何度でも



16


1月13日、午後2時。

電力が戻り、いつもと同じように流れている時間の中で、処置が終わって手を洗おうとした直樹は、手洗い場の前で一瞬躊躇した。
足元のポンプを踏んで、ちょろちょろと流れ出る水でなるべく手早く丁寧に洗う。
いつも出てくるはずの蛇口から水はまだ出ない。
スタッフが交代で給水車から水を汲んで運んでいるのだ。
医療の現場では水は欠かせない。
手洗いしないわけにはいかないし、先だっての透析等の治療にも必要だ。
トイレも不衛生なままにしておくわけにはいかない。
トイレはボランティアが交代で使い古した水を使って洗い流してくれているはずだ。
水洗トイレもいざとなると使えないとは、災害が起こる前は思わなかった。
病院の外では、下水道設備を使って簡易トイレを設置しているようだが、病院の中はそうもいかない。動くのも大変な患者ばかりだからだ。
外科処置も災害直後に比べれば一段落したようだった。
先ほども余震で崩れた建物の下敷きになったという老人が運ばれてきたが、幸いすぐに助け出されたせいもあって打ち身はあったが体調には変化がないようだった。
斗南大学病院に運ばれてくるのはまだましなほうで、運ぶことさえままならない患者も大勢いたという。
やっと運ばれても既に手遅れだったり、機器の調子が戻っていなくて手の施しようがないことすらあった。
琴子に吐いた弱音は、スタッフの前では口にしていないが、スタッフが弱音を吐いたときには黙って聞くことにしている。
皆、家族との電話には「大丈夫」としか言わない。必要以上に心配をかけたくないからだ。
弱音を吐ける場所があること。
それが今の状態の中で精神状態を保つのにどれだけ必要なことか、直樹にも良くわかっていた。
いつもは馬鹿正直でずうずうしいくらいの琴子が、何も口にしないで平気を装い、いつもの表情を取り繕うなどということができるとは思っていなかった。あの琴子ですらそれでもそうしないとゆらゆらと揺れる大地に立っていられなかったのだとわかったとき、この世界は想像以上に儚くてもろいのだと痛感したのだった。
誰もが不安を抱え、この先の未来をどうやって生きていくのか考える暇がなかった。
ただ必死で命を繋ぎ止めることだけが今を生きることだった。
考え始めるとキリがない。
様子がわからない外の世界へ出て行った琴子のことを考えると、それは心配で仕方がなかったが、少しだけほっとしていた。
この戦場のような世界にずっと閉じ込められる精神状態がいいはずがない。
もちろん外へ出て行っても状況が変わることなどないのだが、少なくとも他人のために無理に笑顔を作る必要などない世界だ。
いつになったら普通の生活に戻るのか。
さすがの直樹にも予想はつかなかったのだから。
使い捨てのペーパーで手を拭くと、処置室の入り口に見慣れない姿を見た。
患者の家族かと思い、他のスタッフが尋ねる。
直樹と目が合うと、その人物は軽く会釈した。

「入江先生」

少しだけほっとしたような、それでいて微かに憂いを秘めたその人物は薬剤師の東郷と名乗った。

「何か」
「私、先ほどまで入江琴子さんと一緒だったんです」

言われた意味を考えている間に、東郷は口を開きかけて躊躇するように再び唇を閉じた。

「薬剤を病院の外まで取りに行くのに道中一緒になって、建物の下敷きになった人を助けたり、薬剤を分けてもらうように頼んでくれたりして…入江さんだけ再び家に向かいました」

直樹は先ほど治療した老人を思い出した。
親切な女性二人に手伝ってもらって助かった、斗南大病院へ行くように勧められた、と。
そのうちの一人が東郷であるならば、もう一人は琴子だったのか、と直樹は微笑んだ。

「ありがとう」

そう言うと、東郷は驚いて目を見開いた。

「いえ、私は、何も…。ただ、肩を痛めていたようで、道中もそれを忘れて無理していましたし」
「…ああ」

打ち身程度ならたいしたことではない、とわかっていながらも直樹は琴子の無茶振りを知っているだけに眉間にしわがよった。

「外の様子はひどいものでした」

東郷の言葉に直樹はうなずいた。

「ご自宅は近いと伺っていますが、途中の橋を渡るだけでもかなりの時間がかかりました」
「俺にも行け、と?」
「…いえ、そんなつもりでは」

言外にそう言いたげな東郷の様子を見て、直樹は一つ大きく呼吸を整えてから言った。

「多分途中で道に迷ったりするだろうが、必ず辿り着けると思っている」
「入江さんのこと信じていらっしゃるんですね」
「もしかしたらとんでもないことをしてるかもしれないが、根性だけはあるから」

東郷は硬かった表情を崩した。

「…そうかもしれませんね」

直樹も同じように微笑むと、東郷ははっとしたように言った。

「お邪魔をして申し訳ありません。本当は薬剤が少しだけ手に入ったので届けに来ただけなんです。それから、主な救急施設には医薬品が空輸されるよう手はずが整ったみたいで、もう少しだけ我慢してください、とのことです」
「そうですか」

直樹はそれを聞いて、頭の隅でそれでもやはり空輸決断までのタイムラグと患者の命に思いを馳せた。
何故教訓は生かされないのだろう。
都市型直下地震では、建物や車などの全てが道路をふさぐのはわかりきっているはずなのに。
直樹が思いを馳せている間に、東郷は頭を下げながら救命処置室を出て行った。


1月13日、午後2時30分。

琴子はまだ道の途中でうろうろしていた。
東郷と別れてから、しばらくはいつも通勤で使っている路線を確かめながら歩いていたが、道がふさがれていたりするので横道に入って進まなければならなかった。
横道に入ってからすぐに戻れば多分良かったのだろうが、大方の方向音痴が陥る安易な戻れるだろうという自信の元にすっかり方角を間違えていた。
自信があったのでどんどん進んでいるうちに元の道とは大きくかけ離れた場所に出ていた。
路線どころか見慣れない建物ばかりで、大きな通りをそれるとごく普通の民家が立ち並んでいる。
更に静かな被害の少ない通りは、やはり広い敷地の丈夫そうな屋敷が立ち並んでいる。
実際に入江家はその被害の少ない地域で、決して遠い場所ではなかったが、普段家と駅との往復か、犬の散歩程度でしか近所を歩かない琴子には見当がつかなかった。
既に10年近くの月日を世田谷で過ごしていたが、いつも飼い犬に連れられるまま歩き回っていた琴子の土地勘は、全く進歩していなかったのだった。

「…どこだろう、ここ」

電柱に書かれた地名は、知っているような、知らないような、なんとなく聞いたことがあるかもしれないなどと思いながら歩き続けた。
被害の少ない地域のせいか、外に出て生活している人も見当たらなかった。

「家にたどり着けなかったらどうしよう」

途方にくれた琴子だったが、不意に何かの匂いを嗅いだ気がした。
思わず鼻をひくひくと動かす。

「…なんだか、カレーの匂いが…」

その匂いにつられるようにしてふらふらと歩きだした。

「こっちから…」

鼻だけを頼りにどんどん歩き続ける。
既に迷子なので、この際道がそれようとも気にならなかった。…というより、何も考えずに匂いの元を辿っていた。
二つ目の角を曲がると、通りの向こうに公園の入り口が見えた。その入り口には人が何人か立っていた。

「あ、誰かいる」

人影を求めて彷徨っていたのを思い出し、琴子はその公園へと駆け寄った。
思ったよりも小さな公園だったが、カレーの匂いもその公園から香ってくるようだった。
公園の入り口ですれ違った人は、手にカレーライスを持っている。紙皿に盛られた白いご飯と手作りのようなカレーがとてもおいしそうだった。

公園の中へ入っていくと、活気のある風景があった。
ブランコの隣に据えられたのは、手作りのかまどと乗せられた大なべ。その前に立っていたのは、見慣れた人物だった。

「…お父さん!」

その言葉に驚いたようにこちらを見たのは、ふぐ吉の板前服が目に白い琴子の父、重雄だった。

「琴子!」

お互いの姿を認めると、二人は駆け寄って涙目で見つめあった。

「お父さん、どうしたの、こんなところで」
「ああ、これな。店が地震でやられちまってな、店の食材ももったいないし、何か作って皆さんにお配りしようと思って作り始めたんだが、手持ちの食材でご飯と一緒に食べるとなるとカレーくらいしか作れなくてなぁ」
「そうか、お店も大変だったんだね」

よく見ると、カレーの具は大根やらこんにゃくなどが入った和風で、いかにも重雄の店にあるような食材だった。

「皆は無事だったの?」
「まだ店も準備中だったから、誰もお客さんがいなくて幸いだったよ。それでも、店の周りはひどいもんでな、初めは店の前で作って配ろうかと思ったんだが、人が通るのもやっとな状態で危ないし、大勢来られないだろ。
それより、おまえも無事でよかった。いや、奥さんに聞いてはいたんだが、大変だったな」
「…うん、あたしは大丈夫。もちろん入江くんも」
「早く家に帰ってやれ」
「うん。…あ」
「あ?」
「お父さん、ここ、どこ?迷っちゃって」
「…琴子、おめぇ…」

呆れたように重雄はつぶやいてから、安心したように笑うのだった。

(2010/11/24)


To be continued.