何度でも



12


1月12日、午後6時30分。

屋上から頭上を見送る。
ヘリコプターが舞い上がっていくところだった。
すでに真っ暗な中、ヘリコプターに点灯している灯りが、どんどん遠ざかっていくのがわかった。
病院関係者はほっと息を吐き、屋上に点在させた灯りを集めて引き上げることになった。


 * * *


まさか、と誰もが思った。
どうにかしなければならないというのは、誰にとっても痛いほどわかっていた。それでもどうにもできない、というのが現状だった。
その話が飛び込んできたとき、救命救急のスタッフはやっと一息ついたときだった。
そんなときに取材なんて勘弁してくれ、というのが本音。もっと言えば、こんなときにまで出張ってくるマスコミはハイエナそのものだ、と。
人の不幸を取材して何になるのだ。我々の奮闘振りだけを伝えてくれるならまだしも、そんな都合のいいことは自分たちだけの特権だとばかりに捻じ曲げて放送されることも少なくないからだ。
正式に院長を通して救急部の部長にまで話が通り、スタッフにもたらされたその話は、単なる取材だけではなかった。
今すぐにでもどうにかしなければならない患者の搬送を請け負う、というものだった。
もちろんそれがただの善意からではないことはすぐに知れる。

「本当に搬送してくださるんですか」
救急部の部長は半信半疑でそう聞いた。
今までそんな例は聞いたことがなかった。

「ええ。その代わり、今の救命の状況と搬送から向こうの病院に着くまでの取材を独占という形で撮らせていただきますが」
「…家族と病院が許可するなら構いませんが…」
「病院側からはすでに許可をいただいております。先ほど院長に確認されたとおりです。家族へもお話がついていることだと思ってましたが」

控え室で待っていた家族に確認しようと看護師が行くと、そこにはすでに涙ながらに女性にお礼を述べる家族の姿があった。
「あの…」
「あ、入江直樹を呼んでくださる?私、直樹の母です」
女性が振り向いてにっこり笑った。
その満面の笑顔にはなんとなく逆らえないものを感じた。
「は、はぁ、わかりました、すぐに」
そう言うと、看護師は踵を返して急いだ。

直樹は小児科に顔を出していた。
地震直後から訪れることができなかった場所だ。
幸い小児科では大きな被害にあった者はなく、ただ穏やかに時が過ぎていた。
もちろん精神的なダメージは計り知れないが、外来で見るようなどうしようもない状態の子どもを見ることはない。もっと言えば、今まで病院に入院していた余命わずかの子どもたちよりも先に死に赴いてしまった子どもたちのほうがずっと多かったのだ。昨日あのときまでは元気だった子どもたちだ。
直樹は努めて明るく病室を回った。
患児は皆家族が来ていて、ちょっとした避難所のような有様だった。

「入江先生」

一通り受け持ち患児の回診を終えた後だった。

「救命から急いで戻ってほしいと伝言が…」
「わかりました」
「…お母様がいらしてるそうです」

少しだけ笑いをこらえた小児科の看護師の言葉に直樹は眉間のしわを寄せた。
なぜ、今、このときに、おふくろが、という疑問と若干の怒りを交えて「後をお願いします」とだけ告げて救命へ駆け下りていった。
看護師には随分と過保護な親だと思われていることだろうが、直樹には病院へ来た理由がわかっていた。
直樹を心配してきたわけではなく(もちろん少しくらいはそれもあるだろうが)、裕樹から話を聞いて好美の心配をしたのだろうし、ただでさえ帰ってこられない琴子が気になっていたのだろう。
それにしても子どもの面倒は誰が見ているのだろうか、と直樹はそちらのほうが心配になった。まさか連れてきているわけではあるまい。

直樹が救命病棟に着くと、大方の話は終わっていた。
母である紀子の提案に一通りの決着をみたようだった。
何がなんだかわからないまま説明を求め、要するに取材だろうと何だろうと搬送の手段が整い、患者である好美を被害の少ない地域(少なくともふんだんに水を使える地域)へ送り届けることができるということだった。
病院の手配も程なく終わったが、どんなに早くても取材用のヘリコプターが飛べるのは午後6時半になるとのことだった。取材用であるがゆえに昼間は各被災地域を空から撮って飛ぶために戻ってくるのが遅くなることと患者を乗せて行くための準備に時間がかかるとのことだった。
それまで好美の容態が急変しないとも限らない。誰もが祈るような気持ちで時間が過ぎるのを待っていた。

それにしても取材用ヘリコプターとは、直樹も思いつかなかった。
医療用のドクターヘリは、この東京でさえ限られていて、現在は飛んでいるかどうかも定かではない。そうでなくてもこの状況では一病院の要請に応えることも無理かもしれない。
「元はと言えば、琴子ちゃんがアタックしたのよね」
紀子の言葉に直樹はカルテから一瞬目を上げた。
紹介状を作成するのに手書きしていたが、当たり前のように直樹のそばのいすに座って待っている紀子に目を向けた。
「琴子が、何を?」
思わず警戒して尋ねた。
今まで数多くの騒動を起こし、その結果として偶然うまくいったこともある。妊婦を乗せて無免許無謀運転の末、逆子が治っていたり、それに驚いて立てもしなかった患者が立てたり、とか。
「琴子ちゃんたら、自分は悪く言われてもいいから、取材用のヘリコプターで好美ちゃんを運んでほしいって頼んだのよ」
「悪く…」
「だって、そうでしょ。琴子ちゃんはそりゃ好美ちゃんのお姉さん同然ではあるけど、なんと言っても看護師さんでしょ。他にも患者さんはたくさんいるのに、優先してほしいって頼むのよ。そんなことを他の患者さんが知ったら、当然琴子ちゃんが非難されるに決まってるでしょ」
直樹は黙ってカルテを書き続けた。
いつだって琴子は自分の不利益を考える前に行動する。それがいいことであれ、悪いことであれ、直樹には…いや他の者にもなかなか真似できない。
先を考えると躊躇することでも後先を考えずに行動する。いつだって迷惑なはずなのに、それをうらやましいと思う自分がいる。かなわないと思う自分がいる。
だからこそ、直樹にとって琴子は唯一無二の存在なのだ。

そして手配が済んだところで、どこに着陸するかが問題になった。
広い場所は限られていて、そういう場所はすでに臨時の救護所になっているのだ。
となると屋上しかないが、斗南大病院にヘリポートは備え付けられていないし、誘導用の灯りも当然ない。
冬場の午後6時半といえばすでに外は暗いので、なんとしても誘導用の灯りを設置しなければならない。

「し、失礼しまぁす」
遠慮がちに琴子が入ってきた。
「また夜勤の時間までは休憩なの。どうしてもスタッフが全員揃わなくて、家に帰るのは難しそうなんだけど…」
残念そうにそう言った。
「主任さんは帰っていいって言ってくれたんだけど、この分だと夜に帰るのはちょっと危なそうだし。そ、そりゃ子どもたちも心配だけど…」
「わかってる。おふくろもわかってるから」
「あれ、そういえば、お義母さんは?」
「家も心配だからってもう帰ったよ」
「そ、そっか。ご両親も裕樹君もいるもんね」

「失礼します」
横から看護師が好美のベッド脇に立っている二人に近づいた。

「入江先生、やはり着陸場所は、救命の位置から考えても隣の棟の屋上がいいんじゃないかと」
「そこまで担架で運ぶしかないですね」
「はい。まだエレベータは使えませんので。それに誘導灯をどう設置したらいいか」
「そうだな…」

救命病棟の看護師との会話を聞き、琴子は首をかしげた。
「ゆうどうとうって、何」
「着陸場所がわかるように飛行場でも灯りがあるだろ」
「ああ、それかぁ。今ある灯りって、懐中電灯とかろうそくくらいだもんね。電気はまだほとんど付かないし。とうとう非常灯も消えちゃったみたいだし。電気、明日には回復するかなぁ」
琴子のつぶやきを聞いて、直樹は先ほどの看護師を呼んだ。ランタンのようなものが調達できるか聞いてみてほしいと伝えた。
「蝋燭じゃヘリコプターの風圧で消えるだろうし、懐中電灯では弱いだろう。無理だったら懐中電灯しかないだろうが、固定するのも手間がかかる。移動できる照明も電気がきていないんじゃ仕方がないしな」
「ランタンって、夜に外でバーベキューするときに使ってたようなものだっけ」
「ああ。それなら今は電気の代わりに使ってる所もあるだろうから。ただ、その程度の灯りで代わりになるかどうか」
本来夜間飛行はかなり危険を伴うため、ベテランの飛行士でもあまり飛ばないのだと言う。しかも専用へリポートのない斗南大病院への着陸は難しくなるだろう。ましてや照明となる灯りが少なすぎるし、障害物の確認もできるかどうかわからない。
「…なると、いいね」
琴子の祈りにも似た言葉に、直樹はこの搬送に関わる人々の陰なる尽力を感じた。
取材とはいえ、それでも搬送に協力を示したテレビ局。打算があろうとありがたいことには違いない。打算や批判など、命に比べたら小さなことだ。

直樹は腕時計を見た。
ヘリコプターの到着まであと1時間弱。それまでに好美を屋上まで運び、灯りを設置しておかなければならない。
「向こうの病院までは、誰が付いていくの?」
「別の先生だ。透析も扱えるから、向こうでも手伝うつもりだからって」
実際、直樹が付いていくつもりだった。
ただ、それでは外科も処置できる医師が一人減ることになる。
その医師は、直樹に残るように勧めた。私なら一日いなくても患者には大きな影響はないから、と。
地震直後から運ばれてくる患者は、時間が経つにつれて重症化してくる。すぐに外科的処置が必要な患者も多い。
おそらく瓦礫の下から助け出された者がようやく今になってここまでたどり着くことができたということかもしれない。
直樹のようにどんな外科もこなせる医師が、今は救命に不可欠だった。
その医師が決して無能なわけではない。直樹よりも経験年数は上なのだ。ただ、今は生かせる段階にないというだけだ。そしてもちろん『一日いなくても』いいわけではないが、そういう気遣いがうれしかった。
「裕樹君は」
「一緒には無理だな。多分好美ちゃんの両親と一緒に向こうの病院へ行く準備を始めてるだろうと思う。どのルートで行くのか知らないが、多分それを調べていろいろ連絡を取っていたからな」
「さすが裕樹君だね」

慌しい空気に包まれたまま、ICUでは搬送の準備に余念がない。
その間にも好美の容態は刻一刻と数値を変化させていく。
好美のベッドの周りには、好美の母と裕樹がいた。
直樹は好美の容態が安定して搬送できるように打ち合わせを繰り返している。
琴子はその様子をただ見守るだけで、時間が早く過ぎるのを願った。
一刻も早く安全に搬送されますように、と。
この病棟では琴子に仕事はない。
看護師としての能力もあるが、やはりここでは部外者なのだと感じる。
たくさんの機械が患者を囲み、絶えず機械音がひしめく場所。
間を仕切るものはカーテンのみで、広々とした空間のはずなのに、ここへ来ると少し息苦しく感じる。

「ヘリコプターがまもなく到着しますので、搬送します。」
静かに看護師が家族に告げた。
いつの間にそんな時間が経ったのだろうと琴子は時計を見上げた。
名残惜しそうに別れを告げ、家族は後ろに下がる。琴子も例外ではない。
あちこちから人が集まり、まずはストレッチャーに。階段で担架に替えるため、ストレッチャーにはすでに担架が置かれている。
力のある男性たちが屋上まで運んでいかなければならない。屋上まで、いったいどれくらいの階段を上らなければならないのか、誰も口にはしない。
裕樹は担架移送の手伝いを申し出ていた。
「好美ちゃん、元気になって戻ってきてね」
琴子はそれだけを言うのが精一杯だった。
屋上へと運ばれていく好美は、苦しい中で笑顔だけをこちらに向けた。

巡業のように黙々と階段を上っていく人々の中ほどに琴子はいた。
直樹はおそらく一番先に上っているはずだった。
階段の上のほうから掛け声が聞こえたり、時折階段を上る列が止まったりもした。
人一人を上にまで運んでいくことが、どれほど大変なことなのか思い知らされたくらいだった。
やがて琴子が屋上入口にたどり着いたとき、すでに好美はヘリコプターに乗せられる所だった。
琴子は屋上のまぶしさに目を細めた。ヘリコプターの照明と皆が必死でかき集めたランタンの灯りだった。
「好美!」
ガタンと扉が閉まると同時にエンジン音が響き、風が巻き起こる。取り巻く人々の中から裕樹の声がしたが、それも風でかき消されるようだった。
ヘリコプターは病院関係者や家族が見守る中、思ったよりあっという間に舞い上がっていった。


 * * *


琴子は寒い中、なかなか屋上から立ち去ることができなかった。


(2010/01/18)


To be continued.