何度でも



21


1月15日、午前十時。

しばらく見なかったテレビカメラが琴子の前に現れた。

「え…」

言われた言葉の意味をすぐには飲み込めず、琴子は固まった。

「どうでしょうか」

続けて促された言葉に琴子は顔をしかめた。
それは自分だけで判断していいことの範疇を越えていた。
「あの、それは病院側の許可を取らないとまずいんじゃ」
「もちろん取りますけど」
そう自信満々に言われ、琴子は思わず後ずさりして口ごもった。
「でも、あの」
好美をヘリコプターで搬送したあの番組のレポーターだった。
再び琴子を取材したいとやってきたのだ。
もちろん好意的に撮るかどうかはわからないし、あの報道によって起きたやっかみや批判も当然追うつもりだろう。
にこやかに、それでいて押しの強い笑みは琴子を圧倒したが、さすがに琴子もすぐにその場でイエスと答えるほど迂闊ではなかった。それはあの少年のような言葉をいくつか受けるにいたって慎重にならざるを得なかったせいだ。
「…あたしが批判を受けるだけなら、いいんです。でも、入江くん…あたしの身内までは放っておいてほしいんです」
「でも、主治医、でしたよね」
直樹のあの見た目の良さは、テレビカメラの前に出すには格好の材料でもあるとみなされていたのだ。
「それよりも、治療を受けられない人たちや、支援の間に合っていないところを報道するほうが大切だと思うんですが」
「もちろんそれは報道として余すことなく伝えていきます。元々他の番組ではそれ一方ですし。それに前回の放映時にはかなりの反響があったんですよ」
「その節は本当にありがとうございました、感謝しております」
「でしたら、もう一度取材をお受けになっていただけませんか」
「ですから、あたしの意思だけではどうにもならないと言ってるんです」
「もう一度取材を受けることによってまたいろいろ言われてしまうからですか」
琴子は唇をかんだ。
「言われるのは…仕方がないと思っています。あたしは、目の前のことにしか対処できないし、目に見える範囲のことしかできないんです」
「それは誰でもそうなんじゃないでしょうか」
「それで、いつも誰かを傷つけてしまうんです」
琴子は少年を思い浮かべた。
「あたしなんかを取材するより、もっと困ってる人をどうにかしてあげてください」
それだけ言って、琴子は逃げるようにしてその場から走り去った。
逃げても高が知れている。病棟の中に逃げ込むだけだ。

琴子がナースステーションに入ると、桔梗幹が琴子を見た。
「何かあったの」
「ううん、何にも。走ってきちゃった」
「あら、廊下を走るとまた入江先生に睨まれるわよ」
「うん、だから内緒にしててね」
「斗南の連中なら琴子のことはよぉく知ってるからまたかとしか思わないけど、今は他のボランティアもいるから気をつけてもらわないと、斗南のレベルはこれかと思われるわよ」
「もう、ちゃんと気をつけるったら」
「そうしてちょうだいな」
「はぁい」
そしてちょっとだけため息をつくと、午後の看護記録をするべく電子カルテに向かう。ようやく院内システムが復旧したからだ。それでもまだ修理を待つ機器は山ほどある。何よりも救命や手術室などが先だからだ。
「ねえ。あたし、今回のことでつくづく思ったのよ」
「何を?」
幹が振り返りもせずに琴子に話しかける。カタカタとキーを打つだけが午後のナースステーションに響いていた。
「こういう電子カルテって、院内どこでも見られて便利にはなったけど、電源が落ちるとだめね。情報引き出せないし、今までいろいろ手でやっていたことも機械に頼るようになったし、医療は進歩したけど、何となくあたしたちの看る力って逆に退化してるんじゃないかって思うわ」
「そうかな…。うん、でも、字の汚い先生の字を判読するのも大変だったから、あたしは助かるけど、入力するのに時間がかかるからなー」
「ああ、そういうところはね」
電子カルテが復旧した後にしたことは、使えない間にたまった情報を逐一入力することだった。使えない間は以前のように紙のカルテだったが、それはそれでわざわざ立ち上げる必要がない分楽な面もあったのだ。しかし、情報はそれぞれの紙に分散してしまうため、膨大な資料を一緒に移動させる羽目になったし、他科へ移す場合もやはり全ての資料を整えなければならなかった。
かつては当たり前のようにやっていたことも、やらなくなってからはその要領さえも忘れてしまうものなのだ。
実際、災害直後は大混乱だった。
退院させたくても会計もできない、患者の情報もわからない、必要な検査もできない、医師との連絡も取れないなど、ありとあらゆる停電時の想定されていた予想以上の問題が出てきたのだ。いったい災害時の何を想定して訓練していたのだろうと思う。結局最後に頼ったのは人の手で、人の信用の名の下にそのまま退院させたし、一から患者を診ることになった。
災害になれば、電気以外にもガス、水道、電話なども動かないのだと知っていても、人は何故かいつもどおりの生活をしようと試みる。
それが自家発電を早々に停止させ、水洗トイレの水を流そうとし、水道タンクを空にし、電話回線をパンクさせたのだ。
病棟のトイレが誰によってきれいにされていたのかも思い知ることになった。
突発的な汚れは看護師たちだって片付けはする。それでも、日常的な清掃はそれを専門にしている人々によって行われ、秩序が保たれていたのだ。当然こんな場合にいつものように掃除をしに来る者はいなかった。
水洗トイレは水が流れなければ使えない。それ故に流すための水を汲み置きしておかなければならなかったし、それをする体力のない患者のために誰かが流さねばならなかった。
給水車は、地上4階の外科病棟までは来てくれない。誰かが汲みに行かなければならなかった。
「じゃあ前の生活に戻れって言われても、無理よねぇ。もう便利さを知ってるんだから。戻ろうと思えば戻れちゃうんだから」
琴子は、幹の言葉にうなずきながらも先ほどのことを考えていた。
あのレポーターがあっさりと諦めてくれるだろうかと。
それでも琴子は願っていた。
自分が矢面に立つことで何か再びメリットがあるなら、それでもよかった。
その代わりもう誰にも傷ついてほしくなかった。
身体も、心も。

 * * *

ここ斗南大学が避難拠点になってから、随分と人が押し寄せてきた。
病院はあるし、食料も配布された。
キャンパスのほうではその広さを生かして自衛隊が屋外風呂を作っているという。
患者などはそこまで行くことができるかどうかわからないが、少なくとも災害時以来誰も風呂になど入っているものはいない。ましてや水道の復旧までどれくらいかかるのか想像もつかない。阪神淡路大震災の時は3ヶ月はかかったというから、大都市東京も同じくらいかかるか、下手をすると更にかかる可能性も捨てきれない。

直樹は検査データを見ながら外を見た。
外はどんよりとした曇り空で、空気は凍えるように冷たい。
下手をすれば雪でも降ってきそうな勢いだ。

雪が降れば、外で避難生活をしている人々が風邪をひくかもしれない。
不衛生な状況ではインフルエンザも考慮しなければならないだろう。
冷えて腹を壊す者、少しくらいの古い食料もわかっていて食べたりするだろう。
血圧の高い者は寒さで血圧も上昇し、災害で薬も飲めない状況であれば倒れることもありうるだろう。
縮こまっていることによるエコノミー症候群や脳梗塞、心筋梗塞など、寒さはありとあらゆる病気の危険因子でもある。

それらを考えると、天候一つで先を心配してしまう性分に苦笑した。
誰もが風邪をひくわけじゃない。そうわかっていてもだ。
ただ、自分は医師なのだと今回のことで思い知った。
患者の心を癒す暇もなかった。ただひたすら治療して、回復するように祈るだけだ。
その他の大部分、主に治療後のことに関しては、看護師に任せきりだった。
それをしたくともできない状況だったといいわけくらいならできるだろう。
患者を励まし、寄り添ったのは、琴子のような看護師たちだった。
泣いて仕方がない患児たちをなだめ、親の誰かが来るまでを支え続けたのは、医師たちではなかった。
琴子の看護に時々舌打ちしたくなるようなこともあったが、今回ほど同じ職場で同じく医療職だったことを良かったと思ったことはなかった気がする。
夫婦として、同じ職種の者として、寄り添えあえることがありがたかった。
もちろん家にいる他の家族も心配だったが、無事でありさえすればどうとでもなる。不安だろうが、そういう職種の二人を思って許してくれるだろうと信じている。そうであるように今まで過ごしてきたはずだった。
だから直樹は、今この職場に同じように働いている琴子を想う。
目の前にいなくとも、同じ屋根の下、同じように働いているのだと思うことができた。

「入江琴子さんの、旦那様でいらっしゃいますよね」

考え事をしながら歩いていたとはいえ、突然現れたに近い女性にぶつかりそうになって慌てて足を止めた。しかも言われた言葉には琴子の名前があったことで、考え事はすぐに吹っ飛んだ。

「そちらは」
「あ、失礼いたしました。先日、こちらの患者さんを乗せて取材をさせていただいたMテレビのリポーターをさせていただいております、林です」
「…ああ、その節はありがとうございました」
「もう一度奥様のほうに取材をお願いしたのですが、これ以上誰も傷つけたくないからとお断りされまして」
「本人がそう言うならそうなんでしょう」
取り付くしまもなくそう言って直樹は歩き出した。
慌てたリポーターは直樹の前に回り込むようにして再度言った。
「奥様は」
その言葉で直樹はそのリポーターを見下ろした。リポーターにしてみればしてやったりのはずだ。
「自分が悪く言われるのは構わない、とおっしゃいましたが、実際ひいきだと言う声は聞こえております」
「実際、ひいきですから」
「ですが、そう言われても構わない、という心根を私はもう一度取材したいんです」
「お断りします」
「何故ですか。弁明の機会を与えられるというのに」
「弁明は必要ないからです」
「必要ないって」
「その言葉通りです。琴子は、ひいきだとわかっていても、彼女をそのままにはしておけなかった。それに後悔はない、ということです」
「でも奥様の立場は」
「琴子は、看護師です。本来、ひいきが許される立場ではなかった。でも、それを可能にしたのは紛れもなく琴子の行為からです。誰だって悪く言われるのは怖い。それも全国ネットで。あなた方は、また更に琴子をさらし者にする気でしょうか」
「そんなつもりは」
ないと言い切れない、とそのリポーターはその先の言葉を止めた。
「それでは、何か、他に伝えたいことがあれば」
「ありません」
「でも」
「病院には、他にも大勢の患者がいます。いまだ身内の安否すらわからないままの方も。
手術をしようにも保護者の了解さえ取れないまま手術を待っている患者も」
「それは…?」
直樹はそれには答えずそのまま歩き出した。
後に残されたリポーターは、少しだけくたびれた感のある白衣の背中を見ながら考え込んでいた。

(2013/09/23)


To be continued.