何度でも




1月11日、午後4時40分。

直樹が小児病棟から急いで階段を下りて救命へ駆けつけると、外にはずらりと並んだ人がいた。
廊下から、ロビーから、駐車場まで、人の群れ。
正確には負傷者。
それでもざっと見たところ軽症者ばかりだった。

直樹にはわからなかったが、重傷者がこの病院にたどり着くのはもう少し後。
家屋に埋もれた人々が助け出され、各地の病院が処置しきれない患者が運ばれてくるのに時間がかかったのだ。
道路は寸断され、ところどころ火災が発生し、放置された車で道路は渋滞し、緊急車両でさえ病院までたどり着けずにいたのだ。

救命への渡り廊下から見た外の景色は、相変わらず緑に囲まれたキャンパスだというのに、その向こうで上がる煙が見えるのが非日常的だった。
時間的には夕食の支度まで間があったが、飲食店などでは既に準備に取り掛かっていたことだろう。
この寒さで家庭では暖房も使っていたことも想像できる。
火災が発生してもなんらおかしくはなかった。

そこで初めて直樹は携帯電話に手を伸ばした。
電源は入るものの、基地局が壊れたのか全く通じない。
家族のことも心配だったが、同じ院内にいながら琴子の姿も全くわからなかった。
それでも実際に救命の現場に下りてしまうと、そんなことは考えている余裕もなく、手も頭も全てを他の誰かのために使うしかなかった。
遠くからやっと救急車の音が響いてきた。
それでもここまでたどり着くのに時間がかかるだろう。
気づいたときには、あたりは暗くなっていた。


1月11日、午後7時。

随分働いた気がしていた。
それなのに時間はさほど経っていないらしい。
通常ならもう日勤帯は仕事も終了しているはずだった。
外は真っ暗で、院内も既に非常灯のみで、いつもより暗い。
そして、どんどん冷え込んできていた。
暖房にまわせる電力はないのだ。
廊下にいた人々は、その廊下の冷たさに耐え切れずに次々移動していた。
残っているのは毛布に身を包んだ人々。今夜はここで夜明かしをする覚悟かもしれない。

「…琴子、あんた一度家に帰ったら?」

幹は明かりがなくなって治療するにも不便になってきた外来で、真っ暗な外を見てため息をついた。

「うん、でも電車動いてないから、多分凄く時間かかると思う。
それなら今ここにいる人を助けたほうがいいだろうし。
もし子どもに何かあったら、絶対誰かがどんなことしてもあたしに知らせにきてくれると思うの」
「…そう。なら、仕方がないわね」
「でも、ちょっとだけ、入江くんの様子見てきてもいい?」

そう頼んだ琴子に、幹はちょっとだけ笑って答えた。

「それでこそ、あんたよね」

幹は外来の奥へ行くと、許可をもらってきたとばかりに琴子の背中を叩いた。

「さ、行きましょう」
「…いいの?」
「夜はまだ…長いわ」

こんなにもたくさんの人がいるのに、なんて静かな夜なんだろう。
琴子は辺りを見渡しながらそう思った。
まずは救命センターに行くのがいいだろうと二人は向かうことにした。


 * * *


「お願いです、助けてください」

これで何人目だろう。
直樹はマスクの下でこっそり息を吐いた。
徐々に運ばれ始めた患者の中には、既に心肺停止の者もいた。
いつもなら全力で、薬剤もふんだんに使い、蘇生させることに力を尽くす。
ただ、今のこの状況では、とてもそんなことはできない。

「申し訳ありません。これ以上の蘇生は無理です」

今、また別の患者から手を離した。

「どうしてですかっ」
「この方の頭部は陥没しています。残念ながら、蘇生は不可能です」
「手術すれば…」
「…できる状況であれば」
「そんな…」

多分手術をしても80パーセントの確率で助からない。
残りの20パーセントにかける余裕が、今、ないのだ。
おまけにこの状況で、手術室はフル稼働。輸血も届かない、機械は限られている。
手術を行っても、意識が戻る可能性はほぼ10パーセント以下。
先ほどの情報では、レントゲン室の現像液がなくなりそうだ、と。
他の医師が声をかけた。

「おわかりください。この状況で、この患者さんだけに医薬品の全てを使うわけには…」

家族はそれ以上何も言わずに泣き崩れた。
いつもなら、多分言わない言葉だったろう。
スタッフは沈黙したまま後片付けをする。
もうすぐに次の患者が来るのだ。
スタッフも殺気立っている。
おそらく誰もが興奮状態で、ただひたすら作業をこなしている。

隅で手袋を取り替えていると、後ろから控えめに呼ぶ声がした。

「入江くん」

処置室の出入り口から琴子が顔をのぞかせていた。

「…琴子」

額に乾いた血をこびりつかせてはいたが、元気そうなその姿にほっとした。

「あたし、このまま外来と病棟にいると思う。落ち着いたら帰りたいけど…多分無理だから」
「…そうだな」

「入江先生、次、腹部裂傷来ます」
「わかりました」

直樹は新しい手袋に手を通す。

「あ、じゃ、入江くん、また後で」

琴子は救命入口の音を聴きつけて、足早に去っていった。

また、後で。

その『後』がいつになるのか、直樹にはわからなかった。
1時間前から、ひっきりなしに患者が運ばれてくる。
外科の医師たちは、手術室と救命処置室に分かれて処置を続けている。
処置を続けても永遠に終わらない気さえした。

いや、いつかは終わる。

それだけを胸に、直樹はまた運ばれてきた患者を前にして、再び忙しく立ち回ることになった。


 * * *


再び琴子と幹は救命から外来へ。
通りかかった外来の一角で、人だかりがあった。
二人は気になってその中心をのぞいてみた。

『…火災はますます広がりを見せ、環状七号線を境にして…』

…テレビ。

自家発電装置からつながれた電源を元に、1台だけテレビをつけたらしい。
誰もが情報を得ようと人だかりができていたのだった。

琴子はもう少しよく見ようと人をかき分け、前のめりになった。

『午後7時30分現在、800件を越していると思われます。
また、多摩川、荒川などにかかる橋げたが倒壊したため、交通は依然として寸断され、他方面からの支援活動状況に影響が出るものと思われます。
政府は首相官邸地下に災害対策本部を設け、自衛隊、各国部隊からの援助対策を…』

患者だと思われる人がチッと舌打ちした。

「…今から相談してたら、いったいいつ助けが入るんだよ。これじゃ、関西の二の舞じゃないか。
屋上行って見てみろよ…。環状線の内側…真っ赤なんだぜ…」

琴子と幹は顔を見合わせ、その患者の肩に手をかけた。

「さ、病室へ戻りましょう。きっと何か食事が出ますよ。
もちろんいつものようにご馳走というわけにはいかないでしょうが」

はっとしたように患者は二人を見た。

「へっ、いつもご馳走なんか出ないだろ。病院食なんてくそまずいんだから」

琴子は笑って言った。

「今のうちに何か食べておかないと、今度いつそのまずい食事が食べられるかわかりませんよ?
病棟もそろそろ落ち着いた頃でしょうから、行きましょう」
「…こんなの見たって家に帰れるわけじゃないもんな」

ぐーー。

患者が幹を見た。

「あ、あたしじゃないわよ」

そして視線を琴子に向けた。

「あ、あれ?聞こえちゃった?」

顔を真っ赤にして頭をかく琴子。

「…あんたねぇ…」

患者たちの間で少しだけ笑いが起きた。
それをきっかけに、そのままぞろぞろと患者たちは病室へ戻っていく。
いつもなら6時には始まる夕食も食べていなかったのだ。
早すぎると文句も出た食事時間だったが、こうなってみると一刻も早く何か口にしたくなる。それはこれから満足に食べられなくなる危機感なのか。
テレビの前には、治療を終えた外来患者と家族だけが残った。
患者たちがテレビの情報に名残惜しそうに去っていく姿は、これから何度も目にすることになる。
電気が完全に復旧するまでまだ3日を要したのだった。


(2009/02/04)


To be continued.