何度でも



19


1月14日、午前9時。

琴子はどうしても直樹の様子が気になり、救急治療室がある救命病棟へ小走りに向かっていた。
その途中、渡り廊下から見えた芝生の隅に、一人の患者が車椅子で段差を超えようと苦労しているようだった。
さすがにそのまま通り過ぎることはできずに琴子は近寄った。

「どこへ行かれるんですか。押していきましょうか」

振り向いた顔は幼さを残した少年だった。
汗だくだったが、琴子の顔を見た途端にひどく険しくなった。
何も言わずすぐに車椅子をバックさせると、琴子を避けて別の道を行こうとした。
これくらいの年齢にありがちな態度だと琴子が微笑みながらため息をついたとき、その少年は言った。

「知り合いだったら、ヘリに乗せてくれるのかよ」

琴子はその笑顔を凍りつかせて少年を振り返った。
自分の名札をはっとして握り締め、その言葉の意味を探った。
この少年に面識はないが、少年は琴子を知っている。
その瞬間にあのテレビで放映されたヘリコプターの映像と好美の姿を思い出した。
琴子に嫌悪感を示すその態度には、多分理由があるのだろう。
強いて言えば、車椅子に乗っているその理由、だろうか。

「…ごめん、なさい…」

震える声で、その背に向かってそう言うことしかできなかった。
とぼとぼと救命病棟へ向かったが、その途中で会ったスタッフの一人が琴子に声をかけた。

「入江先生をお探しなら、小児病棟だと思いますよ」
「え、あ、そうなんですか」
「ええ。小児病棟の患者さんがいなくなったらしくて、見つけたら知らせてほしいとおっしゃっていましたから」
「小児病棟の…」

少し考えた後、琴子はそのスタッフにお礼を言って立ち去った。
先ほどすれ違った少年はもしかしたら、と琴子は急いで少年を探しに戻ることにした。


直樹は病院内を歩いたが、なかなか患児は見つからなかった。
車椅子で行ける場所など限られていたが、今は何かと荷物が多い。
支援物資や近隣から安心できる建物として人があふれていた。
外はまだ真冬だ。
薄着でいれば凍えるほどの寒さだ。
外に出ようとしたとき、同じ小児病棟のスタッフに会った。

「入江先生、見つかりませんね」
「外へ出たかもしれないな」
「…私が気をつけていれば…」
「目を離したのは誰でも一緒だ」
「いえ、こうじくん、テレビ中継を見てからおかしかったんです」
「…ヘリの話か」
「…ええ」

直樹はあのテレビ中継の日のことを思い出した。
琴子に批判はくるだろうと思っていた。
他にも多数運ばなくてはいけない患者はたくさんいた。
結果的には他にも多数そういう患者がいると報道してもらえたお陰で、優先して被災の少ない地域へ受け入れてもらえたのだから、悪いばかりではない。
しかし、その影で中途半端な者もいたのだ。
今すぐ治療が必要ではない、もしくは被災した今の状態でも治療できなくはない患者たちだ。
ほとんどはそれを受け入れた。
全員が病院を移ることはできなかったし、この地を離れられる者ばかりではなかったからだ。
いなくなった患児は、中途半端な者の中に入る。
治療できなくはないが、ベストではない。
無理にでも移動させて治療をしてもらえばよかったのかもしれないが、両親共に行方がわからず同意が取れなかったのだ。
それをわかった上で乗り越えられるのか。
いや、乗り越えてほしいと思っていたのだが、その怒りの矛先が琴子であることを思えば都合のいい話かもしれない。
直樹は病院内だけでなく敷地全部を見て回ることにした。


1月14日、午前10時。

琴子は先ほどの少年を捜して庭を歩いた。
車椅子で行けそうな場所など限られている。そう思っていた。
ところが、あちらこちらに人がいたり、荷物があったり、テントなどの簡易的な寝床が作られていて、見通しは悪く、すぐには見つからなかった。
車椅子で行ける場所というのは、つまり段差のほとんどない場所だが、そういう都合のいい場所は被災者であふれていた。
では少年の行き場所はどこなのか。
琴子は荷物の間をうろうろと歩き回り。崩れた荷物の間で動けなくなってた少年を見つけたのだった。

「よかった、無事で」

琴子はそう言って駆け寄ったが、少年は触るなとばかりに手を振り払った。
琴子は払われた手を見つめて一瞬躊躇したが、崩れた荷物を取り除き、唇をかみ締めて倒れた車椅子ごと少年を強引に引き起こした。
少年は抵抗したが、倒れた車椅子のままではさほどの抵抗もできず、そのまま琴子に起こされて涙を流した。
その涙を見ながら琴子は更に胸が痛んだ。
この涙は、琴子に対する恨みなのか、この震災に対する嘆きなのか、それとも数多の不幸に対するものなのか。
どちらにしてもこの少年が琴子に助け起こされてうれしく思っていないだろうことはわかった。それすらも侮辱であると思っているかもしれないと。
もちろん琴子には恩に着せるなどというような考えは全くなかったが、少年はもう俺に構わないでくれと言わんばかりに車椅子の向きを変えた。
木の根っこもある上に、平坦な道ではないそこは、車椅子で先を進むのは無理だろうと思われた。それゆえに小児科のスタッフが見つけられなかったのかもしれない。
琴子は睨まれながらも少年の車椅子を少し強引に病院の建物の中に移動させた。

「…私のことはどう言っても構わないけど…、小児科の医師や看護師はあなたのことを心配して捜してるの」

少年は無視したまま廊下を進んでいく。
琴子はその後姿を見ながらこっそりため息をついた。
それは自分への報いと受け止めるべきなのだろうとわかってはいたが。
このまま直樹に会う気持ちにはなれず、結局外科病棟へ戻った。
この震災は誰が悪いわけでもないが、少年の足はどうにもできなかったのか。ふとそんなこと考えたが、それでも琴子は直樹の処置を信じていた。
もちろん絶対なんて言えなかったが、今のこの状況でのベストを尽くしただろうと。
直樹は外科医だったが、あの腕ならば整形分野でもミスはなかったはずだと。
琴子は自分の無力さをまた感じた。
自分の目の前にいない人まで助けられるわけがない。それはわかっていても辛い。
自分の知り合いだけを必死になって救ったと言われれば返す言葉はない。
でも、と琴子は前を向いた。
同じ場面を思い浮かべても、きっとまた同じことをするだろうと琴子は思った。
周りが見えないと言われるかもしれないが、やはり好美の命を思って乗せてくれるヘリを探しただろうと。

外科病棟に戻った琴子に桔梗幹が気がついた。
「あら、入江先生に会えなかったの?」
琴子は「うん、忙しいみたい」と何でもないという風に笑った。
少年のことを言えなかった。
自分勝手だと思ったが、心配されてしまったら、少年に対して申し訳ない気がしていた。
「そう。病棟にもなかなか来られないみたいね。まあ、他の先生で事足りるからいいけれど」
「また後で会いに行ってみる」
残念そうな顔は隠せず、そう付け加えた。
「ああ、時間ができたらね。そのうち入江先生も顔を出してくれるかもしれないし」
「だといいけどなぁ」
そう言って、何とか笑ってさも病室に用事があるような顔をしてナースステーションを出た。
勘のいい幹が、何も気づかなかったならいいと。
少し気分が沈んでいるように見えるのは、忙しい直樹と会えなかったせいだと思ってくれればいいと。


直樹は、琴子が少年と会ったことを知らなかった。
少年は黙って戻ってきて、他の看護師の心配したという声に一言「散歩しようとしたけど、荷物に引っかかって動けなかっただけだ」と答えた。
直樹は「なんだ、よかった」と安心する看護師とのやり取りを遠目に見ただけだったが、少年の表情と動きに注意していた。
何かどこか他に傷めたところはないのか。
どこかへ行っていた間に何もなかったのか。
少年は看護婦の追及をかわすように車椅子を動かして病室へ戻っていった。
広い病院内では、車椅子の少年一人を見つけられなかったとしても不思議ではない。
自分からスタッフに隠れるようにしていればなおさらだ。
それでも、ここへ戻って来た。
少年が入っていった病室のドアがゆっくり閉まるのを見届けてから、直樹は視線をそらした。

「入江先生、どう思いますか」

同じように見守っていたらしい小児病棟の師長がそっと話しかけてきた。

「…今は戻ってきたことをよしとするしかありません」
「そうでしょうか」
「このままオペが中止になることだってあったかもしれませんから」
「どこか、他の場所に移せていたら…」

少年の両親からは、いまだ連絡はない。
ここに少年がいることを知らないか、連絡できないか、それはわからない。
親戚に連絡したくとも、連絡先もわからないと少年は言う。
祖父母はいるのだが、同じく都内だという。
誰かが少年を見つけてくれない限り、手術の同意も取れない。
この非常時で、同意も何もないだろうが、相手は少年で、足が動かなくなる可能性だってなくはない。
手術をしてしまった後で、他所で手術をしていればこんなことには、と言われれば返す言葉もない。
ただ、このままでは過ごせない。
少年の足は、刻一刻と菌に冒されつつあるのだから。
地震の後、調整して再び時を刻み始めた時計は、ただただ早回しのように過ぎていく気がしてならない。
実際には誰のうえにも同じく時を刻んでいるというのに。

(2013/03/17)


To be continued.