何度でも



13


1月12日、午後7時。

一人屋上で残っている琴子の姿を直樹は見つけた。
他の病院関係者はすでに元の持ち場へ戻っていったようだった。
琴子の周りで息が白く霞んで見える。
空を見上げ、ぼんやりとしていた。
直樹がそっと静かにそばに寄ると、琴子は直樹を見て微笑んだ。

「入江くん」

そっと出したような声は、寒空の下でくぐもって聞こえた。

「…疲れただろ」
「入江くんこそ」
「本当ならコーヒーでも飲みたいところだな」
「…もう売り切れだもんね。
水も出ないし。ペットボトルのお茶か水だけ。ガスも使えないし、電気も使えないからお湯も沸かせないし、昼に食べた炊き出しの雑炊だけが温かかったなぁ」
「おまえのことだから、あれくらいじゃ足りないだろ」
「うん、て言いたいところだけど、そんなにお腹空いてないの」
「ちゃんと食べろよ。食べられる機会があったら、遠慮するな。俺たちが倒れたら、困るのは患者だ」
「うん、わかった」
「ちゃんと眠れてるのか」
「入江くんは?」
「俺はいつものことだから、これくらい何ともない」

家のことを口に出したかったが、お互いにあえて口に出さなかった。
子どもが、家族が、家が、それぞれ無事だとわかっただけでも贅沢なことだと知っていたから。
口に出せないほど心配で、胸が痛くなるほど会いたいから。

「寒いんだけど…でもまだ戻りたくなくて」

白い息を吐きながらまた空を見上げる。
どこにこんな星が潜んでいたのかと思うほど、よく星が見えた。
雲に時折隠れる月だけが灯りの夜。
まるで山に登った時のような静けさと暗さ。

直樹は琴子の肩を抱き寄せると、後ろから一緒に星を見上げるようにしてしっかりと抱きしめた。

「東京に、こんなに星があるなんて思わなかった」
「そうだな」
「あたし、何にもできなくて」
「そうか」
「本当に役に立ってるのかわからなく、て…」
「うん」
「本当は…帰り…たい」
「そうだな」

抱きしめていた直樹の手に、ぽたりぽたりと水滴が落ちる。

「みんながんばってるから、そんなこと言えなくって」

直樹はただ黙って琴子の頬に手を添えた。

「い、入江くんに、いろいろ言いたかったけど…けど…、ゆっくり話もできなかったし、あたしも入江くんもそれどころじゃなかったし」
「…悪かった。おまえが何か言いたそうにしていたのは知ってた」
「入江くんって、ずっと呼んでたの。入江くんもがんばってるからって、あたし…」
「今は誰もいないから、遠慮するな」
「…入江くん…」

堰を切ったように泣く琴子を抱きしめながら、直樹は息を吐いた。

「俺もずっと呼んでた」
「ホント…?」
「俺はおまえが思うほど万能じゃない。
いつもなら助けられたかもしれない人も、助けられなかった。
薬とか機械とかがなければ、だめなこともたくさんあった。
ちょっと仕事ができるようになったと思ったんだが、所詮全部万全に揃ってのことだったんだ」

本当になんて思い上がりだったんだろうと直樹は思った。
CTも使えない、モニターも一時的に動かない状態で頼れるのは、触診や聴診といった医療者本来の技術のみ。
それでも、それ以上のものがなければ、やはり患者は助からないという矛盾。

「おまえが、同じ場所にいてよかった」
「うん」
「…琴子」
「…痛いよ、入江くん」

強く抱きしめた後で、琴子が肩を痛めているのを思い出した。

「もう少しだけ、我慢しろよ」

少し笑って合わせた唇が冷たくて、温まるのを待つかのようにゆっくりとキスを繰り返した。
灯りもない寒空の下では、あまりにも人は無力で小さい。
お互いの体温だけが生きている証だった。


1月13日。午前10時。

ようやく電気が回復した。
ガスはまだ使えないようだが、機械のメンテナンスも徐々に進んできている。
スタッフも少しずつ出勤してきている。
琴子と桔梗幹は、被災後初めてゆっくり休憩することを許された。

「あたし、一度家に帰ってみようかと思うの。途中の道がふさがって時間かかりそうだったらあきらめて帰ってくることにするから」
「真里奈の話だと、ふさがってるどころじゃないみたいだけど」

品川真里奈は、今日になってやっと出勤してきた。
自宅は倒壊を免れたものの、自宅周辺が瓦礫で埋まり、人々を助け出すのに精一杯だったのだと言う。

「モトちゃんはどうするの」
「そうね。帰っても誰か待ってるわけじゃないし、食料も水もないし、病院にいたほうがよほどましかも。
そう言えば、さっき啓太に会ったわよ」
「啓太も病院にいたの?」
「いたみたいね。一緒にロビーのテレビ見てたんだけど、俺の家燃えてるな〜ですって」
「ええっ」
「冗談かと思ったら、ちょうど近くで火災があったらしくて、テレビのニュースで映してたって。あの安普請のアパートじゃ無理もないわよ」
「…大変だね」
「ま、あいつも一人暮らしだから、たいしたものは置いてないでしょうけど。たまたま病院にいたから助かったのかもしれないしって、さばさばしてたから大丈夫でしょ」
「そっか」
「船津先生は家族の反対を押し切ってようやくご出勤よ。真里奈の様子を見に行こうとして遅れたみたいね。
情熱的というか、そんな暇があったらさっさと出勤して来いというほかの先生方の気持ちもわからないわけじゃないけどね」
「智子は?」
「手術室に入りっぱなし」
「…趣味と実益を兼ねてるのね」
「そう、不謹慎なようだけど。自ら人手の足りない手術室に志願して、文句ひとつ言わずに働いてるらしいわ。
その趣味はほめられたものじゃないけど、やることは同じだものね。あたしだったらとっくに音を上げてるわ」

琴子は仲のよい同僚たちの近況を知り、安堵のため息をついた。

「じゃあ、入江くんのところ寄ってから行ってくる」
「そう、気をつけて。…やっぱり一緒に行ってあげましょうか?」
「ううん。もしもあたしが帰ってくるのが遅れたら、代わりに仕事してもらわなくちゃ」
「あら、この貸しは高いわよぉ」
「大丈夫。すぐ帰ってくるつもりだから」
「…本当に、気をつけてよ」
「うん。じゃあね」

琴子は一人救命へと足を運ぶことにした。
救命の裏出口で、口論が聞こえた。前にも聞いたことがある、と思いながら足を止めた。

「だから、私が行きます」
「いくら通行止めでも、医薬品運搬車は優先的に通してもらっているはずだ」
「でも実際に届かないじゃないですか」
「それは向こうの都合だろう」
「だから、救命も病棟ももう一刻の猶予もないんです。
部長が言って届くなら、もうとっくに届いていいはずです。
同じように先を争って薬品を待っている救護所はたくさんあります。輸送システムが崩壊したんですから、待っているだけじゃ何も変わらないんです」

琴子は口論の中心となっている話をようやく理解した。
薬品が、届かないのだ。
たくさんあったはずの薬品が、日を追うごとに減るのは当たり前だ。しかも届けるほうもここまで道が遮断されてしまっては、車も通れないし徒歩で移動するのも並大抵のことじゃないだろう。いつもなら届ける役の人ですら被災者なのだから。
同じように看護する者、救助する者、復旧させる者、稼動させる者、すべてが同じように被災者であり、同じように家族がいて心配しつつも動いているのが現状なのだ。
琴子は止めた足を動かして、その口論をしているものたちへと向かった。

「あの、あたし、今から病院の外へ行くんです。もし、薬品会社さんの車がどこまで来ているのか教えていただければ、ついでにもらってきます」
「あなた、誰」
「外科病棟の看護師の入江琴子です」

琴子はこちらを見た鋭い目の主に目を向けた。白衣の名札は東郷。外来で飲み水を使おうとして怒られた記憶がある。

「ああ、あの有名な」
どう有名なのかはさすがに聞かなくてもわかった。
「お断りするわ。あなたみたいな看護師に頼むくらいなら、一人で行くほうがましよ」
「東郷くん、君一人でも行かせるわけにいかない。誰か他のものを連れて行きなさい」
「…わかりました、部長」

薬剤部の部長がそう言い残したにもかかわらず、東郷はすでに準備をしていた見え、鞄を肩にかけて出かける準備を始めた。
琴子には目もくれず、さっさと救命の裏手から出て行った。

(2010/02/05)


To be continued.