何度でも



20


1月14日、午前11時。

「早番で食事にしてちょうだい」

主任に言われた琴子は、はっとして時計を見た。
いつの間にか昼近い。
午前中、外科病棟に直樹の姿はなかった。
やはり小児科病棟でのことが長引いていたのだろうと琴子は思った。
三日を過ぎて、ようやくスタッフも落ち着いたのか、自宅で待機していた者も出勤し始めていた。
皆が無事でそれは喜ばしいことだが、一方で行方の知れない者もいる。
都内のどこにいても危険であったことには違いない。
首都機能は麻痺し、非常事態どころか、海外では日本はお終いだというような流言も溢れて飛び交っている。
ようやく都内とを結ぶ橋の修復が一部終わり、既に関東から疎開し始めた者も多い。
加えて関東以外からの支援の車、身内を捜す車などが大勢殺到し、橋の手前で交通規制が起きていた。
自然災害に加え、環状7号線を境にするように火災が広がり、逆に斗南大病院の辺りは火事場から逃げ出してきた者も多かった。
もちろんそれ以外の場所でも火災は発生し、消防車はたどり着けず、ただ燃えるに任せた場所も多数あったという。
災害救助のための支援が続々と都内に到着するにつれ、ここ斗南大病院でも違うユニフォームに身を包んだ医療従事者を見かけることとなった。
時を同じくして都内の病院からも続々と患者が移送されるようになった。
災害救助活動がようやく回り始めたようだった。

昼に合わせて炊き出しがあると聞いて、琴子は病院玄関へと向かった。
違う箇所では自衛隊による風呂も設置されるらしい、と琴子は休憩に来た病院関係者の話で知った。
いつもなら、へーどれどれと野次馬根性丸出しで見に行くところだが、さすがに午前中の出来事が尾を引いて、炊き出しをもらうのが精一杯だった。
うどんの汁が身に沁みて、琴子はほっとした。
外でずるずるとうどんをすすっていると、「やあ、琴子ちゃん」と声がした。
「…あ、西垣先生」
琴子は久しぶりに見たかのように思え、思わず「元気そうですね」と答えた。
「いやー、やっと休憩できるようになったよ」
「そうだったんですか」
「そうだよ。この僕があれこれとがんばったお陰で外科病棟も救命病棟もうまく機能しているんだよ」
「…そうですか」
西垣はもっと反論を期待していたのだが、思わぬ返答にわざとらしくガクッとさせた。
「なんだよ、もっと『それは入江先生のお陰ですっ』みたいなことを言ってくるかと思ったのに」
琴子はああ、と笑って言った。
「いえ、ちっとも外科病棟にお見えにならないから、きっと大変だったんだろうな、と。あたしのパンも食べちゃったくらいですし」
「パン…パン、ねぇ。ああ、地震の起きた日か」
「そうですよ。あれは預かり物だったのに」
「いや、何、この僕の血となり肉となるためなら、さぞやそのパンの持ち主も本望だったろうよ」
「それで、ようやく休憩ってことは、救命にもスタッフが来たんですね」
「そう、そう。関西から応援が来てね。それが、地震当日には出発したというのに、道路状況が悪くて、たどり着いたのが今朝だというから驚きだよね。
他の場所はどうなってることやら」
「…テレビもラジオも聞く暇なかったですからね」
琴子は自宅へ戻ったときにある程度の状況把握はできたが、自宅にいたのは数時間だったこともあって、それほど詳しく聞いたわけではなかった。
東京直下型の震度6強の地震だったこともそのときようやく知ったのだ。
火災の後の土砂降りも琴子は知らなかった。
局所的に降った雨は、都内に限らず、雲の流れた北関東へももたらし、津波と相まって浸水被害をもたらしているという。
しかし、それらも全て病院外のことであり、琴子と西垣は周囲を見渡して言った。
「…なんだか、ここは…」
「うん、恵まれてるねぇ」
「申し訳ないくらい」
「何言ってるんだ。こういう場所もなければそれこそ首都壊滅じゃないか。
別に日本はなくなってやいないし、終わってもいない。
たくさんの人もそりゃ亡くなっただろうよ。
でもこうしてしぶとく生きてる人間がいる限り、滅びるなんてありないね」
そう言って力をこめる西垣に琴子は笑って答えた。
「西垣先生なら、どんな状況でも大丈夫そうですよね」
「おいおい、それを言うなら、あいつこそ人間じゃないぞ」
「え、あいつって、入江くんですか」
「まさにあいつなんてロボット並みだよ。
いつ食べてるんだか寝てるんだかわかりゃしないね」
「でも入江くんだって、きっと疲れてますよ。
…もしかしたらあたしに言わないだけで、調子の悪い時だってあったかもしれないし」
「どっちにしろ、今も働いてるなら、全然、全く、とーんでもなく大丈夫だって言えるね」
琴子はくすくす笑いながら「そうかも」と返した。
西垣はその様子に少しだけ訝しげに見やったが、気づかない振りをして「じゃあ、またね」と炊き出しの列に割り込んでいった。
琴子は食べ終わった容器をごみ用の袋に捨てると、とぼとぼと再び病棟へ戻るのだった。
その後姿を西垣は見送っていたことなど、振り返りもしなかった琴子は知ることもなかった。

 * * *

「やあ、入江」
軽い調子でそう声をかけられ、嫌そうに振り向くと、案の定上司である西垣が胡散臭い笑顔を向けて直樹に身体を寄せてきた。
「…なんですか」
無意識に身体をよけながら、直樹は無表情で答えた。
「なんだよ、そんな嫌そうな顔するなよ」
「嫌そうな、じゃなくて嫌なんですよ」
「…なんてやつだ、仮にも上司に向かって」
「はいはい、そういう無駄なやり取りはいいですから」
「おまえでも倒れることあるんだんと思ってさ」
「…申し訳ありません」
「別に謝らなくてもいいけどさ」
「何か見返りでもほしいんですか」
「どうしてそういう…。
ま、それはそれとして、琴子ちゃんもちょっとおかしくないか」
「…琴子が?」
「今日、会ってないんだろ」
「…そうですが」
西垣の言葉に少しだけ眉根を寄せる。
ここ最近の傾向からして、一日会えないだけで意気消沈することはあっても、西垣がおかしいというほどの様子を見せることはない。
あれでいて人を(特に女性全般を)観察することにかけてはなかなか鋭いところもあるので、西垣の揶揄を素直に受け取った。
この三日間で、琴子の忍耐強さは辛くも証明されたわけだが、それでもいくら忍耐強くて前向きと言っても限界はある。
一時帰宅して家族の顔を見て少しだけ落ち着いたと直樹は思ったのだが、また何かあったららしいと思うしかなかった。
まだ家に帰宅していないスタッフは大勢いる中、子どもがいるとはいえ、無理に帰宅したことで何か言われたのか。
いや、と直樹は思い直す。
桔梗がそばにいながらそれはないだろう、と。
琴子の同僚であり友人でもあり、今回の帰宅に関しても桔梗の勧めがあったに違いないと思っている。
それなら何が理由だ、と直樹は考えたが、ろくに顔を合わせていない状況では思い浮かばなかった。
「おまえも休んだとはいえ、ひどい顔色してるぞ。
明らかに琴子ちゃん不足だろ。イライラする前に補給したほうがいいんじゃないか」
「何を馬鹿なことを」
「いくらロボットみたいなおまえだって、本当にロボットなわけじゃないんだから。ましてやこんな状況だしね」
西垣の言葉に直樹はにやりと笑った。
「それなら、俺の仕事を請け負ってくださるということですね」
「ちょ、そこまで言ってない」
「では今から二時間休憩にしますから、救命病棟のほうをお願いします」
「きゅ、救命?よりによって…。僕は先ほどまで外科で…おい、入江…!」
西垣の言葉を最後まで聞かずに直樹はさっさと立ち去った。
補給も何も、琴子の様子が変と聞いて放っておけるものでもない。
西垣の言葉じゃないが、こんな状況なのだから、と直樹は自主的に二時間あまりの休憩と称して自身の昼休憩と琴子を探しにいくことのしたのだった。

外科病棟に回ると、琴子の姿はなかった。
最近外科病棟は他に任せて、主に手術室と救命、小児科を中心に回っていた。
手術を終えた患者は回復も早く、直樹でなくとも回る。
しかし、救命はいまだ人手が足りず、すぐに手術になることも多いし、小児科はこんな状況でも退院もできない病状の子どもたちばかりだ。
転院できる子はまだましなほうで、転院することすらも命を危うくする子どもたちも多い。
内科領域や整形領域の子どもは本来直樹が主治医ではないが、そちらも人手が足りないとなれば、直樹の出番は多い。
良くも悪くも直樹の腕の良さが頼られる原因でもあるのだ。

「あら、入江先生」

病棟を回っていたらしい桔梗幹がナースステーションに戻ってきて声をかけてきた。
「琴子は」
「あら、入江先生のところじゃないんですね」
「見かけてない」
「入江先生に会えなかったって、ちょっとばかり元気ないみたいだったし、てっきりまた入江先生でも探しにいったんだと思ったんですけど」
「休憩時間は」
「あと…十五分ほど」
「…わかった」
その時間で見つけられるかは賭けだったが、最悪十五分後にはナースステーションに戻ってくることを考えると、それほど遠い場所にはいないだろうと見当をつけた。
よく琴子が逃げ込む場所をひとつひとつ当たる。
非常階段を上りつつどこかにいないかと目を凝らす。
非常階段は二つあるが、こちらはほとんど使わないほうだ。
屋上にも行けず、違う棟にも繋がっていないためだ。
最上階、一応見えるドアを抜ければ医局の裏側になる場所に琴子はいた。
医局側からは多分誰も出入りしないほうの場所だろう。科によっては
もう一つ下に降りれば踊り場から外が見えるというのに、窓もない薄暗い空間に琴子は膝を抱えて座っていた。
「こんなところでどうしたんだ」
そう声をかけると「入江くん」と琴子が驚いて顔を上げた。
もしかしたら眠っていたのかもしれないと思える、額を膝につけていた赤い跡だけがいつもの琴子に見せていた。
「そんなところに座っていると腰が冷えるだろ」
呆れてそう言うと、琴子は慌てて立ち上がった。しかし、それまでやはりうとうとしていたせいなのか、ふらりと足をふらつかせて直樹が手を伸ばして支えた。
「ごめんね、入江くん」
「謝るようなことがあったのか」
「そ、そうじゃないけど」
「それなら、ありがとう、だろ」
「あ、そうか。ありがとう、入江くん」
そう言って笑った琴子だったが、直樹には少し無理をしているように見えた。
やはり、何かあったのかもしれないと思ったところで、琴子が言った。
「小児病棟で聞いたんだけど、あの男の子」
「あのって、どの子だか」
「足を悪くして車椅子の中学生くらいの子」
「…ああ」
会ったのか、と直樹は琴子の顔を見た。
少し沈んだ顔は、多分会って何かを言われたのかもしれないと推測された。
「おまえが気にすることじゃない」
「どうして」
「彼はここでも治療できる」
「入江くんが?」
「いや、整形外科分野だから俺は手を出さない」
「で、でも、難しいんでしょ」
「どんな手術でも簡単だなんて言えない」
「でも、もっといい治療が受けられるなら…」
琴子は直樹にすがりつくようにして訴える。
「転院させたくても、できないんだ。もっと言えば、手術したくても待っている状態なんだ」
琴子は目に涙を浮かべている。
どういう経緯で知り合ったのかは知らないが、少なくとも彼のほうは琴子を快く思っていなかっただろうことは想像できる。
「おまえは、後で責められると知っていたら、好美ちゃんのためにヘリを頼むことをやめたか?」
琴子はとうとう涙をこぼしたが、言葉はきっぱりと言った。
「何度同じ場面になっても、あたしは多分ヘリを頼んでいたと思う。身内びいきだって知られても」
そうだろう。
「だったら」
直樹は一つため息をついて続ける。
「胸を張ってろ。頼んだことは間違っちゃいない。あの時、好美ちゃんはあの状況で運べなければ、命は危なかった。それを頼めたのは、琴子、おまえだけだ」
「でも、あたしは…」
琴子を抱きしめながら何とか言葉を探す。
「彼には乗り超えなければいけないことがある。でもそれは彼にしかできない。
そりゃ最初に治療が早ければ違ったかもしれないが、あのときの状況ではあれがベストだった。
俺が最初に治療したんだ。あれ以上はうちの技術じゃ無理だ」
琴子は少し笑った。
「相変わらず凄い自信」
「当たり前だろ」
だから、泣くな。
一人で泣くな。
「それでも、ちょっとだけ…泣いてもいい?」
「一人で泣かないならな」
そう言った途端に琴子は堰を切ったように泣き出した。
「入江くん、入江くん…」
「俺だって、全員は助けられなかった」
誰にも言わなかった。
助けるのが当たり前の救急で、ベストを尽くすどころか、これ以上の治療は、と諦めさせることを平気で言った。
そういう状況だったからと言ってくれるのかもしれないが、俺は多分忘れられないだろう。
琴子の泣き声にまぎれるようにして直樹は淡々とそう言った。
あまりにも淡々とした声だったせいか、琴子のほうが直樹を心配して、さほど長くもならないうちに涙が止まったのだった。
多分琴子の休憩の十五分は過ぎていただろうが、桔梗は何も言わなかった。
都合のいいことに清水主任もいなかった。
琴子はすっきりとした顔して午後の仕事に取り組んでいたという。

(2013/07/18)


To be continued.