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1月11日午後4時10分
直樹は医局を出てからエレベータの前に行ったが、なかなか上がってこないのであきらめ、そのまま横の階段を下りることにした。
同じように上り下りする忙しそうな職員も見かける。
目的の階に着き、重い扉を開け、ナースステーションへ向かう。
呼び出されたのは外科ではなく、小児科だった。
「あ、入江先生」
小児科の看護師が直樹を見てほっとしたような顔をした。
「サユリちゃんの点滴が漏れてしまったんですが、入江先生じゃないと刺し直しは嫌だと」
「わかりました。用意はありますか」
「はい、こちらです」
直樹は点滴セットを受け取り、患児の元へ行くことにした。
* * *
琴子は午後の仕事も終わりに近づき、その日の看護記録をようやく始めたところだった。
人より遅いその行動は、もたらされた一報によってさらに遅れることになった。
「琴子、小川さんのところにお見舞いが来てるんだけど」
「小川さん?」
「お見舞いに何か食べ物持ってた気がするわ」
「…あ、検査!」
そう言うが早いか、琴子は走ってナースステーションを飛び出した。
「お、小川さん!!」
病室へ駆け込むなり、そう言って患者のカーテンをめくる。
まさに間一髪、今その口元には饅頭があった。
「ダ、ダメですよっ。明日検査なんですから!
今まで我慢したのが水の泡じゃないですかっ!!」
「…だって、お見舞いでいただいたから。お饅頭腐っちゃうじゃない」
「今日一日くらいなら腐りませんってば。だいたいそんな6個も全部食べるつもりだったんですか?!」
「えーと、半分食べて残りは明日かな、と」
「1個だけ残して、あとはお部屋の皆さんにお配りしたらどうですか」
「えー、1個だけ?」
「いつもおやつもらってるいいお返しじゃないですか」
「まあ、そうだけどぉ」
「とりあえず今日は食べないでください」
「もう、仕方がないわねぇ」
仕方がないってまったく〜。
琴子が顔は笑いながらお饅頭を受け取り、同室の患者にそれぞれ1個ずつ渡した。
食事制限のある患者はいないので、皆喜んで受け取った。
それでも検査で制限されている小川さんのためか、皆大事に戸棚にしまい、目の前で食べることはしなかった。
琴子は1個だけ残った饅頭の箱をどうしようかと考えていた。
このまま小川さんに返していいものだろうか、と。
そのときだった。
一瞬めまいがしたのかと思った。
何か、どんと突き上げるような衝撃の後に一気に後ろへ引っ張られるような感触がした。
実際には部屋全体が揺れていて、大きな揺れを感じた後は立つことすらできなくなった。
そして聞こえる地響きと物の倒れる音。
ベッドの脇に置かれていたオーバーテーブルが琴子に向かって凶器のように飛んできた。
それを避けると、更に何かが琴子の頭をかすめた。
ベッド横のロッカーが全て倒れ始めていた。
床頭台の扉がばたんばたんと音を立てて開いていた。
そのたびに中に入っているものが飛び出し、とうとう移動しながら倒れた。
テレビが前に吹っ飛んでいく。
あの重いベッドが徐々に部屋の中心部に向かって移動し始めていた。
その上に乗っている患者は、振り落とされないようにするのが精一杯で、皆ベッドヘッドにしがみついていた。
悲鳴やら怒号やら、ものの落ちる音、割れる音、ありとあらゆる音がぐわーんと響いたが、琴子にははって移動することすらできなかった。
棟が高いので、大きく気持ちの悪い揺れも重なり、足元がおぼつかなかった。
とても長い揺れだと思った。
実際にはそれほど長くなかったのかもしれない。
しかし、そう思えるほどゆっくりとした揺れだった。
カタカタという音がしたのを最後に、ようやく琴子は立ち上がることができた。
幸い病室の入口近くにいて、廊下に面していたのも幸いした。
肩が痛い気がしたが、廊下に投げ出されたものを見て、自分に飛んできたものを知った。
いつ誰が置いたかもわからない移動用の点滴架台だった。
揺れが収まった瞬間の静けさは、騒がしい時間の病棟では異常なほどだった。
夜中でもこれほどの静けさは感じない。
常に心電図モニターやナースコールの音がナースステーションから響き、人工呼吸器などの機械音がどこかの病室から聞こえてくるのだから。
立ち上がった瞬間、自分でも驚くほど隅々まで病室を見渡して声をかけた。
「皆さん、大丈夫ですか?!」
はい、という声がして病室の中を見ると、皆がベッドの上で震えていた。
布団をかぶり、倒れてきたものを下へと落としながらも元気だった。
琴子はそのままナースステーションへと戻った。
もちろんナースステーションの中もひどい有様だった。
医師も看護師もようやく立ち上がったところだったが、パソコンのモニターは、防犯用の鎖に引っかかってるだけだったし、棚自体傾いてプリンターは部屋の中ほどまですっ飛んでいた。
常備品が置いてある場所はもっとひどく、足の踏み場もなければ通り抜けることすらできない。
「けが人がいないかすぐに報告を。重症患者の確認を」
それだけをようやく叫んだ主任はけがもなさそうだったが、奥から弱々しい声がした。
「ちょ、ちょっと、これどけてちょうだい」
「モトちゃん?!」
琴子は奥から聞こえた声に駆け寄った。
円形テーブルの下に桔梗幹はいた。
めちゃくちゃに積み重なったイスとカルテ車(カルテを積んだ台)に囲まれ、抜けられなくなっていたのだった。
「けがしたわけじゃないのね」
「違うわよ。中から押しても引っかかって出られないのよ」
「今どけるから待ってて」
何とか幹が抜けられるだけの隙間を作った。
全てをどかそうと試みたが、乱雑なナースステーション内にもそのスペースはなかった。
ようやく出てきた幹は、琴子にお礼を言いながら気づいた。
「あら、あんたの顔、ちょっと見せなさい」
「え、何?」
琴子はそう言われて、初めて自分がけがをしていたことに気づいた。
幹はそばにあったティッシュペーパーで既に止まった血をふき取った。
「こめかみの所、何かぶつかったの?」
「ああ、点滴架台が倒れてきた気がするけど、大丈夫よ」
「顔に傷つけちゃって…。入江さんが知ったら…」
「…入江くん!」
琴子は今まで忘れていた存在に、自分でも驚くほどだった。
「…あんたにしては珍しいわね」
「だって、患者さんが」
「…そうよね。あたしたちナースなんだから」
口にした途端、琴子は急に心配になった。
どうしよう、けがをしていたら。
それに、子どもたちは…?
皆は?
「入江さん、桔梗さん、あなたたちは救命センターへ行ってください」
琴子の思考はそこで遮られた。
「はい」
今は心配しても仕方がない。
今すぐ駆けつけることもできないなら、目の前の人を助けよう。
そう決心して、琴子は幹とともに階段を駆け下りた。
(2009/01/21)
To be continued.