12
秋風が吹く頃、庭には秋の花も咲きそろい、お琴は花の手入れをしながら縁側に出ていた。
少し休憩と思いながら自分でお茶を入れて飲んでいたが、秋の日射しのあまりの気持ちよさにうたた寝を始めた。
裕樹は庭を通りかかったときにやけに気持ちよさそうに眠っているお琴を見たので、少し驚かせてやろうと静かに庭の向こうからそっと近づいていた。
ところがそこへ兄、直樹が通りかかった。
恐らく裏木戸からこっそり帰ってきたのだろうと思われた。
兄さま、と声をかけようとしたがかけられなかった。
庭を通り抜けて自分の部屋へ入ろうとする前にお琴を見つけた直樹は、しばらくお琴の顔を眺めていたかと思うと、そっと顔を近づけた。
それは、声をかけるのを憚られるほどそっと、密やかで、裕樹は息をすることさえも忘れていた。
兄さまが、お琴に…。
裕樹は自分の見たものが確かかどうか自信がなかった。
お琴にそっと触れた場所は紛れもなく唇で、つまり直樹がお琴に口づけていたのだと理解するのにしばらくかかったくらいだ。
唇が離れた後、何か大事なものに触れるように直樹の手がお琴の頬に触れ、裕樹はそこでやっと我に返った。
不意に直樹が裕樹のほうを見た。
そこにいたのを見て驚くふうもなく、そっと人差し指を口に当てた。
静かにしていろということかと、裕樹はこくりとうなずいた。
そんな裕樹を見た直樹は表情を緩めて裕樹の横を通っていく。
そこで初めて裕樹は直樹の真意を知る。
「い、言わないよ」
小さな声でそれだけ言うと、直樹はすれ違いざまに裕樹の頭をなでた。
それはいかにもありがとうと言われたようで、裕樹はひたすら顔に血が上るのを自覚しながら立ち尽くしていたのだった。
* * *
とある秋の日、お琴はせっせと針と格闘していた。
針仕事は女のたしなみの一つだったが、お琴は不器用なのか、今一つ優雅にはできず、針を運ぶというよりは格闘すると言ったほうが正しかった。
「そうそう、そこでここと合わせて」
お紀に教えを乞いながら、お琴は直樹のための着物を仕立てていた。
佐賀屋で皆が着る着物のほとんどは仕立て職人に頼んでいたが、時々はこうしてお紀が家族の分を準備をするのだ。
匂い袋をもらってから、何かお礼をしたいと思っていたところで、全部は無理だったが、少しだけなら着物の仕立ても手伝えると願い出てみたところ、お紀は「まあ、なんて素敵なの」と感激ひとしきりだった。
もちろんそれからは苦難の連続。
全く使えないわけではないが、何せ佐賀屋の嫡男の着るものである。反物は安物ではない。
それほど高い生地を扱ったことのないお琴にとっては、失敗しないためにそれはそれは悪戦苦闘の日々だったのだった。
「いつかこうやってお琴ちゃんが直樹の着物を仕立てる日も来るかしらね」
「…いえ、そんな。それにあたし、こういうのやっぱり得意じゃなくて」
「あら、まだ時間はあるわ」
そんな日が来るだろうかとお琴は思いながら、針を動かす。
縫い合わせに失敗するとまたほどかなければならない。
縫い目のひどさは何とかごまかせるとしても、縫い合わせの間違いはそのままにはできないのだ。
袖を閉じてしまったり、着物の柄が微妙にずれるのをそのたびにお紀に修正してもらわなければならなかった。
やっとのことでできた着物は、少しだけよれよれとしていたものの、着られないことはないくらいに仕上がった。ただし、やはり家の中で着るのがいいだろうとお琴はため息をついたものだが。
それを直樹に渡すのはお紀に任せようと思ったのだが、当たり前のようにお琴の手に渡された。
お紀の手によってそれなりに仕上げてもらった着物は、渡すのがためらわれるほどではなかったが、自分の手によるものだと直樹が知ったら、手に取って着てくれるのだろうかと疑問だ。
お紀に促され、外から戻ってきた直樹の帰宅を知って廊下で待ち伏せた。
「あの、直樹さん」
直樹はゆっくりとこちらを見たが、何かを言うわけではない。
「お、お帰りなさい」
それしか言えず、お琴は腕に抱えた着物を差し出すことも忘れた。
「…ああ。で、それ何」
お琴の腕に抱えている着物らしきものを見咎めたのか、目を細めて見ている。
その視線にお琴は自分の抱えているものとここで待ち伏せた目的を思い出した。
不審そうな顔つきの直樹に気後れしながら、着物を差し出した。
「あ、あ、あの」
「それ、俺の?」
「は、はい」
お琴の手が汗ばんできた。
このままでは着物が汗臭くなりそうだと思った頃に腕が軽くなった。
知らずうちにつぶっていた目を開けると、直樹が着物を手に取って縫い目を見ていた。
「これ、着られるんだろうな」
「あ、あの」
「あの、しか言ってねぇな」
「き、着られます」
「結構ひでぇな、この縫い目」
お琴の頬が引きつる。
「着られる…はずです。女将さんに仕上げてもらいました…から」
笑おうとした。でも駄目だった。
もうすぐで涙がこぼれると思った瞬間、お琴は信じられないものを見た。
直樹が着物を広げて腕を通していた。
「ああ、ちゃんと腕が出るか」
着物をまるで売り物のように検分し、またさっと脱いで腕にかけると、「もらっとく」と言いながら部屋に戻っていった。
はっと気が付いた時には部屋に入りかけていて、お琴は慌てて言った。
「に、匂い袋のお礼です」
「…でかい声で言うな」
そう言って襖がぴしゃりとしまった。
* * *
ゆるゆると日は過ぎ、今ではお琴が佐賀屋にいることに反対はしなくなったお琴の父、重雄だったが、周りはそう簡単ではなかった。
何せ直樹は嫡男の跡取り。
早く嫁をと言う女将のお紀にやんわりとお琴とはどうなっているのかと気にしている佐賀屋の主、重樹。
どうにかして直樹と縁を取り持ちたいお裕にお琴と添い遂げたいと熱望する金之助。
あれから時々ふらりとあらわれてはからかっていく西垣。
毎朝佐賀屋の裏を通っていく啓太。
お琴と直樹にしてみれば、まだそこまで何も考えていないというのが本当だ。
確かにお琴は直樹を好いてはいるが、結婚はそもそも本人同士だけの問題ではなく、直樹の気持ちがわからない以上先に進みようがない。もちろん親同士の意志さえあれば進んでいく婚姻もあるが、直樹の性格上ありえないと言ってよかった。
直樹は医師になりたくて、今でもひそかに勉強を続けている。
有り余る才能は、すでに師が教えることをよく吸収して、後は長崎にでも行ったほうがよいという師からのお墨付きだ。
しかし、長崎行きを告げるには、まずは店を継がないことを納得してもらわなければならないし、勘当されれば自分で生活していく術も探さなければならない。
そこまで十分に考え尽くして、直樹はいよいよ両親に打ち明ける日を吟味していた。
お琴もその気配は薄々感じていて、直樹が勘当されたならば、やはり佐賀屋を出ていこうと思っていた。それまで黙っていたことと、直樹のために佐賀屋にいたようなものだからだ。
本人同士は無理だろうと思っていたが、お紀は二人を添わせる覚悟であったからだ。
直樹がすでに師の下に通うのもやめようと思い、お裕にも別れを告げようとしたその時、「最後の頼みを」と言われて、直樹は承諾した。
お琴はそれを知らなかったが、福吉からの帰り道で偶然お裕と直樹が二人揃って土手を歩いているのを見かけて、思わず後を追いかけた。
土手沿いにある小屋の向こうに二人がいるのを知ると、お琴はその陰で息をひそめていた。
それが悪趣味なことくらいよくわかっていたが、どうしても気になったのだ。
お裕はお琴と同じく医学を志す直樹のことを知っている。
条件は同じだとお琴は思っていた。
「私の気持ち、知っているのでしょう」
そう言ってお裕が直樹を見つめる。
お裕は美人で有能だ。
お琴にはないものをたくさん持っている。
「直樹さんが医師になりたいのなら、長崎までの費用も出しても構わないわ」
その言葉にお琴は胸が痛んだ。
自分には何もない。
支える全てが親がかりで、言葉一つ満足にかけられないのだ。
励ますことも空回りで、うまくいったためしがない。
そして、親からの期待も直樹の負担で、お琴とのことなど考えたこともないだろうと思っていた。
「ありがたいけれど、遠慮させてもらうよ」
「なぜ?」
「佐賀屋は継がない。松本屋も継げない。だから、長崎まで費用を出してもらういわれもない」
「それは、私と一緒になる気はない、ということなのね」
「…ああ」
「私が松本屋を捨てると言っても」
「…今は、医学のことにしか興味がない」
「それなら、長崎から帰るのを待つと言ったら?私、あなたの事本当に…」
そう言ってお裕が直樹にすがりつく。
お琴は息をのんで見守ることしかできない。
幸いなのか辺りには誰もいない。
本当なら飛び出してしまいたいのに、身体は動かない。
「諦めることなんてできないわ」
そう言ってすがりついているお裕の身体に直樹の手が動くのが見えた途端、お琴は胸の奥からどんどん冷たくなっていくようだった。
「気は済んだ?」
お裕の身体に回されたと思った直樹の腕は、お裕の身体を離すために動いていた。
お裕は冷水を浴びたような顔で直樹を見た。羞恥のためだろうか、さっと頬に朱が差す。
その朱が差した顔ですら美しいとお琴は思った。
それと反するように直樹の態度と言葉は冷たい。
「あなたとはそういうことをしたくないんだ」
「…なら、誰とだったらするの?私じゃ駄目なの?あなたはそうやってずっとひとりで生きていくの?」
「…したよ」
「え…」
お裕の漏らした言葉は、そのままお琴の言葉だった。
「お琴とした」
お琴は口を開けたまま二人を見ていた。
お裕はさっと顔色を変え、一歩後退った。
先ほどやんわりと押し返された距離よりも余程開いている。
「…わかりました」
お裕は直樹に背を向けた。
「送ろう」
「結構です。女中を待たせてありますから」
お裕は振り向きもせずそう言うと、足早に去っていく。
自分だったらつまずいて転ぶところだと思いながらお琴も影から見守った。
「まったく、あんな古い話持ち出して断るなんて」
お琴がひとり言でそうつぶやいたとき、思わぬところから声がした。
「人の色恋沙汰のぞいてるんじゃねぇよ」
てっきりのぞいていた向こうに直樹はまだいるものだと思っていたお琴の背後から声をかけられ、お琴は慌てて振り向いた。
「いつのまについてきたんだか」
「ご、ごめんなさい。つい」
「勝手に心配しておけば」
そう言って歩き出した直樹の後を慌てて追いかけた。
屈みこんでいた場所にあった草が着物についているのを払っていると、直樹が言った。
「断って安心した?」
からかうような響きにお琴は少しだけ安心したように返した。
「もうずっと前のことなのに」
それでもあたしの初めての口付けだったとお琴は心の中で付け足す。
直樹は一瞬立ち止まってお琴の顔を見た。
「…ああ」
そう言うと再び歩き出す。
「そうだったな」
お琴は直樹の返答を聞いて歩き続けながらすらりと高いその背を見る。
あの着物は、家の中限定で着ているのを見た。
使ってくれるだけでよかったとお琴は胸をなでおろしたものだ。
たった一度の口付けは、お琴の胸の中で大事な思い出となっている。
それをあっさりお裕に言うとは思っていなかった。
あれはただの冗談だったと今では思っているが、その冗談でもお裕に言うとは思っていなかったのだ。
もしも長崎に直樹が行ってしまっても、あの口付けだけは思い出として残るのだとお琴は思ったのだった。
(2014/02/23)
To be continued.