりしながら、問い詰める幹に少し困った表情をしてから笑顔を向けると、
「じゃ、交代に行こうか」
と部屋を出て行った。
幹はその後ろ姿をじっと観察するように見ていた。そして、ふともう一つのことにも気がついた。
そのことを伝えるために、直樹に必ず会いに行こうと心に決めた。もし、直樹がどんなに忙しそうでも、と。
そして自分も仕事を交代するために部屋を出て行くことにした。

部屋を出た廊下の向こうには、朝日が見えた。幸い今日も晴れているようだった。
病棟には人のざわめきだけが聞こえる。一切機械の音がしないのは何年ぶりだろうかと幹は考える。いや初めてかもしれないと思い直す。

また今日も長い一日が始まる。
それでも一分一秒だって無駄にできないのはわかっていた。
今日こそはさすがに非常食以外の物も届くだろう。水は届くだろうか。
電気はまだダメかもしれないが、それでも病院は最優先で修復を施してくれるのだろう。
自分のアパートは無事なんだろうか。
いろいろなことが気にかかるが、まだこの場を出て行くわけにはいかない。

幹は朝日に目を細めながら、通りがかった患者にできるだけ明るく声をかけた。

「おはようございます」

同じように笑顔で挨拶を繰り返す彼女のように。


(2009/07/02)


To be continued.