14
1月13日、午前10時30分。
「じゃあ、行ってくるね」
「無理するな」
「うん」
いつもより心配そうに見守る直樹に手を振り、琴子は救命の入口を出て行った。
ドアが閉まる瞬間、肩越しに見えた直樹は、まだ琴子の背中を見送っていた。
琴子は冷たい空気を吸い込んで、病院の敷地から歩いて出て行こうとしていた。
病院周辺の駐車場にも車は多く、変わらず外来に人は訪れている。
ただ違うのは、いつものようににぎやかしい日常の風景ではなく、着の身着のままのような格好の人々の姿も多い。周辺に見えていた建物もどことなく霞んでいる。
晴れてきた空を見上げ、琴子は昨夜飛んでいったヘリコプターを思い出していた。
無事に着いて治療に入ったと先ほど聞いた。
もしも透析が必要な患者がいるならどんどん送ってもらって構わないという協力体制も取れた。水が供給されるようになるまでは、紹介することになるのだろう。
裕樹からまだ連絡はなかった。
東京から遠隔地への移動は、まだ困難ということかもしれない。
斗南大学の敷地の中はいたって平穏に見えた。
もちろんそこかしこに崩れたものや人々が敷地内に住み着いているかのような風景は、今までになかったものだ。
琴子は斗南大学の敷地の外へ地震後初めて出た。
そこは、見慣れた風景は跡形もなく、ビルは傾き、崩れ、窓ガラスが散乱し、落ちてきたであろう看板に車がつぶされていたりと惨憺たる有様だった。
門の内から一歩も動けずにその光景を目にし、かろうじて人が通れるように片付けられた歩道の一筋を見つけて歩き出した。
ここを皆は通ってきたのだと、琴子は踏みしめるようにして歩いた。
こんな光景は見たことがなかった。
街であったはずのものが、一瞬にして廃墟のようになったのだ。
斗南病院は幸いにして被害が少なく、大学の敷地も広かったために外の世界が見えていなかっただけなのだと知った。
被害の割りに救急車が少なかったのは、こういうことだったのだ。
道路は盛り上がったり、ひび割れたり、まともに車が通行するのは困難だったのだ。
琴子は唇をかみ締めて、家へ向かって歩き出した。
どれくらいかかるのかわからない。
いつもは電車で数分で通ってくる道を、慎重に道を探しながら歩いた。
大通りに出たところで多少車が通れるくらいの道幅があった。
脇には乗り捨てられたような車があり、おそらく乗りたくても乗っていけなかったのだろうと思われた。
通りに沿って歩いていけば、多分大丈夫だろうというくらいの気持ちで歩いていたが、線路を見失わないようにするのは大変だった。
いっそ線路上を歩いたほうが間違いがないかもしれないと思い始めたとき、何やら懸命な声が聞こえた。
「もう少しですからね」
「引っ張れ!」
その声につられて琴子は道を外れた。
屋根が崩れた物置の下に挟まれた人の姿があった。
「大丈夫ですか!」
琴子も思わず駆け寄って引っ張り出す手助けをした。
ほこりにまみれたその顔は苦痛にゆがんでいたが、男一人、女二人の力でなんとか助け出すことができた。
「…ありがとうございました」
挟まれていた足をさすり、年配の男は頭を下げた。
「荷物を少しでも取り出そうと…探っていたら倒れてきて…」
琴子はそのまま挟まれていた足に触れてみた。もしかしたら折れているかもしれないと顔をしかめる。
心配そうに同じく覗き込んでいる男に向かって顔を振り上げたとき、女と目が合った。
「…あ」
「え」
お互いに今気がついたというように声を上げて押し黙った。
朝、薬剤部長と口論していた薬剤師の東郷だった。
しばらくの沈黙の後、病院へ連れて行こうかという男の言葉に琴子は我に返った。
「そうですね、骨折しているかもしれません。挟まれてからどれくらい経っていましたか」
「そうだな、30分もたっていないと思う。崩れたのが見えてすぐに駆け寄ったから」
「…よかった。斗南大病院ならすぐですし、治療してもらえると思います。でも挟まれていたことを必ず伝えてください」
「わかった。じいさん軽いし、俺が負ぶっていく。手伝ってくれてありがとうな」
「…いえ」
琴子は好美の助け出された時の状況を繰り返すまいとしていたのに、思わず確認もせずに引っ張り出したことを悔いていた。
すぐに負ぶって去っていく男の姿を見送り、琴子は唇をかんだ。
「…あたし、本当にダメな看護師…」
その言葉にほこりを叩いて立ち上がった東郷は振り返った。傍らに置いたクーラーボックスを持ち上げる。
「なんで?助けたじゃない」
「ううん、本当はどれくらい挟まれてたか確認してからじゃないとクラッシュ症候群は防げないのに」
「…ああ」
東郷はそのまま昨夜の出来事を思い出していた。
テレビカメラも入って大々的に放映されていたのを見た。
看護師の名前は伏せられていたが、交渉したという看護師の噂は病院関係者の間で密かにささやかれていた。
よい噂も悪い噂も一緒くたになって病院内を駆け巡る。
患者の耳に入れば後で責められることもあるだろうと東郷は思っていた。
重そうに肩にかけたクーラーボックスがカタリと鳴った。
その音に琴子は気がついて立ち上がった。
「あの、どこまで行くの」
「道路規制されていないところまで」
取り付くしまもない東郷に琴子はため息をついた。
その後姿が遠ざかっていこうとしたとき、はっとしたように東郷の後を追いかけた。
東郷は元の道へ戻ろうと歩きながら、肩にかかるクーラーボックスの重みを感じていた。
実際に規制場所まで行って製薬会社の車が待っているとは限らない。出てくる前に確かめた電話では、その辺りまでは来ている、という話だった。
斗南大病院までの道の途中には、区の設ける緊急時救護所があり、そこへ先に寄っている可能性がある。大学病院の者たちは、救命センターのある場所は最優先で薬が届けられるものと考えているが、東郷にはそう思えなかったのだ。
食料配分も随分と偏っていて、全ての避難所に平等に分配されていないことも知った。
崩れた家の前に張り紙がひらめいていた。
つい足を止める。
この家の住人は、家が崩れたので近くの避難所にいるという知らせだった。
自分の家を見に行きたい衝動に駆られる。
しかし、今見に行ってしまえば、職場に戻るのをためらうかもしれない。
逆に帰る場所がなかったら、と考えるのも怖かった。
実際に外の様子を目の当たりにして、自分の家だけ無事であるという保障はなさそうだった。
趣味で買い集めたベネチアングラスが粉々に砕けているのを見たら、当分立ち直れそうにない。
そんなことを考えていた東郷の耳に「待って!」と追いかけてくる琴子の声が聞こえた。
構わず先を進もうかと思っているうちに、意外にも早く琴子が追いついた。
仕方なく振り向く。
「何か?」
「あの、途中まで一緒に行ってもいいかしら」
「は?」
「…どこを歩いたらいいのかわからなくなっちゃって」
そのまま東郷は言葉を失った。
なんて間抜けなことを言っているのかわかっているんだろうか。
「自分の家に帰るんじゃないの?」
「そうなんだけど、いつも電車でしょ。数駅とはいっても、あまり歩いたこともないからわからなくて。それに、いつもと様子が違っちゃって…」
東郷は周りの様子を見渡して一応納得した。
確かに目印になるような建物が崩れていたり傾いていたり、道路も真っ直ぐには歩けなくて、東郷自身もいちいち確認しなければ道を進めない。
「あなたの行く先と私の行く先が同じなわけじゃないし」
「それはもちろん。だから、途中まで」
屈託なく笑う琴子に半ばあきれて、東郷は何も言わずに歩きだした。嫌ともダメとも言わないのを都合よく解釈したのか、琴子は東郷の後をちょこちょこと歩きだした。
(2010/05/25)
To be continued.