何度でも




1月11日、午後9時。

寒気を感じて、直樹はつかの間の眠りから覚めた。
いや、その前に誰かに呼ばれた気がしたのだ。

「入江先生!」

身体を起こすと、身体にかけていた毛布がずり落ちた。
先ほど交代させてもらい、わずか30分の眠りだった。
休憩室のドアを開け放ち、看護師が叫んだ。

「弟さんが!」

裕樹が…?

直樹は休憩室のソファから立ち上がり、救命の入口へ急いだ。
背中に誰かを背負った裕樹がよろよろと歩いてきていた。
すぐにそばにいたスタッフに助けられ、奥の処置台に背負った人物が乗せられた。

「好美ちゃん?!」

そう問いかけると、だるそうに目を開けて「直樹先生…」と微笑んだ。

「こいつ、棚の下敷きになってたんだ。そのときは大丈夫だったんだけど、助け出して病院へ連れてくる途中からだんだん調子悪くなってきて…」
「…どれくらい下敷きになってたんだ?」
「地震があったのが4時過ぎで、僕が助け出したのが7時過ぎだから…」
「約3時間か。下敷きになった部位はどこだ」
「左足だけ。他は打ってもいないし、けがもしてない。骨も折れてはいないみたいだ」
「そうか」

周りでスタッフは点滴を準備して、すぐに針が差し入れられた。

「採血したら、輸液どんどん入れて」
「はい」

裕樹は短いやり取りを聞き、心配そうに好美の顔をのぞきこんだ。
直樹は振り向いて裕樹に言った。
ゆっくりと、言い聞かせるように。

「今からすぐに家族を呼んで来い。今この場にいてもおまえにできることはないから。家族も心配してるだろう。それから、ついでにおやじたちにも知らせてくれ」
「で、でも」
「おまえのいない間に死なせたりなんかしない。だが、このままではだめだ。すぐに移送する必要がある」
「え…。それって…もしかして…クラッシュ…?」
「先生、血液出ました」

呆然とした裕樹を残し、直樹は検査データを受け取る。
そのデータはまだ不完全なものの、ほぼクラッシュ・シンドロームを示していた。

「ぼ、僕…、僕が考えなしに助けたから…。知ってたはずだったのに。クラッシュ・シンドロームのこと、知ってたのに…!」

崩れ落ちそうな裕樹は、忙しく動くスタッフの間では邪魔にしかならなかった。
直樹は裕樹の腕を引っ張って廊下へ連れ出した。

「知っていても出来ないことは俺にだってある。おまえが助けなかったら、好美ちゃんは今でも下敷きだったかもしれない。
電話がダメなら行くしかないだろ。俺を信じて走っていけ。おまえが行けないなら、琴子に替わってもらう」

はっとしたように裕樹は直樹を見た。

「琴子…呼ばなくていいよ。あいつも大変なんだろ。
…行くから。だからお兄ちゃん、好美、助けてやって!」

そう言うと、裕樹は好美にもう一度駆け寄った。

「待ってろ。…絶対待ってろよ。家族、呼んでくるから。お兄ちゃんを信じて、好美も頑張れ」
「…うん」

小さなうなずきを確認すると、裕樹は救命処置室を出て行った。

その後ろ姿を見ながら、直樹は新しく出たデータを握りしめる。
街は多分いつもとは違い、全く明かりのない夜だったことだろう。
建物も崩れ、道も歩きにくいはずだ。
その中を人一人を背負ってたどり着くのは、困難なことだったろう。
いつの間にかたくましくなった裕樹のためにも、直樹は急いで救命処置室へ引き返した。


 * * *


就寝時の見廻りを終え、琴子は会議室に入った。
家に帰れなかった同僚看護師がそれぞれ毛布をかぶって横になっている。
次の見廻りは、別の看護師が交代で行くことになっていた。
明日も代わりの看護師が来ない限り仕事は続くのだ。
置いてある毛布を1枚取り、琴子は同じように片隅へと移動した。
暗くて壁伝いでしか歩けず、誰かを踏まないかとひやひやしていた。
この暗さは鳥目の琴子にとって辛かった。
懐中電灯の明かり程度しか確保できず、移動すること全てが困難だった。
固い床は冷えていたが、文句は言っていられない。
毛布を身体に巻きつけ、寒さをしのぐようにして身体を丸めた。

明日には病棟の患者の半分以上が一時退院する。
その代わり、救命で処置を終えた患者が入院する予定だった。
その救命で、直樹はずっと働いているはずだった。
琴子は暗い中でぼんやりとこの半日のことを思い返していた。
カタカタっと軽い音がするたびにビクリと身体が反応する。
動いているときは気にならないが、立ち止まっているとき、ふとしたときに小さな地震を感じる。
無理に目をつぶり、頭からいろいろな思いを追い出すことに努めた。

うとうとする眠りの中で、琴子は何度も夢を見た。
切れ切れに見る夢は、決して心地いいものではなかった。

「…琴子…」

揺り起こされ、琴子は目覚めた。
これだけ寒い中で、薄っすらと汗をかいていた。

「…何、もう交代の時間?」

同僚が一人、琴子の肩を叩いた。

「入江先生から伝言よ」
「入江くんから?」
「妹さんが入院したって」
「妹?…妹なんて…」

あっと思わず声をあげてから、周りを気にして声を潜めた。

「わかった。ありがとう」

琴子は立ち上がり、毛布を片付けて部屋を出ると、同僚看護師に言った。

「あたしの交代の時間までには帰ってくるから、ちょっと抜けてもいいかな」
「様子見に行くんでしょう?いいわよ。朝方には戻ってきて」
「うん。救命に行ってくる」

琴子は急いで階段を駆け下りながら、もつれそうになる足を懸命に動かすことに専念した。

…妹なんていない。
いないけど、妹のように思ってるはいる。

抜けやすいようにわざわざそう伝言した直樹の意図を知り、琴子は不安でどきどきした。
入院したということは、何らかの病気やけががあったということだ。
おそらく地震で何かあったのだろうと予測はつくが、どんな状態なのか。

先ほどまでうとうとしていた身体は、まだ思うように動いてはくれない。
やっとのことで転ばずに救命にたどり着き、琴子はICUをのぞいた。
そこに直樹の姿を見つけ、琴子は上着を着て中に入っていった。

「入江くん」

直樹はチラッと琴子を見ただけで、すぐにモニターに目を戻した。

琴子は横たわった患者の姿を見て大きな声を出しそうになり、慌てて口に手を当てた。

「好美ちゃん…」

直樹を振り返ると、琴子は「いったいどうしたの」と問いかけた。

「多分クラッシュシンドロームだ」
「クラッシュ…?」
「他の震災のときにも聞いたことがあるだろう。物の下敷きになって圧迫された場所の筋肉組織が破壊されて、放出されたカリウムなどが大量に身体に回るんだ。
高カリウム血症になるとどうなるかはわかるな」
「…心停止…」
「まだそこまでの症状は出ていないが、少し意識混濁がある。…透析が必要なんだ」
「でも、水がないと…」

直樹はうなづいた。

「透析の機械自体の故障は免れたが、水が足りない。今ここで120リットルもの水は用意できない。移送する必要があるんだ」

琴子は好美の傍らにひざまづき、好美に呼びかけた。

「好美ちゃん、聞こえる?」

好美は微かに目を開け、微笑んで琴子を見た。
琴子は手を握り、その笑顔を返事と受け取った。
こんなに辛い状態で微笑むことのできる好美が不思議だった。

「入江くんが付いてるから大丈夫。頼りにならないかもしれないけど、あたしもいるから」
「…うき…も…れって…」
「何?」

必死に好美の言葉を聞き取ろうと、琴子は耳を近づけた。

「裕樹が負ぶって連れてきたんだ。どこかで棚の下敷きになっていたらしい。今は家族を呼びに行ってる。戻るまでにまだ少しかかるだろう」

そう言って直樹は時計を見た。
地震で一度は止まった時計が、時を刻んでいる。
動いているのは一つきり。他は手が回らずまだ動いていない。
ICUの機能はかろうじて保たれているが、CTや超音波、いつもなら診断に使われる機械のほとんどが動かない。
壊れていないものももちろんあるが、それを動かすだけの電力が足りない。
そして、安全に使えるかどうかもわからないのだ。
薬もそろそろ緊急薬剤が底を尽きそうだと心配されている。
病棟の分を救命に回し、明日はしのぐことになるだろう。
そして、その薬剤を使うことを拒まれる患者もまた出るに違いない。

琴子は、好美の手をもう一度握り返してから手を離した。
もちろんずっと付いていたいが、これ以上いても邪魔になるに違いない。

「ごめんね。ずっとここでついていてあげたいけど、あたしがいても邪魔になるだけだから…」

好美に小さくそう告げると、好美は少しだけ首を横に動かした。

「…なこと…ない」
「好美ちゃん…」

少し考えてから琴子は周りを見渡し、折りたたみイスを見つけた。
それを好美のベッドのそばに引き寄せて座った。

「裕樹くんが来るまで、あたしが代わりになるね」

琴子は首を振ってずれた好美の酸素マスクを直し、にっこりと笑った。


(2009/03/30)


To be continued.