大江戸恋唄



13


直樹は遠い師の下へ通うのを止めた。
必然的にお裕とも会うことはなく、時々元の師の診療所に顔を出すだけとなった。
そんな折、急患が運ばれてきた。

「大丈夫だって言ってるだろ」

どこかで聞いたことのある声だと思いながら師とともに患者を出迎えると、患者は大工の啓太だった。
啓太は直樹の顔を見た途端に「ここじゃなくて別のところに行く」と言い出した。
担いできた大工仲間に「何馬鹿なこと言ってやがるんだ」と押さえつけられ、結局直樹が先に診察することになった。
「ちょ、ちょっと待て、こいつ医者じゃないだろ」
啓太が直樹を指さす。
「まだ、ですが、優秀ですよ」
にこにこと人の良い顔で師はそう言った。
「失礼」
そう言って直樹は啓太の足を診る。ちょいと左足首を動かすと「うっ、と、痛くないから触るな」と啓太が脂汗を流した。
「骨折ですね。たぶん二本の骨とも」
直樹の言葉に同じように師が左足首を診る。今度は情け容赦なく触るので啓太は盛大に呻いた。
「ふむ、確かに骨折だね、桶に足入れて」
そう言われてそのまましばらく放置され、熱を取ってからようやく助手に添え木を用意させた。あとはぐいぐいと布で固定していく。
「治るのにどれくらいかかりますかね」
運んできた大工が聞く。
「ひと月はかかるね」
「ひと月!冗談じゃない」
啓太は慌てて動こうとするが、助手に押さえられて身動きもできない。
「足が動かなくなってもいいのか」
直樹は淡々とそう言った。
「いいわけないだろ」
「それならおとなしくしてるんだな。…それとも、お琴と会えないのが嫌か」
直樹がさりげなくそう言うと、啓太は「別にそういうんじゃない」と顔を背けた。
今でも時々佐賀屋の裏通りを通ってお琴と鉢合わせしているようだった。
いつも仕事先が佐賀屋の前を通っていくとは限らないのだろうが、明らかにお琴が気になっている様子はうかがえるのである。
「仕事は後で取り戻せるが、足を悪くしたら二度と取り戻せないかもしれない」
直樹がそう言うと、啓太は「わかったよ」とつぶやいた。
処置が終わってから運ばれるまでの間に、啓太は少しだけ不思議そうに尋ねた。
「あんたは、何であそこまで好意を示されながら無視できるんだ」
「…無視はできていない」
「へぇ、そうか」
「したくてもさせてくれないだろ、あいつ」
お琴を思い浮かべながらそう言うと、啓太はため息をついた。
「あんた、不憫な奴だな。本当に医者になるつもりか」
どういう意味だと視線を向けると、「店にいる時より楽しそうだ」と言う。
「楽しいわけじゃない」
「ああ、そう言うだろうとは思ったけどな。少なくとも、このままではいられないだろ」
「…ああ」
それは素直に認めた。
「いや、いいけどな、別に。俺のことじゃないし」
そう言った啓太は大工仲間に戸板に乗せられて、診療所を出ていった。
直樹は出ていった戸を閉めながら、師に向かって相談に乗ってほしい、と告げたのだった。

 * * *

やがて秋も深まったある日、佐賀屋の主、重樹が真っ青な顔で出先の会合から戻ってきた。
小間物問屋や呉服屋など、懇意の店の主たちが集う会合で、突然にそれは始まった。
新しい試みで店を出そうと以前より話し合われていたのだが、その金を集めて管理していたとある主が、あろうことかその金を持ち逃げしたのであった。
金を貸し付けていた者は佐賀屋だけではなかった。
佐賀屋は大店な分、すぐに店が潰れるわけではなかったが、そこそこの店では大きな痛手であった。
佐賀屋は無事でもその周辺の店が潰れてはさすがに持ちこたえるのは厳しい。
あれこれと付き合いがあり、潰れないまでも商売は難しいものなのだ。
しかも、あそこは大丈夫か、ここは大丈夫かとさほど付き合いの深かったわけでもない店までも商売の手を引かれてしまう羽目になり、佐賀屋はかなりの危機に陥った。もはや金のあるなしの問題ではなく、商売としての危機だ。
こればかりは佐賀屋の主一人の力ではなかなか戻すのが難しく、根気よく商売の波が戻るの待つか、更に大店との付き合いを広めていくか、という選択を迫られていた。
しかし、一度危機と噂になった店との付き合いはどこも控えてくる。
佐賀屋の主は、新しい商売先を巡って方々を回ることになった。

「おじさまは、今日も得意先回りですか。どうにかならないのかしら」

少し疲れた様子の佐賀屋の主を見るにつけ、お琴は心配でならなかった。
同じように心配顔のおかみ、お紀も「ええ、こればっかりはねぇ」と相づちを打った。
さすがの直樹も家の商売が危機となれば、呑気に医師の師匠のもとへと行くわけにはいかない。
珍しく店先に顔を出して、朝から若い女の歓声が店に響いていた。
「直樹さんが店に立てば、大丈夫そうなんだけど」
思わずそうこぼすと、お紀が笑った。
「でもね、あれで商売の全てが賄えるわけじゃないのよ」
「ええ、そうでしょうけど」
お琴は響いてくる女たちの声に耳を傾けながらため息をついた。
「まさか、こんなことで躓くことになろうとはね。本当に商売は水物ね」
このまま佐賀屋がどうにかなるとはさすがに思っていないが、危機的状況なのは間違いなかった。
大店のままでいられるかは、勝負どころではあった。
何とかして大きな商売相手が見つかるといいのだが、とお琴もお紀も思っていた。


直樹は、口に出そうと思っていた将来の話をできないまま過ごしていた。
さすがに今この状況で口にすることは、佐賀屋をつぶすのも同然だと思ったのだ。
佐賀屋の身代がつぶれることはともかく、大勢の奉公人を放り出すようなものなのだ。
いくら冷徹と言われる直樹とて、それはできなかった。
じりじりと日は過ぎていく。
直樹は、いつしか師の下へ行くのもやめてしまっていた。
お琴はそんな直樹に気が付いていたが、直樹が口に出さないので何も言うことはなかった。
すでに直樹は自分がどうしたいのかすら考えることもなくなっていた。

 * * *

江戸ではそろそろ秋風から木枯らしに変わる季節だった。
昨日今日の商いではないのですぐに潰れるわけではないが、じりじりと佐賀屋の取引も減ってはいた。
更に世相は武士にとっても厳しく、今までのように高価な飾りをやり取りする時勢でもなくなっていたのだ。

「旦那様、お帰りなさいませ」

奉公人の声が響いて主が帰ったことを知り、お琴は台所から店先に行こうかと手を拭きかけていた。

「あなた!」

お紀の悲鳴が響いた。
わぁっと店が騒がしくなり、お琴もそのまま店先に走っていった。

「おじさま?」

店先で倒れていたのは、佐賀屋の主、重樹だった。
おろおろとする奉公人たちの中にお琴は駆け寄り、「お医者様を」と叫んだ。
そのときちょうど直樹は出かけていて、お琴は必死だった。
我に返った番頭や手代によって重樹は運ばれ、部屋に寝かされた。
他の奉公人が医者を呼びに走り、店もとりあえずは閉められたのだった。
駆けつけた医師によって、重樹は過労ということになったが、心の臓を傷めているかもしれないと薬も出された。
一堂はほっとしつつもこれから先の商売を考えて不安を抑え切れなかった。

一方直樹は、古本屋に出かけていたため、この騒動を当然知らなかった。
店に戻ると、店は既に閉められ、首を傾げた。
家に入ると騒然とした中に妙な静寂もあった。

「直樹さん!」

お紀とお琴の蒼白な顔に少なからず驚いて「何か、あったのか」と聞いた。
「何か、だなんて。どこへ行っていたのです」
お紀の悲鳴のような声に直樹はすぐに返事ができなかった。
「直樹さん、おじさまがお倒れになったの」
「父が」
「ええ。心の臓を傷めたのだとお医者様がおっしゃって」
お琴の言葉に直樹は急ぎ草履を脱いで、重樹の寝かされている部屋へと向かった。
「今は、お薬のお陰かよく眠っていて」
お琴はそう言ったが、自分の目で確かめたくて、直樹は部屋に入っていった。
重樹が横たわっている布団の傍に寄り、顔色を見る。
血色がいいとは言えなかったが、今すぐにどうこうというほどのものではなさそうで、ほっとする。
かいまきをめくり、腕の脈を診る。
やや乱れてはいたが、今は力強く打っていることを確認した。
「医師の見立ては」
「しばらく安静に、と」
「薬は」
「こちらに」
お琴は直樹に薬包を見せた。
「一つ、預からせてくれ」
「ご自分で調べるのですか」
そう言ったお琴は、直樹の目を見つめる。
その目は直樹を責めてはいない。ただ、もしかしたらという期待を直樹に向けていた。
まだ見習いにも満たない自分を見つめる目が眩しくて、直樹は目をそらした。
「師匠にも聞いてみる」
「わかりました」
そう言ってお琴はうなずいた。
医師のもとへ通っているのを知っているのはお琴だけだった。
それだけに直樹はお琴が直樹を信頼し、なおかつ期待しているのだとわかった。
いつでも真っ直ぐな視線を向けるお琴の目が、見られなかった。
あまりにも中途半端な自分が情けなかった。
医師のもとに通っているとはいえ、半人前でこんなときに役にも立たない。
それでもお琴は尊敬の眼差しで直樹を見る。
薬を手にして、直樹は足早に部屋に戻った。
師匠に聞いたところで、一度傷めた心の臓が元に戻るとは思っていなかった。
部屋の物入れに入れてある医学書が、不意に重い荷物となって直樹にのしかかってくるようだった。

 * * *

それから、重樹の容態は少しずつ回復していくが、やはりまだ起き上がれない状態が続いていた。
先日の金策の問題と主の不在は大きかった。
商い自体は続いていたが、それでも佐賀屋は徐々に力を失うようにして商いを縮小させていた。
お琴はお紀とともに店にも出たが、直樹はやはり商いに熱心とは言えなかった。
「直樹さんは、毎日どこへ行かれているのですか」
「…あたしには」
「お琴ちゃん、直樹はこの佐賀屋を継ぐ気はあるのかしら」
「ないとは思わないんですが、でも直樹さんの才能はきっとそれだけではないような気も…」
「今ここで踏ん張らないと、佐賀屋は…」
お紀の嘆きを聞きながら、お琴は佐賀屋の行く末を思案していた。
医学の道に行きたいという直樹の意思は、どうなってしまうのだろうと不安に思っていたところに、とうとう直樹の行く先が知れた。
奉公人が別の医師の下に訪れている直樹を見たのだという噂が、お紀の耳にも入ったのだ。

「どういうことですか、直樹」

お紀の声は一番奥の部屋からもよく聞こえた。
お琴は胸を押えてその声に耐えた。
はしたないと思いながら、そのまま直樹の部屋の前に駆け寄った。

「来るな」

お琴の姿を認めた直樹は、お琴が部屋に入る前にそう怒鳴った。
「でも」
そうは言ったが、部屋の前でお琴は立ち止った。
親子の間でもめているときに立ち入ってもいいのだろうかという躊躇だった。
後ろからそっとおきよがお琴の肩に触れた。
「…今は、お二人にしたほうがよいでしょう」
「でも、あたし、本当は…」
「ええ、わかっています。それでも、です」

おきよによってそっと襖が閉められた。
お琴はおきよにつれられて台所の片隅に座らされ、お茶を振舞われた。
他の奉公人は遠慮させられていたのか、誰もいなかった。

(2014/03/05)


To be continued.