大江戸恋唄




あれから、お裕が店に現れることはなかった。
内心もう一度現れたらどうしたらいいのかと思っていたので、お琴はほっとしていた。
美人に張り合えるほどの器量もなく、手習い所でもちんぷんかんぷんなほど頭の出来にも自信はなかった。
あれからも直樹からは時々お香の香りがするものの、店にいたあのひと時だけで薫るお香ならば、匂いが移っても仕方がないとお琴は結論付けた。
それに表向き、直樹は医学を習いに行っているはずなのだ。
それとも、あれほどの美人で才女なら、あの直樹でもふらふらと誘われたりするのだろうか。
そこまで考えると、お琴はため息をついて支度をした。
足も完全に治ったと医師にお墨付きをもらった身としては、いつまでも家の中でぶらぶらとしているわけにもいかないのだ。
そろそろ一度福吉のほうにも顔を出そうと思っていた。
お紀に伝えようと部屋を出たところで直樹に会った。
今日は出かけていなかったのかとお琴は思ったが、直樹のほうから「出かけるのか」と珍しく声をかけてきた。
「はい、一度福吉に行って父にも会わないと…。長くこちらでお世話をかけてしまって、心配もかけたでしょうから」
それに、足が治ったら佐賀屋を出たほうがという話も出るはずだった。
「ふうん。まあ、おじさんによろしく」
それだけ言うと、直樹は部屋に戻っていった。
本当は、あれからお裕さんとはどうなっているのかと聞いてみたかった。
余計なお世話だと言われそうなのがわかっていたので口にはできなかったが、あのお裕となら、もしかしたら縁談の話があってもおかしくはないだろう。
そんなことを考えていると、つい直樹に目が行く。
夕食も忙しいときは手の空いたものから順に台所で食べていくのだが、お琴が片隅で食べ始めると、ちょうど直樹もやってきた。
少々挙動不審になりながら食べ始めると、しばらくして直樹が不機嫌そうに言った。
「言いたいことがあるなら言え」
「そ、そんな」
直樹の前では沢庵をぼりぼりと音を立てるのが恥ずかしくて、もそもそと苦労して食べていた時のことだった。
もちろんそんな女心を直樹が理解するとは思えなかったので、黙っていたがその沈黙すら重苦しい。
このままでご飯もうまく喉を通らないといった具合だ。
お琴はぼそりとつぶやいた。
「…直樹さんは、たくさん縁談がありそうですね」
「は?誰が言ったんだ、そんなこと」
「いえ、その、だって、大店の嫡男ですし、直樹さんが望まなくても周りは放っておきませんよ」
「ふん、くだらない」
「くだらないって…」
お琴はくだらないの一言で一刀両断した直樹に安心するとともに、余計なひと言を付け加えてしまった。
「やはり直樹さんは、自分よりおきれいな人じゃないと嫌なんですか」
「なんだよ、それ」
「…あ、えーと、その」
「いったい何をたくらんでやがる」
何かを察したように直樹がお琴を見た。
「な、何も」
「嘘つけ。おまえはすぐに顔に出る。何か聞いたのか」
「そ、そんな」
「母か」
ずばり言い当てられて、お琴は身震いした。
これはまずい、と思った時には直樹は何かを察したようにお琴を見つめて言った。
「まさか、おまえ」
「そんな、別に直樹さんの子どもの頃なんて……あ……」
お琴の完全なる失言だった。
途端に直樹の表情が固まり、お膳の上に箸を落とした。
「何を、見たんだ」
「み、見てませんっ」
これ以上失言すまいとお琴は慌てて否定した。
そんなお琴を直樹は睨みつけるように見ている。
「どうせ母に絵姿の話でも聞いたんだろ」
お琴はその通りと思いながらも、箸を置いて口ごもりながら言った。
「…その、あたし、…ごめんなさい」
大きなため息をついた直樹の表情は暗い。
「で、でも、直樹さん、あたしよりずっとかわいくて…」
「それ以上しゃべるな」
お琴の言葉にかぶせるようにして直樹がさえぎった。
考えてみればここは奉公人もおしゃべりな女中もいる台所だったのだ。慌ててお琴は口をつぐんで直樹を見た。
「その件については二度と話すな」
「ど、努力します」
「何だよ、その努力って言う消極的な発言はっ。普通は二度と言うなって言われたらわかりました、だろ」
「…あたし、その、うっかりだから、つい、また口にしちゃうかもって思うと」
「…もういい」
直樹は呆れたようにそう言うと、もう夕飯を食べる気はないらしく、そのまま立ち上がって戻ろうとする。
「あの、直樹さん」
「…何だよ」
「あたし、あの格好の直樹さんに会ったこと、ある気がするんだけど」
直樹は振り向くことなく冷たく答えた。
「俺は知らない」
それだけ言うと足音も高く台所を出て行った。
お琴は「あ…」とそれ以上声をかけることもできず見送ると、あと少し残っていた夕飯に目を向けた。
もう食欲はなかったが、直樹も残した今、揃ってお琴も夕飯を無駄にする気はなかった。やはり食べ物屋の娘として、作ってくれた人に対して残すのは忍びなかったのだ。
それなので、得意の根性を振り絞って気力で残りの夕飯を食べ終えることになった。



直樹は部屋に戻ってもなおすぐには座る気になれず、いらいらとしたまま部屋の中で立っていた。
今日はお裕から文が来ていて、それは読まずに文机の上に置いたままになっていた。
付文なら読むつもりはなかった。
いつも知らない者からの付文は読まずに捨てていた。
唯一読んだのは、お琴の文だけだったが、あれもお琴を知ってから読んだのだから正確には知らない者のうちには入らないだろうと思っている。
何の気まぐれだったのか、つい読んでしまったつたないその文は、今も頭の中で容易に再現できる。

『あなたは私を見知ってはいないでしょうが、私は知っています』

その文と先ほどお琴が言った知っているの意味は違うものであるのは確かだったが、直樹は自分の記憶を確かめていた。
お互いの両親たちは知り合いなので、幼い頃に会ったことならあるかもしれないが、直樹の記憶にはない。物心もつかないような赤ん坊の頃のことだったのかもしれない。
少なくとも直樹は幼少の頃のお琴を覚えていなかった。
「…俺は、知らない」
つい口に出していた。
どうせ姿絵を喜んで見せたのは、母であるお紀の仕業であろう。
それがわかっているので、口にしたお琴の迂闊さを怒りこそすれ、本当に恨むべきはあの格好のままにさせたお紀とそれを許した父、重樹だと直樹は思うのだった。
普通は七つを過ぎれば女の格好も改めさせることが多い。
それをせずにそのままにされていたのだが、当然のようにそれをおかしいと指摘する者は店の中にいなかった。主夫妻のやることに表立って注意するような気概のある奉公人がいなかったのだ。いや、いたのかもしれないが、女将であるお紀の迫力に勝てる者などそうそういないことは直樹自身でわかっているのだから、気概がないと言って責めるのは間違いかもしれない。
とにかく、その格好が変だということがわかったときの驚愕といったらなかった。
たとえそれが最初は直樹自身の無事な成長を願うものだったとしても、最終的にはお紀が女の子を欲しかったというそれだけのためにあの格好を長引かせたのだ。
半分仕方がないと思っていた気持ちをいいようにされたのだと知ったときは、恨むあまり家にはいられず、親戚の家にしばらく家出したこともあった。

そのころの気持ちを思い出してやはり憤然としたが、いつの間にか部屋の中が暗くなっていたことに気づいて、ようやく行灯に火を入れるために動くことにした。
そして文机の前に座ると、一つため息をついて、お裕からの文を開き始めたのだった。

 * * *

それはお紀にとっては突然のことだった。

「長い間お世話をかけました。この通り、足も治りましたし、お琴はうちに戻そうと思います。毎度こちらの坊ちゃんに送り迎えをしてもらうのもなんですし」
「そんな、こちらはいつまでもいてもらっていいのよ」
「そんなわけには参りません。いずれ坊ちゃんはどこかの商家の娘さんをもらわなけりゃなりませんし、そりゃお琴をと言ってくださるのはうれしいんですが、格が違います。坊ちゃんの気持ちもお琴にないときては、こちらさまの縁談を邪魔するようなものです」
「いいえ、いずれ直樹はお琴ちゃんを…」
「これ以上引き止めないでください。お琴も心機一転、婿でももらってくれりゃあ…」

そう言ってお琴の父、重雄はお琴を連れて出て行ったのだった。
お琴も名残惜しそうにはしていたが、やはり他人の自分たちよりも父と暮らすほうがいいのかもしれないと無理やり納得して見送ったのだった。

「直樹さんがお琴ちゃんをないがしろにするからっ」
「何だよ、それ」
「私は恨みますからね」
「…いい加減にしてくれよ」

直樹はうんざりしたように言ってその場から逃げ出すので、お紀は一人さめざめと泣くのだった。
同じように奉公人たちも突然のお琴の帰宅に戸惑っていた。
何せ毎日聞いていた声が聞こえないのだ。
同じように裕樹も戸惑っているようだった。
口では清々したなどととうそぶいていたが、明らかに寂しがっている様子が伝わってきたくらいだ。
直樹も元のように何も話さない不機嫌そうな様子に変わってしまった。
全てはお琴が来る前に戻っただけだというのに、お琴が来る前の佐賀屋には到底戻れなかった。

そうして商いも少々心配になるほど鬱々と過ごしていたお紀は、ある日偶然お琴の友人、おさととおじんに会った。
「あ、佐賀屋の…」
お紀は団子を言い訳にお琴のところに顔を出してみようと思ったのだ。
かち合った団子屋の店先で、おさとはお琴の近況を語った。
「家に帰ってきてから、お琴は少し元気がなかったんです」
「まあ、そうなの」
「あ、でも先ほど顔を出したら、直樹さんが昨日福吉に来たとかなんとか言っていたので、今は少し元気かもしれません」
「…直樹が?」
この時、おさとはお紀の瞳がきらりと光ったのを見ていなかった。ごく自然に世間話をしていただけのつもりだったのだ。
「だいたいあの二人は口吸いまでした仲だっていうのに、どうなって…あ…」
おじんもたいがい失言が多い。
「ちょっと、それ内緒だったはずでしょ」
おさとがおじんを突く。
「口吸いですって〜〜〜〜」
「お、女将さん、こ、声」
慌てておさととおじんが辺りを見渡す。
「内緒だったのよね」
おじんがしまったという顔をしながらお紀の顔をうかがった。
「足を痛めた日に」
「な、なんてこと」
お紀はうれしさと悔しさのあまり涙を流す。
「それなのに、直樹ったら、どうしてなのっ」
お紀はしばらく黙っていたかと思うと、きっぱりと言った。
「決めたわ。私、何が何でもお琴ちゃんを我が家に呼び戻すわ」
おさととおじんは余計なことを言ったと恐れおののきながら団子屋を去って行った。
お紀はいいことを教えてくれたと精一杯二人に団子を山ほど買い上げ、そのまま佐賀屋へと帰宅したのだった。

(2014/02/10)


To be continued.