15
1月13日、午前11時30分。
琴子は東郷の後を歩いて、彼女の姿を見ながら考えていた。
きっと優秀な人なんだろうと思われ、こんな瓦礫同然の街の中を颯爽と歩く姿はかっこいい。
それに助けを求める声に応じる優しい面と斗南大病院で困っている医師たちのために自ら薬を取りにいくと言う潔さも持ち合わせている。
それでも一人で薬を取りに行くというのは、結構無茶なことをする人だ、とも思う。
「どうして一人で行くの?他の人と一緒に行ったほうが安全じゃない」
ついそう口にした。
東郷は琴子の言葉に振り返りもせず、不機嫌な声で答えた。
「いないからよ」
琴子はずり落ちそうになった鞄をかけ直しながら聞き返した。
「いないって?」
「家族持ちが多いから、ほとんどが家に帰ったまま戻ってこないのよ」
「ああ、なるほど」
「医師や看護師は皆働いているというのに。情けないわ」
「いない人も多いわよ」
「でも戻ってくるでしょ。
薬を失くした人だっているから、私たちの役目はあるはずなのに、肝心な薬がないからって。取りに行こうって言う人もあまりいないし」
「でもあなたみたいな人もいるんでしょ」
「それなら自分で行けばと言われたからよ。道が悪いだろうから、若い方がいいだろうって」
それでも琴子は知っていた。
薬剤部長に自分が取りに行くと言った東郷の言葉を。
それを思い返して、東郷に気づかれないようにこっそり微笑んだ。
東郷は、後ろをついて歩いてくる琴子にあまり関心はなかった。
もともと人に対する関心度が薄い上に、愛想良くすることが媚を売るようでできなかった。
それでも何かと話しかけてくる琴子の言葉に答えながら、うんざりしてきた景色を考えずに済んだ。
あの有名な外科医の妻というだけで、あまり芳しい噂を聞かない看護師。あの救急の現場で一体何の役に立ったのだろうとすら思っていた。
「うわっ…と」
ザザッと音がして鞄が下に落ちた音がした。
そのまま振り向かなければよかったと後で思ったが、東郷は振り返ってしまった。
顔をしかめながら鞄を拾っている琴子が、振り向いた東郷と目が合うと、驚いて照れ笑いをした。
「えーっと、ごめんね」
そのまま気にせず歩いていけばよかったのだが、何か違う気がしてもう一度琴子を見た。
「…肩」
はっとして琴子が左肩を押さえた。
「痛めてるのね」
「えーと、大丈夫。ちゃんと処置してもらったから」
それでも、先ほど瓦礫の下から人を引っ張り出したときにさらに痛めたのだろうと思われた。
多分自分がけがをしていても同じことはしただろうが、それでも痛めた方をかばうことくらいするだろう。
「どうして逆の肩で持たないのよ」
至極当然と思われることを東郷は口に出した。
「ついうっかり怪我してる方に鞄かけちゃって…」
東郷はため息をついて歩き出した。
心配して損をした気分だった。
その気分が出てしまったのか、後ろから琴子がついてくるかどうかも気にせずにどんどん歩いた。
やがて川に差し掛かり、東郷は渡れる場所を探した。
何せ橋が架かっている辺りで車が押し合ったかのように埋まっている状態だったからだ。
地震の際に停車したのか、本当に押されたのか、後から来た車で埋まったのかわからなかったが、この様子では車でこの橋を渡るのは無理のようだった。
もちろん橋はここ一つではないが、少なくとも病院に一番近いこの橋が使えなかったことは確かだった。
後ろにいた琴子はこの橋を見て、車を乗り越え始めた。
「ちょっと、そんな風に乗ったら車がへこむじゃない。後から訴えられるわよ」
つい慌てて琴子を止めた。
「でも、邪魔してるのはこの車でしょ。本当は地震のときって車は端に寄せて鍵つけたままにしてって聞いたけど、どれも守ってないし」
東郷は琴子がそんなことを覚えていたことにも驚いたが、どちらにしろ他の橋を探すのも時間の無駄だと判断して、車の隙間を移動して無理なところは乗り越えることにした。
二人で黙々と乗り越えていると、車の上に立ち上がった琴子が叫んだ。
「ねえ、あれ、製薬会社の車じゃない?」
橋の向こう側に見える白いワゴンには、確かに製薬会社の名前が見えた。
子どものようにはしゃいで立ち上がった琴子を見ながら、同じように立ち上がってみた。今度は人の車の上だという抵抗もなかった。
何度か車の上を乗り越えているうちに、今この非常時に常識を振りかざしても意味のないこともあるのだと悟った。
琴子が振り向いて東郷に笑いかけた。
「少なくともこの橋の向こうにいるかもしれない」
もう薬はないかもしれないと思いながらも、俄然足に力が戻った。
この車の山もあと数日したら撤去されるかもしれない。
こんな風に車の上に乗ることなど一生ないと思っていた。
東郷は何故だか笑みを漏らして橋の向こうへと足を進めた。
白いワゴンはほこりで薄汚れていた。
窓の一部にはひびが入り、ここまで来た行程の困難さを物語っていた。
橋の向こう側にようやくたどり着いた琴子と東郷は、今まで通ってきた道と変わりのない光景だと思っていたが、やけにがらんとした場所があることに驚いていた。
おそらく橋のこちら側では火事になったのだろうと思われる焼け焦げた跡。
まだ煙の臭いも生々しいその場所に、ワゴンがいくつかあった。
やはり橋が通行できなかったためか、電力会社やガス会社などの車も置かれていた。
一部工事車両が車を移動させようと試みた跡すらあった。
「…大変だったんだ」
そうつぶやいた琴子の言葉に東郷もうなずいた。
病院の中も大変だった。それは確かだ。
それでも火災はほとんどなかった。厨房以外ほとんど火を使う環境にないからだ。
キャンパスは広く、大学の建物は耐震構造で、全てが崩れ落ちることもなかった。
車も駐車場以外を走り回ることもない。
橋の向こうとこちらでこれほど景色が変わるのかと驚くことしかできなかった。
「橋が落ちなくて幸いだったわよね」
琴子はそう言って製薬会社の車に近づいた。
車に誰も乗っていないかもしれないと思ったが、車の中に一人寝ている人がいた。
車の窓をたたき、中の人を起こした。
「あの、斗南大学病院のものなんですが」
「ああ、はい」
東郷が前に進み出て、自分の身分証明証を見せた。
琴子は自分を証明するものがないことに気付いて、何かないかと鞄の中を探っていたが、定期券くらいしかなかったのであきらめたようだった。
「一人が橋を渡って届けに行ったはずなんですが、届いていませんか」
東郷のクーラーボックスを見て、製薬会社の作業服を来た男はそう言った。
「…わかりません。道の様子がかなり違ってしまっているので、すれ違ってしまったかもしれませんが、今朝までに薬は届いていませんでした」
「そうですか。ここまで来るのもやっとの有様で、今朝ようやくたどり着いたわけなんですが、同じように薬を受け取りに来た人たちがいて…」
「では、うちに届く分は…」
「足りない、と思います。申し訳ないんですが」
「緊急薬品だけでも今ありませんか」
「会社にあった分だけでもと在庫を全て手分けして運んでるはずです。あとは被害のなかった地域から届き次第になると思いますよ」
「うちでも在庫分はもうないんです…」
東郷の沈んだ声に琴子は黙って会話を聞いていた。
「医療救助隊や自衛隊が動いているので、そこから直接搬入になるかもしれません」
「空輸…」
「道がこんな有様なので、空からしか荷物の輸送ができませんからね。あとは人の手で運ぶしか…」
「私は…無駄足だったというわけですね」
「そんなことは…。
大きな震災が起こるたびにもっと輸送手段などを確保すべきだという声はあるんですが、ヘリも限られてますし、全ての医療機関に同じように配布するのは無理なんです。斗南さんには何度か社員が向かったはずなんですが、どうやら途中でいろいろあったらしくて」
琴子はそこで初めて口を出した。
「あの、早く送ってもらえるように連絡は取れませんか」
「連絡ですか…」
「入江さん、口出ししないで」
「でも、せっかくここまで来たんだから」
「いや、でも、待ってください。先ほど第一さんの車が確かあの辺に…」
そう言いながら辺りを見渡し、車列の向こうを指した。
「あ、ほら、あれ…」
そう言いながら製薬会社の社員は走っていった。
走り着いた先の車の中から違う会社だと思われる社員が出てきて、何事か話している。
二人が近寄っていくと、車から出てきた社員が車のトランクを開けて薬の箱を取り出した。
「斗南病院さんですね。注文品とは違うかもしれませんが、少しならここに」
「…いいんですか」
東郷は肩にかけていたクーラーボックスのベルトをぎゅっと握った。
「ええ。届けようにも人が足りないし、うちも同じように一人は届けに伺ってるんですが、運べる量にも限りがあって…。道もこんな状態ですしね」
「私がいただくことによって、困るところはありませんか」
「…あるかもしれません。でも、届ける場所が被災してる状態ですし、確実に治療してくださる斗南さんなら納得してくださると思います」
「…ありがとうございます。いただいていきます」
「よかった…。ありがとうございます!」
琴子も同じように涙ぐみながら頭を下げた。
東郷はクーラーボックスを地面に下ろすと、震える指でふたを開けた。
どうして震えるのだろうと思いながら。
ぱちんとふたが閉まる音がしてから、東郷は立ち上がった。
「あの、ありがとうございました」
最初に声をかけた社員にも頭を下げた。
別の会社にもかかわらず声をかけてもらったお陰で薬を分けてもらうことができたのだ。
「とんでもない。こちらこそ何もお役に立てなくて」
「いえ、十分です」
東郷は、クーラーボックスを再び肩にかけて来た道を戻ることにした。
「私、病院に戻るから」
「うん。皆によろしく」
東郷は少しだけ迷ってから、琴子に言った。
「…ありがとう、気をつけて」
その言葉を聞いた琴子は、途端に涙をあふれさせて言った。
「ありがとう!気をつけるから!ありがとう!」
「ちょ、ちょっと、またすぐ戻ってくるんでしょ」
盛大な涙に引き気味になりながら、東郷は後ずさった。
「東郷さんも気をつけて!」
歩き出した東郷の背に、琴子の声が響いた。
なんて大きな声なのかしら、恥ずかしい…と思いつつ、ふと気がついた。
いつの間に、名前…。
東郷は橋を再び渡りながら、琴子が無事に戻ってくるようにと願ったのだった。
(2010/08/30)
To be continued.