何度でも




1月11日、午後7時40分、外科病棟。

琴子と幹が病棟へ行くと、まるで深夜のようだった。
非常灯しかついておらず、いつもは夜中でも明るいナースステーションには
薄暗い緑の照明だけが灯っていた。
主任が苦労して取り付けた懐中電灯がぶら下がっており、その明かりの下で懸命に名簿をめくって安否確認をしているのがわかった。

「電話、つながるんですか?」

そんな主任に琴子が声をかけた。

「つながるときもあるわ」

そう答えながら振り返り、主任はそこでやっと琴子と幹に気がついたようだった。

「救命はどうだった?」

主任の言葉に幹が答えた。

「とても手伝うどころではなくて、外来の軽症者処置にまわりました。他の病棟の応援が少なくて、外来師長は主任の判断に感謝していました」
「…そう。明日は誰か他の人に行ってもらうつもりだけど、この分だと自宅にいるスタッフがいつこちらに来られるかわからないから、申し訳ないけど交代で病棟のほうもお願いするわ。ICUにいる患者が全部外科に上がってきたから」
「全部、ですか」
「そう、全部。もちろんここだけではなくて、第1外科も第2外科も脳外科も関係なく、病室が空いている所には全て重傷者が入っていく予定です」
「それでは、今後も増えるということですね…」
「とりあえず回復室に3人入れて、軽症者や回復途中の患者は帰宅させることにしたわ。空いた病室に一時的に全員振り分けていくから、そのつもりでね。
それより、あなたたち、何も食べていないでしょう?後ろに非常食があるから、一つずつ取っていって。水は次にいつ配られるかわからないから、大事に飲んで」
「あ…はい」

幹が返事をして振り向くと、琴子は既にいなかった。


琴子は担当の病室を一通り廻ることにした。
食事は皆済んだのか、本当にけがはなかったのか、持病が悪化していなかったのか。
いろいろ気がかりなことはある。

「あたしは検査食でほとんど食べてなかったんだから、お腹空いてるのよ!だから少しだけ余分にくれって言ってるだけじゃない。あなたたちは十分食べてたでしょう」

そう大きな声で言う声がしたが、琴子が病室に入ると声はぴたっと止まった。

「どうしたんですか?」

声をかけても暗い病室の中では表情が見えない。
それでも病室は元のように片付いているのが目に見えた。
きっと琴子たちが外来に下りている間に皆で片付けたのだろう。
そういえばナースステーションもかなり片付いていた。

「あ、入江さん。あなた、あたしのパンを持っていったでしょう。あれ、返してくれる?どうせ明日検査もないでしょうから、食べたって平気よね」

患者の小川はそう言って手を出した。

「あ、ああ、そうですね。はい、今すぐ持ってきます」

他の患者は琴子を見て、皆布団をかぶった。
どうやら何か食事で揉め事があったようだ。
琴子は何か不穏な空気を感じて、急いでナースステーションから預かったパンを持ってくることにした。


「どこいったかなぁ」

琴子はパンを預かって置いたはずの辺りをパンを求めて探していた。
幹は戻ってきた琴子に非常食と水を勧めたが、あまりにも熱心に探し物をしている琴子に付き合って、手伝うことにした。

「地震でどこか吹っ飛んでいったんじゃない?」
「えー、でも、この棚に置いたんだから、少なくともこの辺に落ちたはずだけど」

幹が偶然見たゴミ箱の中にあったものを拾い上げる。

「…琴子、これ…」

間違いなくメロンパンの袋だった。
ちなみにアンパンは見つからない。

「え、やだっ、なんで〜?」

幹から袋を奪い取って空の袋を見る。
どんなに見つめても中身はない。

「どうするの、それ」
「…どうしよう」

琴子が幹を見つめたところで、ナースステーションに入ってきた人物がいた。

「いやぁ〜、酷いめにあっってさ。琴子ちゃんも無事だったんだね。
僕はあのおんぼろエレベータに閉じ込められて、やっとのことで扉をこじ開けて出てきたんだよ。ずっと閉じ込められたままだろうかとかさ、このまま落っこちたらどうしようとかさ。もう、お腹は空くし、まいった、まいった。でもおんぼろだったから逆に扉も割と簡単に開いたのが幸いだったな」

いつもと変わらない様子で陽気に来たのは西垣医師だった。

「あれ、そのパン、琴子ちゃんのだった?これから手術室に行かなくちゃいけなくてさ、何にもないからいただいたよ。体力つけとかないとね。悪かったね、ごちそうさま」
「に、西垣先生…」
「さあて、受け持ち患者は診たし、入江に嫌味言われないうちに行くか〜」
「これ、患者さんのなんですよっ」
「え、そうなの?ま、食べちゃったもんは仕方がないだろ。困ったときは助け合い。また今度おごるからさ」

西垣はそう言って再びナースステーションを出て行った。

「で、本当にどうするの?」

幹の視線に琴子は困り顔で答えた。

「どうしよう?」

いくら文句を言ったところでパンは戻らないので、琴子は仕方がなく再び患者のところへ。

「小川さん、ごめんなさい。どうしても見つからないから、今度あたしのカレーパンあげるということでいいかしら」
「どうしてないのよ?!あなたが預かったんでしょ。それに、あたし、あなたが取り上げたから検査食だけで、他の人よりお腹が空いてるのよ!ひどいわ」
「…ごめんなさい」
「それに、あたしのあげた饅頭。あれだけでも皆は助かったはずよね」
「…ええ、そうですね」

琴子は患者:小川を前にうなだれたまま立っていた。

「本当にごめんなさい。どうしても足りなければ、あたしの分の食事を持ってきますから」
「もう、仕方がないわね」

琴子が頭を下げたところに鋭い声が飛んだ。

「…あげることないわよ」

病室の奥、一人の患者からだった。

「下がどんな状況なのか、見てないから言えるんだわ。皆で分け合わないと足りないのに、小川さんはあたしたちのだけじゃなくて、看護師さんの分まで奪うつもり?」
「い、いいんですよ。皆さんの分はともかく、小川さんのパンを取り上げたのはあたしだし。だから、ね?」

琴子は一所懸命取り繕ったが、病室内は険悪なままだった。

「看護師さん…。私、まだ病気が治ってないのに、明日帰れって言うんですよ?家に帰っても無事かどうかわからないのに、病院を出てわざわざ避難所暮らしをしろってことなんですか?」

別の患者からそう言われたが、琴子にはどう答えていいかわからなかった。

「えっと…、あの…」
「こういうときだから病院のほうが安心なのに」
「そうよねぇ」
「で、でも、ご家族と一緒にいたほうが…」
「あら、家族だって、一人でも安全なところにいたほうが安心するに決まってるわよ」

家族…。

その言葉を自ら口にした琴子だったが、その途端胸が痛んだ。
心配していないわけじゃない。
まだ連絡も取れない。
でも、家に帰るわけにもいかない。
子どもの元気な声を聞いて安心したかった。
琴子は唇を震わせて立っていた。

「何を揉めてるんですか?」

声を聞きつけたのか、主任が病室に現れた。

「主任…。皆さん、帰宅されるのが不安だと…」
「…ああ、そのことね。わかってます。でも、非常時なんです。今、元気に動ける方は、外泊だと思って帰宅していただくのは、仕方がないことなんです。お薬も十分出します。非常食も一日分だけお渡しします。病院の機能が復旧したら、元通り戻っていただいても構いません。他の地域へ入院されるなら、紹介状もお渡しします。本当に申し訳ないことだとは思っていますが、もう既に救命も外来も、重傷者でいっぱいなんです。明日以降もどうなるか…。ご理解ください…」

深々と頭を下げた主任の表情は見えなかっただろうが、不満を口にした患者はそれで押し黙り、再びベッドにもぐった。
完全に納得したわけではなさそうだったが、とりあえずその場は収まった。
琴子と主任は病室を出て、ナースステーションへ戻った。
主任が歩きながら小声で言った。

「人工呼吸器が外れて、五木さんが亡くなったの。すぐに担当看護師がはめようとしたけど、呼吸器と一緒に挿管チューブも抜けて間に合わなかった」
「ご家族は…?」
「連絡がつかないわ」
「明日にはお見えになるかも」
「ええ。今日の揉め事なんてまだマシでしょうね」

そう言って足早に去っていった後ろ姿を、琴子は疲労感を感じて見送った。


(2009/02/16)

To be continued.