何度でも




1月10日、午前10時30分。

病棟で直樹は明後日の検査のためのオーダーをしていた。
昨夜の食事会で酔いつぶれるほど飲むわけでもなく、ご機嫌になり過ぎて家族全員からひんしゅくをかったのは琴子一人だった。
朝は酔いつぶれたまま起きない琴子を残し、直樹はいつもどおりに家を出てきた。
朝の回診も終え、今日は外来もないので病棟へ直行だった。
手術もない貴重な午前中のひと時である。
検査前に使う薬、検査前の採血、それから検査後の食事。
それらを全てオーダーしてから、今度は別の患者の検査依頼を続けて行う。
向かっているパソコンは、病院内全てに張り巡らされているLAN経由。
ところが、ログイン時間が切れたのか、オーダーがうまくいかない。
ためしにIDとパスワードを打ち直す。それでも動かない。
画面を見つめたまま考える。
このパソコンだけおかしいのか、全体がおかしいのか。
隣で同じように他の医師がキーボードをガシャガシャいじっている。

「…もしかして動きませんか?」
「ん?あ、ああ。急に、ね」
「…おかしいですね。システムダウンでしょうか」
「電話してみるか」

その医師が立ち上がりかけたとき、もう1台のパソコンに座っていた看護師長が言った。

「動きましたよ、先生」

立ち上がりかけた医師は「え?ああ、そう?」とまた座った。
直樹も同じようにログインし直すと、何事もなかったかのように動き出した。

「たまたまですかね」
「そうですね」

そんな会話をしただけで、忙しさに紛れた。
時々システムのダウンはあるが、それはかなり面倒で大変なことである。
もし病院全体がそうなったら…。
それよりも、電気の供給や酸素の供給、吸引器の作動不能など、動かなくては困るものがたくさんある。
病院にはたいてい自家発電装置があるし、機器のメンテナンスにも十分配慮している。
機械の予備もいくつかあるので、全てがダメになることはまずなかった。
しかし、もし…。
直樹はそこまで考えたが、「入江先生」と言う呼び声にすぐに頭を切り替えることになった。


1月10日、午後2時15分。

入江家のリビングで、琴子と姑の紀子はテレビを見ながら話していた。

「そうよ、昨日の好美ちゃんと裕樹見たでしょ?」
「ええ、仲良かったですよね」
「でしょ、早くプロポーズしちゃえばいいのに」
「裕樹君も頑固だから」

和やかに話をしている二人の傍で、二代目チビがボールと戯れていたが、急に耳を澄ませたように天井を見上げている。

「どうしたの、チビチビ?」

琴子が同じように天井を見上げると、チビチビは何事もなかったようにまたボールに格闘し始めた。

「あら、昨日も出かける前にそうやってたわよ」
「何か見えてるのかしら」
「そうねぇ」
「や、やだっ」

琴子は自分で言った言葉に寒気を覚えて、腕を擦った。

「あら、琴子ちゃん。そろそろお迎えの時間よ」
「あ、ホントだ。今日は早くお迎え行くって約束しちゃったから」
「それじゃ、帰ってきたらお茶にしましょう」
「はい、行ってきます」

琴子は身支度を整えながら玄関へと駆けていき、上着を忘れたのに気がついて部屋へ戻る。
それはいつもながら騒々しい。
上着を取りに戻ったついでに鞄も忘れていたことに気づいて、それをつかんで玄関まで下りてきた。
一歩家の外に出ると、日差しは暖かだが冷たい北風が吹いていた。

今日も寒〜い。

玄関を出て首をすくめると、子どもたちのお迎えのために幼稚園まで駆けていく琴子だった。


1月10日、午後8時。

午後に一人の患者の最後を見送って、直樹は家路へと向かった。
すでに外は気温も下がり、吐く息を白く染めていた。
駅から住宅街に入ると、犬の遠吠えが耳についた。
今日は月もよく見えていて、顔を上げた直樹は、思ったよりも寒さを感じてコートのポケットに手を滑り込ませた。
家の一つ一つに見える淡い光が、帰る心を急がせる。
家に帰れば、今日は妻も家にいて出迎えてくれるだろう。
幼い娘はまだ起きているだろうか。
母は台所に立ち、父はリビングでゆったりと過ごしている時間だろう。
弟はいるかどうかわからないが、一人で部屋にこもっているかもしれない。
そんな家の日常を待つようになったのはいつからだろう。
愛する者が増えたとき、人は愛する者が待つ場所に帰りたくなるのかもしれない。
いつも患者を見送ったときだけはそうして考える。
どれだけ努力しても、人間には寿命があり、医師の力だけではどうすることもできない。
奇跡と言われる出来事も、悪夢のような出来事も、何がそうさせるかもわからないまま立ち向かうのが常だった。
いつもより少し感傷的になりながら、家の玄関に立った。

「ただいま」

家の鍵を自分で開けて中に入ると、奥からにぎやかな声が聞こえた。

「おとうさんかえってきた〜」

どたばたと響く足音は一つではなく二つ。
おそらく妻と娘。
駆け寄ってきた娘を抱き上げてもう一度言う。

「ただいま」

帰る家のあること。
それがどんなに幸せなことか、目に見えるうちは気づかないものかもしれない。


(2007/06/27)


To be continued.