3
1月11日、午前8時14分。
「おっはようございまーす」
元気にナースステーションへ入っていく琴子。
「あら珍しい。今日は遅刻なしね」
時計を見上げながら同僚の桔梗幹が言った。
「いつも遅刻してるわけじゃないわよ」
「あら、そうだったかしら」
そんな会話をしながら、それぞれ朝の申し送りの準備に入る。
主任はいつも通りきりっと姿勢を正してイスに座っている。
やがて始業時刻になり、日勤者が揃っているか見渡してから申し送りが始まった。
メモを片手にそれぞれ真剣な面持ちで申し送りを聞いているが、琴子は途中で眠気を我慢するために小さなあくびを一つ。
その目の端に映った人影に、それまでの眠気が吹っ飛んだ。
い、り、え、くーん。
声を出さずに口でそう呼びながら、愛するだんなさまである直樹に向かって小さく手を振る。
すでに申し送りは耳を素通りだった。
そんな直樹は、妻の琴子と目があっても知らん振り。
一瞬目を合わせたものの、すかさず無視。
申し送りに集中しろと言いたいらしい。
琴子がもう一度夜勤者のほうに向き直ったときには、ちょうど申し送りが終わったところだった。
「…琴子、あんた聞いてなかったでしょ」
「な、何?」
「内科から送られた小川さん、明日は大腸検査だから、今日は一日検査食でって」
「あ、そ、そう、そうだったわね」
「入江先生の検査でしょ。あの人、よく間食するから気をつけてくれって」
「はーい」
返事だけは元気よくして、琴子は仕事に取り掛かった。
1月11日、午後12時20分。
琴子は病室に入って、一つのベッドがカーテンで仕切られているのに気づく。
皆が和やかに昼食を食べている中、誰よりも食事を楽しみにしている患者のところだけが暗い。
琴子はそっとそのカーテンをめくってみる。
「何やってんですかっ」
琴子はカーテンの中に突進した。
患者は琴子の声に驚いて、その手に持っていたアンパンを手から取り落とした。
「小川さん、今食べたら検査が台無しですよ?」
手から落ちたアンパンがころころとベッドの下まで転がる。
「あ、あたしのアンパン…」
「聞いてるんですか?」
「匂いだけよ、匂いだけ」
「だって、今、大きな口あけて…」
「だって、お腹空くじゃない」
「だから、検査食が出てるじゃないですか」
「あれっぽっちじゃお腹空くじゃない」
「とにかく、検査が終わるまではダメです。これも没収します。それから、他にも持っていませんね?」
「…え?」
「…出してください」
「な、何もないわよ」
「メロンパン」
「はい?」
「メロンパンの匂いがする…」
「え、ウソ。袋に入ってるから匂うわけは…ハッ」
患者の視線はダマサレタという風に琴子を振り返る。
「ハイ、それも出してくださいね」
「ひどいわ、入江さん」
渋々棚からメロンパンを琴子に差し出した。
「ひどくてもいーんです。検査が終わったらちゃんとお返ししますからね」
「何も取り上げなくたって…」
「いいですか、もう今日はトイレと洗面以外部屋から出ないでください。
それから、同じ部屋の皆さんも小川さんに食べ物差し上げないでくださいね」
同じ部屋からくすくす笑いが聞こえる。
患者はむくれた顔で言った。
「…言われなくてもお腹空いてふらふらで、出かける気もなくすわよ」
「検査が無事済んだら、あたしのとっておきの限定カレーパンも差し上げますから。…内緒ですよ?」
琴子は患者に人差し指を口に当ててウインクした。
患者は仕方がないといった風に布団にもぐった。
やれやれ、これで何とか検査前処置も無事に済みそうだわ。
琴子は動けない患者の食事トレーをついでに運びながら、自分も食事交代するためにナースステーションへ戻ることにした。
1月11日、午後2時30分。
直樹は書類を片手に会議室へ向かっていた。
今日はこれから患者の家族との面接があり、1週間後に予定している手術の説明をする予定だった。
担当看護師は…琴子。
看護師としての資質も危うかった琴子が、今ではかなりまともに仕事をしている。
それだけでも数年前には考えられないことだった。
もちろん今でもドジは変わらないが、少なくとも仕事の上ではなんら困ることはなくなっていた。
会議室に入ると、既に患者は家族とともに待っていた。
その横には担当看護師である琴子。
「お待たせいたしました」
そう言って患者の前のイスに座る。
「早速ですが、今日は手術について詳しく説明させていただきます。既に予約されたときに梶田さんにはお話させていただいておりますが…」
直樹は患者とその家族に丁寧に説明を始めた。
隣で琴子は黙って聞いている。
会議室は直樹の声が響き、時折患者とその家族の声が混じる。
およそ40分後にようやく一息つき、会議室を後にすることができた。
「入江くん、梶田さんの家族の方、ようやく安心できたって言ってた。入江くんの説明って、他の先生よりわかりやすいんだよね。簡単な言葉であたしにもわかるもん」
そこで直樹はにやりと笑って言った。
「おまえにもわかるように説明する癖がついたからな」
少しむっとしながらも琴子は言い返した。
「じゃあ、あたしのお陰よねっ」
直樹はそう言って胸を張る琴子がおかしくて、笑いながらナースステーションを出て行った。
このまま一度医局へ戻るつもりだった。手術の説明に使用した資料が邪魔だったのだ。
エレベータを待って乗り込むと、移動するランプを眺めながら考え事にふける。
たいていはこの後の段取りを自分の中で確認する。
そうして、今日は予定通り早く帰れそうだと満足する。
途中で西垣医師がちょうど乗り込んできて、必要もないのに話しかけてきた。
「今日の合コンは、西病棟のミキちゃんの友だちのCAなんだよね」
妙にウキウキした調子でそう続ける。
「…いい加減落ち着いたらどうですか」
ついそう口にした。
「もちろん落ち着くさ。僕にふさわしい女性を見つけたらね」
「…それなら一生無理かもしれませんね」
「ん?何か言ったか?」
「…いえ」
エレベータはガクンと軽い振動の後、医局のある階で止まった。
職員ばかりが乗るこのエレベータは古い。万が一の時には絶対乗りたくない代物だった。
エレベータを降りてからも西垣は、次々とどうでもいいことを話しかけてくる。
それを話半分に聞きながら、特別相槌を打つわけでもなく、医局へ向かった。
それでも西垣は全く構わない様子だった。
それが日常だからだ。
医局に着くと、他の医師たちも若干戻っていた。
ちょうど誰もが休憩を取りたくなる時間帯というわけだ。ちょうど誰かが入れておいたコーヒーも残っている。
直樹も少しだけ休憩することにした。
医局の濃くなりすぎたコーヒーを注いでいると、
「あ、入江、ついでに僕のも」
と声が飛んできた。
仕方なく二人分入れて汚いソファに運ぶと、ニコニコしながら西垣はコーヒーを受け取った。
「いやー、どうせコーヒーを入れてもらうなら、琴子ちゃんのほうがいいけどね」
「文句を言うなら頼まないでください」
「琴子ちゃんは入江のため以外にコーヒーは入れないんだってさ」
口を尖らせて子どものように言う西垣にあきれながら、直樹は家で香るコーヒーの匂いと味を思い返していた。
そういえば琴子が休憩室で入れるのは、緑茶か紅茶くらいだったな、と。
「…おまえ、本当にムッツリだな」
無言で西垣を見返した。
「どうせ琴子ちゃんの入れたコーヒーを思い出してたんだろ。顔がやらしいんだよ」
「思い出したのがコーヒーかどうかは想像に任せますけどね」
そう言い返すと、ちょうど電話が振動した。
「カップ、洗っておいてください」
そう言い置いて、直樹はさっさと医局を出て行った。
振動した電話の発信先を確かめる。
「ああん?おい、待て」
西垣の言葉が後から響いてきたが、後は聞こえない振りを通した。
(2009/01/21)
To be continued.