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1月11日、午後4時15分、小児科病棟。
直樹は点滴セットを受け取って患児のもとへ行った。
「サユリちゃん、大変だけどもう一度点滴をしようね」
そう声をかけた。
わずか5歳の患児は直樹を見ると、小さくうなずいた。
細い血管に点滴を刺すのは、かなり難しい。
ましてや入院している患児ともなれば、脱水でより血管が細くなっていたり、病気により血管自体が脆くなっている場合もある。
それでも治療のためにはやむを得ず刺さなければならない。
その場合でも無理矢理に行うのではなく、患児の了解を得るようにする。
自分で納得しなければ治療の効果はなく、嫌がればいかに必要なのかを粘り強く説明することにしている。
幸いこの患児は点滴を嫌がるわけではない。
ただ、失敗されるのを恐れて点滴の上手な者にしか腕を出さない。
今日はいつも点滴を任される看護師がいないので、主治医である直樹を指名してきたのだろう。
ここで失敗してしまってはこの患児の信頼を損ないかねないので、直樹は慎重に点滴を行った。
無事に点滴も刺し終わり、固定もしてから患児に向かって手を振って病室を出たときだった。
何か地響きのような音がしたと思ったのは一瞬だった。
立ち止まったその足に、突き上げるような衝撃を覚えた後、続けて揺れ始めたのを感じて悟った。
地震…か。
ところがその揺れは直樹の予想をはるかに裏切り、大きく揺れだした。
とっさに先ほど出た病室に入り
「布団をかぶってベッドにつかまれ」
と叫んだ。
うわ〜という声や悲鳴が一瞬出たが、あまりにも激しい揺れに患児たちも声がでないほどだった。
倒れくるロッカーを避け、そばに一人でいた立っていた患児の上に落ちてきたテレビからかばった。
テレビはゴツンと重い音を立てて転がり落ち、前面のガラスが割れた。
ベッドは小船のように揺れていたが、まだ誰も転がり落ちたものはいない。
先ほど点滴したばかりだったが、その点滴はすでに引っ張られて抜けている。
患児は点滴に腕を引っ張られ、腕から血を流して呆然としている。
揺れが激しくどうしてやることもできない。
自分の立っている場所ですら危険で、かばった患児はベッドの下に押し込め、自分はベッドにつかまっているのが精一杯だった。
物が凶器のように降り注いでいた。
わずか数十秒だったが、やっと揺れが収まった後も変な感じがした。
病院の建物全体が地震の揺れによって共振しているのだとわかった。
幸い建物自体に損傷はなさそうだった。
直樹は立ち上がって、患児の上に覆いかぶさっているロッカーをどけてやり、無事を確認する。
「動けない子はいないかな」
その声にやっと患児たちはごそごそと動き出した。
もっとすぐに泣き始めるかと思えば、呆然としているせいか、反応が少ない。
「マ…マ」
その声が合図となったかのように、次々に患児たちは泣き出した。
「危ないから、歩ける子はスリッパを見つけて廊下へおいで」
割れたものを避けるように指示しながら、直樹は患児を誘導した。
同じように部屋にいた保護者たちは、協力しながら患児全員を部屋の外へ連れ出した。
若干のけがはあるものの、とりあえず皆命に別状はなさそうだった。
それだけは心底ほっとして、直樹は次の仕事に取り掛かった。
あとの誘導は看護師たちに任せ、直樹は術後の患児の確認に訪れた。
「入江先生!」
部屋に入ろうとして、何かが遮っているのを見た。
ベッドが移動して、入口を塞いでいた。
スライド式の扉に当たり、扉をゆがませていた。
中では患児の親が扉を開けようと懸命にベッドを動かしている。
「キョウスケ君は無事ですか」
「は、はい。点滴も無事でした」
「お母さんは…」
「私は…私も大丈夫です」
「ベッドが移動できたらどいてください。扉を外しますから」
直樹は扉を思いっきり引っ張り、扉をレールから外した。
中へ入ると、不安そうにしていたが患児は無事で、直樹は一通り診察をし終えるとまた次の部屋を見に行くことにした。
物が散らばった廊下を眺めたとき、直樹は微震を感じた。
おそらく余震なのだろう。
大きな揺れではなく、すぐに収まったが、あちこちでは患児の泣き声が響いた。
直樹は先ほどから駆け出したい気持ちを抑え、黙々と受け持ち患児の確認に廻った。
それが済むと今度は外来に向かう準備を始めた。
おそらくどこもけが人でいっぱいになるだろうことは予想できた。
一瞬外科病棟へ足を向けかけたが、思い直してそのまま階段を下りていった。
1月11日、午後4時30分、外来。
外科から応援のつもりで階下へ下りた琴子と幹は、それがとんでもなく間違いだということを知った。
地震が起きてからわずか15分、すでに外来にはけがをした人が集まり始めていた。
一度は救命センターにも行ったが、医療関係者ですら身動きもままならず、軽症者は全て外来に回されることになり、同じように琴子と幹は外来へ回された。
もちろん今が非常事態なのはわかっていたつもりだった。
病院の機能自体がストップして、連絡をするにも全て口頭で、電気も自家発電なので無駄にするわけにもいかず、酸素は今あるストックで終わり。
吸引器も動かず、大きな機械も使えず、医薬品も全て病院内にある分だけ。
包帯、ガーゼ、全ては無駄にできず、今までもったいなくも使い捨てしていたことを嫌でも思い出した。
もちろん感染防止のため止むを得ないことだったが、なんて贅沢なことだったのか。
「こちらもう水ありません」
がやがやと騒がしい外来のイメージは、殺伐とした戦場のような有様だった。
廊下の隅々まで患者が座り込み、血の跡も見える。
水がないと叫んだ看護師は、手の空いた看護師である琴子と幹を見つけるとすかさず言った。
「水、探してきて」
琴子は慌てて「はい」と返事したものの、どこへ行けば水が手に入るのかさっぱりわからなかった。
琴子はこの外来の中心となっている場所を求めて廊下を進んでいくことにした。
幹はうなだれた人々を前にして、とりあえず傷を診ることにした。
こうして歩いて病院へ来られる患者はさほど重症ではない。
とりあえず切ったり打ったりと、目に見える傷ばかりで、おとなしく治療されるのを待っている。
中でも急に体勢を崩すものもいた。
急いで駆けつけると、呼吸が乱れていた。
経験上、こういうときは表面上の傷より重症である場合が多い。
「痛みますか」
「う…ん…」
「どこ?胸?」
幹は患者のシャツを開き、胸の音を聴こうとした。
右胸を触ると非常に痛がり、音もひどく聴きにくい。
いつもならここで車椅子なりストレッチャーなり、何らかの手段で運ぶのだが、廊下にも人があふれてとてもそれどころではない。
「…もう少しだけ、頑張って」
唇をかみ締めた後、幹は患者にそう告げた。
患者を支えて医師がいると思われる外来の奥へ。
それでもまだ順番がある。
他の軽症者たちのところへ医師が回ってくるのは多分ずっと後に違いない。
幹はずらりと並んだ患者を見て毅然と顔を上げた。
琴子は外来の中央付近に医薬品を管理している一団に会った。
水を求めてきた琴子は、並んでいる中から水を探す。
「あなた、勝手に触らないで」
琴子が声をかけられた女性は、白衣を着ていたが医師ではなさそうだった。
「あの、向こうで、水を持ってきてくれと言われました」
「何に使うの?」
「…傷口の処置だと思います」
「飲み水を渡すわけにはいかないわ」
「でも、ばい菌が入ったら困るし」
「…あなた、看護師でしょう?この状況見て、消毒に飲み水使おうなんてどういう神経してるの」
ピシャリと言われて、琴子は首をすくめた。
白衣に翻った名札は、薬剤師:東郷。
手にボードを持って、東郷は急ぎ足で去っていった。
琴子はその後ろ姿を見送った後、はっとしてまた他の誰かを探すことにした。
少なくとも、このままにはしておけない。
試しに外来奥の水道をひねると、まだかろうじて水は出た。
琴子は知らなかったが、この後誰もがまだ危機感なく蛇口をひねったため、暗くなる頃にはすっかり屋上タンクの水がなくなったのだった。
(2009/01/28)
To be continued.