大江戸恋唄



10


直樹が一日中外出していたある日のことだった。
帰りにお琴を連れてこいというお紀の言葉に従って、料理屋福吉へ寄ることになった。
遠出すると遅くなるので、時々福吉に寄ることはあった。
家にいるとお紀の愚痴と奉公人のもの言いたげな様子がうっとおしかったのもある。
もちろん前ほど頻繁ではなかったが、お琴が落ち込むほど間を空けていたわけではない。
何よりお琴の父が優遇してくれるし、料理は文句なしにうまい。
ちょっとばかりうるさいこともあるが(主に金之助)、お琴が主に座敷で立ち働いているときは特に会うこともなくさっさと帰る。あくまでも料理を食べに来たのであってお琴に会いに来たのではないという直樹の意思表示でもあった。
金之助もあえてお琴に知らせることもないため、お琴が思っているよりは直樹が福吉に寄ることは多かったのだった。
連れ帰る予定の日は、久々にお琴が佐賀屋に泊まればいいと言われていたので、のんびりとお琴の用事が終わるのを待っていた。
その間にぼんやりとお裕の件を思案していた。
お香屋との話で、いよいよ佐賀屋でも匂い袋を取り扱うことになったのだ。
そのためにお香を調合して、まったく新しい匂いを作り出してもらっていて、ぜひお立ち寄りくださいとお裕からの誘いの文をもらっていたのだった。
お香のためだけでいいのか、何か違う意図を含んでいるのか、しばらく悩んだ挙句、匂い袋の件だととぼけて店の者を松本屋に行かせた。
今日はその件の後だったせいで、久々に会ったお裕にちくりと嫌味を言われた。
そんな嫌味などは当然であって、直樹にとってはこたえるものでもなかったが、松本屋にとっては佐賀屋との縁談は降って沸いた良縁であったらしい。
使いのものからその話がもたらされ、佐賀屋の面々は困惑していると言う。
佐賀屋の立場としては、松本屋は格の違いなど気にならない良縁ではあった。
しかし、お紀は頑として首を縦に振らない。その話は聞いた瞬間に断っているはずだった。
以前お琴が心配していたように、実は他にも縁談が数あったという。
それまではお琴の存在もあって断りやすい雰囲気であったのが、お琴がいなくなったここ数十日の間に次々と話が持ち込まれることになったのだ。
嫡男であるだけに、佐賀屋にとっては悩みどころではあった。
そして今、懐には一つの匂い袋が入っている。

「直樹さん、お待たせしました」

夕飯は食べ終わり、ふと気づくと支度を済ませたお琴が傍らに立っていた。
重雄は店が忙しい中、すまないねといった感じで直樹に会釈しており、策略なのかうるさい金之助は裏に追いやられていた。
今のうちにと促され、直樹はお琴と連れ立って歩き始めた。
いつの間にか季節は夏になっていたが、外は思ったよりも涼しい風が吹いていた。
日は長くなっていて、日が完全に落ちるまではあともう少しありそうだった。
昼間の暑さは徐々に増しており、これくらい日が落ちてからのほうが過ごしやすい季節になっていた。
以前足を痛めたこともあり、直樹の歩く速度は落ち着いている。
お琴も慌てることなく直樹の後ろを歩いており、転ぶことはないだろうと思われた。
…が、橋に差し掛かったとき、乱暴な大八車がそこのけと通ったために、お琴は人に押されて危うく橋の欄干にぶつかるところだった。
いつもながら目を離すとろくな事がないと思いながら直樹はお琴の身体を支えた。
抱えた瞬間に懐の匂い袋が香ったのか、お琴は少しだけ眉を下げた。
直樹はああと思いながらお琴の目の前に袋をぶら下げた。
「…やる」
「え、これ」
お琴が突然言われた言葉に驚いて動かないので、「いらないならいい」と手を引っ込めかけると、「きゃあああ」と悲鳴を上げながら匂い袋を奪っていった。
「ったく、騒がしい女だな」
直樹はそう言ったが、お琴の手に匂い袋が大事そうに包まれているのを見ると満足そうにしてから、「行くぞ」と再び歩き出した。
「ありがとう、直樹さん、大切にします」
うれしそうな声が背中から追いかけてきた。



お琴は差し出された匂い袋がお香屋からのものであることはわかったが、直樹がやると言ったものを拒否するほど直樹のことを諦めてはいなかった。否、諦められなかったのだ。
そのまま懐に忍ばせ、確かめるようにぽんぽんと懐を叩いた。
佐賀屋に着くと、直樹の弟、裕樹が真っ青な顔で直樹の元へやってきた。
「兄さま!」
転がるようにして表へ出てきたが、後からゆったりと現れたお紀はとてもうれしそうだ。どちらかというと不敵な、挑みかかるような微笑で、お琴と直樹は二人で何があったのだと一瞬顔を見合わせた。
暗いので気づかなかったが、家の中に入ってみると、庭の一角に増築中の建物が見えた。
「今日一日で何が起こったんだ」
直樹は首を傾げる。
「あら、お帰りなさい」
そう言ったお紀に、直樹は「何だよ、あれ」と聞けば、お紀はあっさり「増築よ」と答える。
「何でまた」
「将来の二人のために」
「…誰と誰のだよ」
お琴が何事かと黙っている間に直樹はお紀と一触即発の勢いで話している。
「決まってるでしょ。あなた方のよ」
「勝手に決めるなよ」
「女将さん?」
二人の勢いに押されることなくお紀は笑い出した。
「何を言ってるの」
さもおかしそうに笑った後、お紀はにんまりと笑った。
こんなときだが、お琴はその笑った顔が直樹とそっくりで、やはり親子だと一瞬感心したものだ。
しかし、その次にもたらされた言葉に二人は言葉もなく、言い訳もできずに立ち尽くす羽目になる。

「口吸いしたのでしょう」

かろうじて奉公人はその場に女中頭のおきよしかいなかった。
しかし、その素振りからは既に奉公人の隅々まで事情が知れ渡っているものと思われた。
おきよが仕方がないといった風情で頭を下げた。
「知らないとでも思っていたの。そんな素振りも見せないで黙っているなんて」
既に勝ち誇ったようなお紀だった。
言葉もない直樹の様子に、さすがのお琴も何も言葉を発せない。
「兄さま、嘘ですよね。こんなやつと兄さまが、く、口…」
直樹に裕樹が詰め寄る。
「こんなやつとは何ですか、未来のお姉さまに向かって」
お紀の言葉に裕樹は涙目だ。そこまで嫌われていたのだろうかと少々お琴としては居たたまれない。
直樹はようやく気分を落ち着けたのか、お琴を睨んでくる。
お琴は慌てて「あたし、しゃべってない」と手を横に振る。
どちらにしても既に増築は始まっている。しかも直樹が外出していたこの昼間の間に強引に、だ。
お琴の父には話が通っているらしいのもうかがわれた。
どおりで昨日からため息が多かったわけだ。直樹が店に来たときに珍しく顔が強張ったのもこのためだったのだとお琴はようやく気づいた。
お紀は楽しそうに「またお琴ちゃんのお部屋を元通りにしておいたから、遠慮なく使ってね」と言って歩いていく。
直樹はそれ以上言葉もなく部屋へと戻っていくし、裕樹は直樹のあとを追いかけていく。
残されたお琴はただ呆然としているだけだった。
「突然のことで驚いたでしょうが、お帰りなさいませ、お琴さん」
おきよの言葉にようやくお琴は我に返った。
「あの、ただいま、でいいのかな、あたし」
「ええ。皆、喜んでおりますよ。直樹さまとのことはともかく、ここにいてほしいと思っておりましたから」
「ありがとう」
お琴はほっとして胸をなでおろした。
「ところで、先ほどから良い匂いがいたしますね」
お琴はあっと思い、懐から匂い袋を取り出しておきよに見せた。
「直樹さんがくださったの」
「あら、まあ」
「うん。ただお裕さんにもらったからくれただけかもしれないのだけど。直樹さんに匂い袋って似合わないですもの」
「まあそうですわね。でも、この匂いは…」
「お裕さんにもらったものだとしても、とても良い匂いで…」
「今までにない香りでございますわね」
「そうなの?あたし、お香は詳しくないから」
「佐賀屋でも匂い袋を売り出すつもりであることは知っていますか」
「ええ、直樹さんに聞いたことがあります」
そう言うと、おきよは「あら」と言って笑った。
お琴は何かおかしなことを言っただろうかと首を傾げる。
「新たにお香を調合してもらったのですが、これはその匂いとも違いますわね」
「あたしはてっきり試作品か何かだとばかり思っていたけど」
「どうもこれは…」
そう言っておきよが匂いをかいだ。
「どちらかというとお琴さんにぴったりの匂いですね」
「そう?」
「爽やかで…すっきりとした中にふわりと甘い香りも広がって、でもそれが前に押し出ることもなく、控えめな良い香りです」
「そうかな。…うん、そうかも。でも、ぴったりだなんて、偶然でもうれしいな」
「偶然かどうかは…」
おきよはそこまで言って口をつぐんだ。直樹が部屋から出てきたからだ。
お琴の手の匂い袋に気がついて、おきよの顔を見て、一瞬だが顔をしかめた。
それ以上はおきよも何も言わず、お琴はそのままうれしげに再び匂い袋を懐にしまった。
しまってからようやく直樹に気がついた。
「…また、よろしくね」
お琴がそう言うと、直樹は何も言わずに去っていく。
おきよの忍び笑いだけが廊下に響いていた。



おきよはお琴の部屋の支度を一緒に整えながら、直樹のしかめた顔を思い出していた。
偶然ではあるまい。
あの匂い袋はお琴のためだけのものであるはずだ、と確信していた。
おそらくは直樹が特別にお香屋にこっそり頼んで作ってもらったに違いない。
あの布もどう見てもお琴の好みであろうし、店で売る予定の品とは形も違う。
あの匂いを懐に忍ばせて、お琴に渡すまでの直樹の心情を思うと、おきよはお紀のように大声で笑いたい気分だった。
ただの気まぐれであろうと、その気まぐれを起こすのは滅多にあることではない。
何よりも匂い袋をお琴のためにあつらえようなどと思ったのは、あのお香屋のお嬢さんの匂いが似合わないと泣いていたお琴のためなのだろう。
思ったよりも素直になってきたとおきよは思った。
家の者にも言わずに、直樹はお琴の家の料理屋に通っていたらしいことがわかった。
おきよも知らなかったが、二人は口吸いもしたという。
この様子ではお琴から迫ることなどありえないので、直樹からということになる。
冗談でも直樹が口吸いなどするだろうかとおきよはお紀の意見に賛成だ。
そして、それがばれたときの言い訳などできるわけがないことも。
お琴はからかわれたと思っているが、お琴のように身持ちの堅い女子(おなご)にそんなことをすれば火を見るより明らかであるはずなのに、それでも直樹がお琴を嫌っていると思っているのだ。
これでお琴を嫌いだなんて言うものなら、おきよは今度こそ佐賀屋を去ろうと思っていた。
去る前には直樹に何もかもぶちまけていこうとも。
きっと以前には見せなかったふてくされた顔をするだろうとおきよは推測した。

でもね、直樹様。
もしも本当にこれでお琴さんを手放すようなら、世間様から誹りを受けますよ。

陽気に支度を終えたお琴を見ながら、おきよは目を細めたのだった。

(2014/02/11)


To be continued.