何度でも



17


1月13日、午後6時30分。

すっかり暗くなった冬の日の短さに直樹は改めて窓の外を見た。少しずつ日が長くなってきたと思っていたのは、ほんの数日前のことだった。
普段、救命室から外は見ない。
ブラインドが一日中視界を遮っているからだが、それ以上に見る暇もなかった。
徐々に落ち着きを取り戻しつつある病院内から外を眺めるのはこれで何度目だろう。
無意識のうちに琴子が戻ってくるのを探していたのかもしれないと気がついた。
まだ外の明かりはあまり戻っていないのを小児科病棟の窓から見て取った。
街の灯は半分にも満たない。
壊れた建物の中では、ショートするのを恐れて使えないのだろう。それに照明器具自体も壊れているだろう。
どれほどの被害が街を覆っているのか、直樹はまだ自分の目で確かめていなかった。
囲まれた緑の多いキャンパスとその一角にある大学病院は、おそらく敷地の外とは違い別世界なのかもしれない。
埃だらけになって現れた裕樹。
傷だらけの人々。それはガラスによる裂傷だったり、落下物による打撲だったり。
戻ってきた琴子がそんな状態だったらと考えると、直樹はいてもたってもいられない気分だった。
その一方で琴子なら大丈夫だと思う気持ちもあり、琴子が戻ってくるまでずっとこんな気分を味わうかと思うと、一刻も早く琴子が戻ってこないかと思うのだった。

「入江くん」

そっと呼ばれた声に驚いて、直樹は振り返った。

「琴子」

カルテが置いてある机から離れ、直樹は琴子のもとへ歩いていった。

「ちゃんと無事で戻ってきたよ」
「…ああ」

にこにこと笑う琴子を目の前にして、直樹はやっと肩の力が抜けた思いだった。
もしも琴子を失ったらと考えたら。
最悪そこまでのシナリオを頭の中に思い描いていたのかもしれない。
まだ余震の続く今、家族の安否をその目で確かめたいと思う気持ちは直樹とて例外ではない。他のスタッフにも遠慮がちに勧められたこともあった。強く勧められないのは救命室での都合のためではあるが、交代で帰宅するスタッフをうらやましいと思う気持ちもあったのは確かだった。

「子どもたちも元気!入江くんが帰ってくるのをちゃんと待ってるからって」

「…街は凄かった」

「人の車の上乗っちゃったけど、後で怒られないよね」

次々と報告する琴子の言葉を聞きながら、直樹はいつものように黙って聞いていた。

「そうそう、途中でやっぱり迷子になっちゃって」
「…バカだな」
「…だって、電車でしか帰ったことないんだもの。
あ、そうしたらね、途中でお父さんに会ったの」
「まさかお義父さんも迷子…?」
「違うわよ」
「…だよな」

こうして会話していると、何ら変わらない。

「…入江くん、あの、うれしいけど、人が…」

直樹は知らずうちに琴子を抱きしめていた。
救命室の片隅とはいえ、スタッフも行きかう中で、直樹は黙って琴子を抱きしめていた。
通るスタッフは、焦って離れようとする琴子を横目で見てから、なるべく避けるようにしていくので、終いには諦めて直樹に抱きしめられるまま立っていたのだった。


1月13日、午後7時。

「あら、遅かったわね」

特別労わることもなく、桔梗幹はそう言った。
おそらく外は凄い状況だったと想像はできるが、実際に見たわけではないので余計な口は挟まなかった。
その口調に微笑んでから、琴子は荷物を置いて言った。

「これ、モトちゃんにお土産。それからこれは主任に。それからこれは…」

山ほど担いできたその袋の中身は何だと問い返す間もなく、次々と袋から中身を取り出す。たちまち琴子の周りは物であふれ、幹は呆れて途中で遮る。

「ちょっと待った!まだあたしたちは仕事中なの。こんなに広げたら邪魔で仕方がないわ。
荷物はありがたく後で見るから、さっさと仕事に戻ってちょうだい」

わざと素っ気無くそう言うと、少しだけふくれっつらをしてから言った。

「はい、は〜い」
「ハイは一回って自分の子どもにしつけてるんでしょ」
「あ、そうだった」

舌を出すような子どもじみた仕草も、子どもを持った今でも違和感なく受け止めてしまえるこの同僚は、地震後三日目にしてようやく自宅の様子を見に行ってきたところなのだ。
本当はどれだけ心配していたことだろう。
たとえ自宅には頼りになる姑たち親がいるとしても。
その話は後でいやと言うほど話されることだろうが、とりあえず仕事をしてもらわなければ、と幹はまだ何かを伝えようとする琴子を急き立てるのだった。
広げた荷物を片付ける琴子を横目で見ながら、幹の足下に落ちたパンを拾った。

「落ちてるわよ」
「あ、それ…」
「こんなところに置いておくと、また西垣先生に食べられちゃうわよ」
「うん」

琴子はしばらくそのカレーパンを手にとって見つめている。

「あたし、小川さんに約束したの」
「小川さん…?ああ、あの検査前だった大食いの…」
「もう、退院しちゃったけど」
「また入院してくるでしょ」
「来るかなぁ」
「何だかんだと文句を付けながらも来るでしょうよ。ええ、絶対に。あれで入江先生のファンだもの」
「あたし、アンパンとメロンパンを取り上げる代わりに、あたしの限定カレーパンあげるって約束してたの」
「ああ、確かにおいしそうね」
「でしょ。…あげそこねちゃった。自宅に届けようかとも思ったんだけど」
「家に帰るのにも迷子になってるような人は無理」
「え、何で知ってるの」
「…当てずっぽうだったのに、本当に迷子になったのね」
「それでもちゃんと着いたもの」

少しだけすねた口調で言った後、カレーパンを鞄にしまいながら琴子はつぶやいた。

「アンパンとメロンパンは、どうしても手に入らなかったの。
今度小川さんに会うとき、ちゃんと買えるといいなぁ」

幹は肩をすくめてナースステーションを出て行った。そろそろ夕食の時間だった。
こんな状況でなければ、きっとどうでもいいことだったに違いない。
いつもなら午後6時過ぎには配食される病院食だが、日に一度か二度配られる病院食代わりのおにぎりや水のペットボトルは、ここ数日の中ではましな食事だった。
数少ない配給の中から、患者を優先して配食される。
重症の患者に食べさせる食事は、おにぎりを崩して雑炊にでもするしかない。
売店にあったパンなどの食品は、退院する患者たちに真っ先に配られたはずだ。
大きな病院であるがゆえ、食料の配給も真っ先に来たはずだ。
それでも、まだ自由に食事を用意することもままならない。
そのうちパンも配られるだろうが、きっと琴子はあの日のアンパンやメロンパンを忘れることはないだろう。
幹は配食されてくるほんの申し訳程度の夕食を眺め、あたしらしくないとつぶやく。

食事の少なさがなんだっていうのよ。
ちょっとダイエットしてるって思えばなんてことはないわ。
寝る場所もある。
友人も元気で、家族も多分大丈夫。
だから、あたしは大丈夫。

「モトちゃん、今日はありがとう。
入江くんも、お義母さんも、よかったら家に来てねって」

幹は手を組んでわざとはしゃいだ声を出した。

「そりゃもう、入江さんのお誘いとあらば、明日にでも!」
「入江くんがいるとは限らないけど」
「いいのよ。ここに入江さんが座ってるのね、とか、ここで入江さんがテレビ見てるのねとか」
「入江くん、テレビもあまり見ないよ」
「だーかーらー、そんな細かいことはどうでもいいのよ。あたしの妄想なんだからいいでしょ」
「ああ、妄想ね、妄想…って、もうやだ、モトちゃんたら」

そう言って琴子は笑い、笑いながらたちまち目が潤み、今にも零れ落ちそうになった。
幹は見ない振りをして「さあて、就寝前のひと回りよ」と言い残して歩いていった。
廊下を歩きながら一人つぶやいた。

「あの娘ったら、ちゃんと笑えるし、泣けるじゃないの。あ〜あ、心配して損しちゃった」

最後の言葉が涙混じりの声だったが、幸いなことに誰も聞いていなかった。


1月13日、午後9時。

今日は長い一日だった。
いつもはあっという間に時間が過ぎ、気がつくと夜中になっていた。
それが、琴子が院内にいないというだけで時計ばかり気にしていた。
けが人は少なくなってきて、内科的な風邪や血圧の上昇といった慢性的な症状が増えてきていた。
毎日数百人単位で患者が訪れる。
直樹はモニターを見ようと立ち上がった…つもりだった。
がたがたっと音を立てたのが自分だとは思わなかった。

「入江先生!」

モニターを見ているはずなのに、目の前は真っ白で、手に持っていたはずのカルテをばら撒いてしまったらしかった。
電子カルテが機能しない間に従来使用していた臨時の紙のカルテが手から離れていく。
その白さが目に入っているのかと思っていたが、どうやら違うようだった。
周りで口々に「入江先生、大丈夫ですか」と声がする。
応えようと口を開いたが、果たして言葉になったのかどうかさえ疑わしい。
そういえば前に眠ったのはいつだっただろう、と思った。
食事をしたのは?
自分の身体をコントロールすることは当たり前のことだったのに、この3日間ろくに構っていなかったことを思い出した。
周りが妙に騒がしく聞こえ、直樹はゆっくりと意識を手放した。


(2011/05/16)


To be continued.