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再びお琴が佐賀屋で同居を始めた、との噂はすぐに界隈に広がった。
朝の掃除時に会った啓太はなんでまたわざわざと揶揄したし、金之助にいたっては佐賀屋近辺まで「なんでやー」と駆けつけた。
あまりに騒がしいので見物人が出たほどだ。
出かけようとしていた直樹を捕まえて文句を言ったので、忍耐も切れた直樹がわざとらしく「かわいかったな、こいつ。仰天した顔しちゃって」といういかにもな言葉を吐いたので、金之助は失意のうちに福吉へと連れ戻されていったりもした。
その後に残されたお琴の困惑など、全く意に介さない直樹を恨めしく思ったものだ。
また同居したことに関しては、お琴も直樹も、裕樹さえもすっかり慣れて元の生活に戻ってしまった。
お琴の父が直樹との仲を認めたのかどうかはわからなかったが、少なくともお紀の思惑通りに事は進んだので、おそらく押し切られたに違いないと佐賀屋の面々も納得してしまっていた。
すっかり元通りの生活に戻った夏も終わりのある日、久々にお裕より文が直樹宛に届いた。
お裕と同じ匂いのする文に、お琴は胸が騒いだ。
読んだのか読んでいないのか、お琴は気が気ではなかったし、何かの誘いかどうかも気になっていた。
いつものようにお琴が佐賀屋の裏を掃除していると、その日も啓太が仕事に行く頃に行き会った。
二言三言、会えば会話をする。些細なもので、「今日は暑いですね」とか「瓦版を読んだか」などと他愛のないものだ。
ところがそこへ出かけようとした直樹が現れた。
二人には気づかない風で、見送りに出てきた丁稚に言っているのが聞こえた。
「今日は松本屋に寄って来るから」
びくりとしてお琴は振り返った。
そこへ直樹は二人を見やり、「ああ、朝からご苦労なことだな」と言って歩いていく。
松本屋と聞いてお琴が気にしないわけはない。
松本屋と言えばお裕の家のお香屋のことだ。
お琴は途端にそわそわしながら直樹の歩くほうを見る。
急いで塵屑を片付け、箒を置いてくると、すかさず直樹の後を追いかけ始めた。
啓太はその様子を見ていたが、啓太にも仕事があり、心配そうに見ただけでついていくことはしなかった。
お琴はつかず離れずで直樹の後を追いかけた。
まさか直樹が気づいているとは思っていない。
半刻弱程も歩いたところで、松本屋に着いた。
松本屋に入っていく直樹を見て、こっそりと店に近づく。
あまりにも怪しいその風情は、周囲の者がさりげなく避けていく。
「お嬢さん、お嬢さん」
店の中の直樹の様子を見ようと、手拭いを頭にかぶろうとしたところで琴子の肩を叩く者がいた。
「な、なんですか」
びくりとして手拭いがひらりと落ちる。
その手拭いをひょいと拾い上げて、着流し風の侍はお琴の顔を覗き込みながら言った。
「落ちましたよ」
「ありがとうご…って、今あたしが落したばかり…」
「しっ、声が大きい」
「はっ」
お琴はしまったというように口を押える。
怪しげな侍から少し距離を置いて、お琴は慌てて松本屋の店先をうかがう。
誰もこちらを注視している者はいなかったのでほっとする。
「松本屋が気になるかい?」
「え、ええ、まあ」
「こんなところでずっとうかがっているのもあまり感心しないね」
「う…」
お琴は手拭いをだらりとかぶってうなだれる。
「そ、そうですよね。こんなふうにこそこそと…。直樹さんだって嫌がりますよね」
「そりゃ今さら…」
「え?」
「あ、いやいや、こそこそがだめなら、堂々と行けばいいんじゃないか」
「そんなっ、だって、あんな店に入ったことありませんし」
「おや、そうかい。先ほどから良い匂いがしてるけどね」
「こ、これは…」
「へえ、誰かからのいただきものかい?」
「…ええ」
懐の匂い袋を着物の外からしっかり確かめる。袖に入れようと思ったが、それではなんだか落としてしまうかと心配になり、懐に入れているのだ。
「決めた。よし、今から松本屋に入ってみようか」
「あなたさまが?」
「いや。わたしと君がだよ」
「あの、でも」
「大丈夫。これでも直樹殿の知り合いだからね」
「…本当ですか?」
「ま、身分は侍だが、三男坊だからね〜、お気楽でもあるし、切羽詰ってるとも言うし」
「なんだかよくわかりませんが」
「うん、いいよ、お琴ちゃんはそれで」
「あたしの名前…知ってるんですか」
「もちろん。かわいい子は全部ね。それに佐賀屋で直樹殿と一緒に暮らしてるって評判だからね」
「か、かわいい…?」
「さ、そうと決まれば松本屋に行くよ。ほら、早くしないと直樹殿も出てきてしまうからね」
「は、はい」
怪しげではあるものの、思わず勢いで返事をして、お琴はつられて歩き出した。
「おおっと、忘れるところだった。その手拭いは取ってね。かわいい顔が台無し」
頭にかぶせたままだった手拭いを取られ、お琴は顔を赤くしながら店の中に入ることになった。
「いらっしゃいませ。これは西垣さま、お久しぶりでございます」
その声に奥にいた直樹は思わず振り返った。
振り返ったその眼には、西垣どころかお琴の姿が見えて「なっ」と思わず声が出た。
松本屋のお裕は直樹の視線のほうをちらりと見て「あら」と声を出した。
お琴はまだこちらには気づいていないらしく、西垣に連れられてあれこれと品物を見ている。
もの珍しそうに見ているが、視線だけは落ち着きがない。
直樹を探していることが分かったが、帳場の奥のほうに座っているため、お琴の視線からはこちらが見えないらしい。
「西垣さまとお知り合い?」
「…知り合いと言うより、顔を見たことがある程度だよ。店の常連でもあるけどね」
「あら、そうなんですか。お琴さんは随分と親しそうですけれども」
「さあ、俺には関係ないから」
「それにしても、直樹さまがうちの番頭に頼んだ品、どちらさまに差し上げたのでしょう」
それには答えず、「他に話がないなら帰る」と告げた。
「これなんかどうかな」
「んー、そうですね、思ったよりも高貴な香りがします。いったいどなたさまに差し上げるのですか」
「お琴ちゃんにと思ったんだけど」
「え、あたしは…」
「あ、そうか。特別調合の貰い物があったっけ」
「いえ、これは多分ただの試作品で、余っていたからで、それで誰にもあげる予定のなかったところにあたしがいただけで…」
そんな言い訳をしているお琴の横に立つと、直樹はお琴に声をかけた。
「こんなところで何をしている」
お琴は思わず「ひっ」と声を出した。
探してはいたけれど、こんなふうに向こうから声をかけられるのは想定していなかった。
そんな気持ちでお琴は振り仰いだ。
そこには仏頂面した直樹がお琴を見下ろしていた。
「直樹さん、ぐ、偶然ね…、なんて、あはは…」
「偶然なわけがあるか」
お琴は首をすくめた。
怒られることは覚悟していたが、面と向かって言われるとさすがに怯む。
「えーと、そう、この方と一緒に…」
「どこに」
「あれ、えーと、お侍さまが…」
「どこの誰だ」
「えーと、誰でしたっけ。そう言えば、お名前を聞いていなかった気が」
お琴は周りを見渡して首をかしげる。
先ほどの侍が店の中にはいなかった。
先ほど応対をした手代は何も言わない。
「あれ、どこに…」
「帰るぞ」
「は、はい」
お琴は返事をしながら、あたしここに何しに来たんだっけ、と首を傾げる。
店を出ながら、お琴は歩き出した直樹の後をついていく。
身体の周りで香っていたお香の匂いがふうっと抜けていく。
「お店の中、良い匂いがしました。ああいう中にいれば、そりゃ香しい薫りがしますよね」
お琴はお裕をいつもきつくお香を焚き染めている女だと思っていた。
それは早計だったと反省したのだった。
自分の着物をかいでみると「あ、なんだか高貴な薫りがする」とはしゃいだ。
しばらく歩くとにわかに付いただけの香りは抜けていき、懐に忍ばせている匂い袋の香りだけが残ったのだった。
「あたし、直樹さんにもらったこの匂いとても気に入りました」
「そうか、よかったな」
表情も変えず、淡々と直樹が答えた。
「試作品だなんてもったいない。それにたまたま余ったのをもらえたなんて、あたし運がいいのかも」
お琴はひとり言のつもりで言ったのだろうが、直樹には丸聞こえだった。
「松本屋さんとの用事は終わったんですか」
「ああ、まあな」
「そうですか。商談…ですか」
「そうだ」
「あの、お裕さんって」
「なんだよ」
「…あ、いえ」
お琴は今自分が抱えている不安をうまく伝えられなかった。
まさか誰とも見合いなどしないでくれとは言えなかったし、だれも好きにならないでくれなどとも言えなかった。
それに、店を出るときに見たお裕の顔は、やはり直樹に心を寄せている様子がわかり、お琴は一緒に帰るのも心苦しかったのだった。
もし自分がお裕の立場だったとしたら、先に好きになったとか後から好きになったとかで決められたくはないだろうと思うし、同居している女がいるというだけで気が気ではないだろう。
「ところでお前はどうやってここまで来たんだ」
「え、ええっと」
「ああ、後をつけてきたんだったな」
「ええっ、何で知って…」
「ばーか、ばれてるんだよ。へたくそな尾行しやがって」
「だ、だって、松本屋に行ってみたくて」
「で?」
「で?って」
「松本屋にわざわざ人の後をつけてまで来たんだろ。どう思ったんだよ」
「あ、ああ。えーと、女人だけでなく、殿方も入りやすいかもしれません」
「へぇ」
「佐賀屋は女人の小物がほとんどでしょう。どちらかというと華やかで、女人は入りやすいけれど、殿方の方は入り口だけで躊躇してしまうと思うの。もう少し殿方の小物も置いてもいいかもしれないと思って…。
松本屋はお香屋さんだから、殿方もお香をたしなむ方とか焚き染める方もいらっしゃるし、違うかもしれないけれど。
そうしたら殿方の小物を見るついでにとかいう言い訳とか使えるかしらとか。ほ、ほら、女人に贈り物したりするときとか、ただでさえ入るのがためらわれたりとかするじゃない。
って、あたしがそんなお店のことに口出しちゃいけないと思って言ったことはないのよ。今そう思っただけだから」
お琴が慌ててそう言うと、直樹は「ふーん」と答えたものの、お琴は気が気ではなかった。
ただ居候しているだけの店のことに口を出すのはよくないと思っている。
きっと気を悪くしただろうと思うと、それ以降の会話のきっかけはなかった。
それにしても、とお琴は店でいなくなった侍が気になっていた。
直樹に声をかけられた途端にいなくなっていた。
もしかしたら本当は直樹のことを知っていたわけではなかったかもしれないと思ったが、少なくとも自分の名前を知っていたことが気がかりだった。
佐賀屋に入る直前に思い切って直樹に聞いてみた。
「直樹さん、お店に一緒に入ったお侍さまがいたのだけれど、直樹さんは見ていないかしら。
お名前は忘れてしまったけれど、三男坊で切羽詰ってるとかなんとか」
直樹はお琴から顔をそらせて「いや」とだけ返した。
お琴は少し残念そうに「そう」と答えると、佐賀屋の裏戸をくぐった。
直樹は部屋に戻りながら笑いをこらえていた。
お琴の言っていた侍、西垣はいつも手当たり次第に女人に声をかけてはあちこちの店に出没する。
それほど金を持っているとは思えなかったが、実は結構な屋敷の出なのだとなんとなく知っている。もちろん金はどこからでも手に入りそうな御仁なので、そちらはどうでもよかったが、佐賀屋でも女人を伴ってよく来ていることは知っていた。
そんな男とお琴が一緒だったので、最初はぎょっとした直樹だったが、おそらく余計な世話をやいてお琴を誘ったのだろうとすぐにわかった。
いつも百戦錬磨だという噂で自分でも豪語していただけに、お琴に名前すらも憶えられていないのを知って愉快だった。
しかも覚えている情報が切羽詰っているとは、いったいどんな自己紹介をしたのやらと思うとおかしくて仕方がなかったのだ。
西垣と現れた時の驚きといら立ちはあっという間に解消された。
そして、お琴が話していたことを佐賀屋の番頭を呼んで話すことにした。
そもそも男用の小間物などほとんど想定していなかったように思う。
確かに煙草入れなどはあるが、佐賀屋ではやはり女人用のものが多かったのだ。
それを話せば番頭は考えてみますと返事をした。
「なかなかいいお考えで」と言われたので「お琴の発案だ」と言うと、少し驚いた顔でなるほどとうなずきながら戻っていった。
お琴は店のことに口を出すなどと気にしていたが、家の者はそれほど気にしないだろうと思われたので伝えたまでだ、と言うつもりであった。
本当は、松本屋に行ってお裕を見たかったのではないかというつもりで聞いたのだが、意外にも店についてあれこれ聞くことになった。
そして、お琴が試作品の余りものだとか偶然渡したと思われている匂い袋がしっかりお琴の懐に収まっているのを知り、直樹は微笑んだのだった。
(2014/02/19)
To be continued.