大江戸恋唄



14


台所の片隅で、お琴は直樹とお紀の話が終わるのを待っていた。

「あたし…知っていたのです。でも、そんなこと言えなくて」

お茶を一口飲んでから、おきよにそう言った。

「内緒にしていたほうがよかった話ですから当たり前です」

おきよはそう言ったが、お琴はぶるぶると震えたままだった。
こんなにも熱い湯を飲んでいるのに、どうしてこんなに震えるのか。

「いいんですよ。お琴さんの心が軽くなるなら話しても。でも、そうではないのなら、私ごと きに話す必要はありません。大事なお話ですからね」

お琴はことりと茶碗を置いて息を吐いた。

「あの…いえ。そう、ですね」

自分の心は軽くなっても、それはお琴の問題ではないからだ。
直樹と佐賀屋の問題であって、偶然知ってしまったお琴には、自分の罪滅ぼしで今話しても何 もならないと気付き、口をつぐんだ。

「…あたし、部屋に戻ります」

そう言って立ち上がり、台所を抜けてお琴に与えられている部屋に向かうと、ちょうど直樹の 部屋からお紀が出てきたところだった。
お紀はお琴の顔を見るとたちまち目を潤ませ、お琴にすがりついた。

「…親として、こんなに情けないことはありません」
「そんな…」
「確かに、佐賀屋を継がせるというのは無理強いだったかもしれません」

お琴はお紀を抱きかかえながら、お琴の部屋に連れていくことにした。
お紀の部屋には重樹が横になっている。
台所の方へ行くにも奉公人の目がある。
おきよと目が合ったが、おきよはうなずいていたので、お琴は部屋に連れていくことにしたの だった。
部屋に入ると、お紀は座ったまま手拭いを顔に当ててしばらくものも言わなかった。

「申し訳ありません」
お琴は声を震わせてお紀に言った。
「何故あなたが謝るのですか」
「…あたしは、直樹さんが医学の勉強をなさっているのを知っていて、応援もしていました」
「それと佐賀屋の問題は別ですよ。医学の勉強をしようと、佐賀屋を継ぐには何も問題はない のですから」
「でも、いずれはと」
「お琴ちゃん、私は、それすらも相談されなかった親としての情けなさを嘆いているのであっ て、医学の道に進むから嘆いているのではないのですよ」
「そうなんですか」
「ええ。そりゃ、直樹が継げばうまくもいくでしょう。でもね、商売人として向いているかど うかは別。気のない主にこれから先の佐賀屋を託せるとはとても思えないのよ」
「…裕樹さんのほうがよほど向いているかもしれません」
「そうでしょう。そうなのよ。私は前々からそう申し上げていたのですよ」
「おじさまに?」
「ええ。商いをするのはとても難しいことです。佐賀屋がつぶれれば、ここで働いている奉公 人たちも全て放り出されることになるのですから」
お琴は父の商いを思い出した。火事で焼け出されたからとそのままにしていては、一緒に働い てくれた者たちにも申し訳ないとお琴の父は繰り返していた。だからこそ早期の再建が必要だ ったのだ。
「それでも、今の佐賀屋に直樹さんは必要なのですよね」
「ええ。…困ったことね」

しばらくして落ち着いた後、お紀は部屋に戻っていった。
お紀が部屋に戻っていくのを心配そうに見ていたお琴を、直樹が見ていた。

 * * *

秋から冬へと静かに深まっていく。
直樹は医師の下へ通うこともなく、ただ日々は淡々と過ぎていった。
お琴はあれから直樹と話し込むこともなかった。
直樹の方で避けているのか、同じ家にいても顔を合わせることすら少なかったのだ。
直樹が何を思っているのか、全く分からなくなっていた。いや、わかっていたことなどあった だろうかと自問自答する日々だったのだ。

重樹は少しずつ起き上れるようにはなってきたが、商いのほうはうまく戻らない。
それなりに付き合いのあるところは尊重してはくれるが、千代田の城に呼ばれるかという先ご ろまでの勢いはなかった。
商いがうまく進まなければ、お抱えの職人に払う金子(きんす)も苦しくなる。
職人が品物を納めなければ並べられる商品も少なくなる。
そんな折、思わぬ方から助けが入ろうとしていた。

「お見合い、ですって?」

お紀の悲鳴のような声が上がった。
少し弱った顔で重樹がうなずく。
「大泉屋の御隠居が、うちの直樹をぜひに、と」
「あの呉服問屋が…」
大泉屋と言えば、千代田の城に出入りを許された呉服問屋だった。
「大泉屋の夫婦には娘が一人いてね、それは器量良しの娘さんで…」
「それは、お琴ちゃんとの縁談を諦めて、大泉屋を選べと」
「そういうわけだ」
「でも、あちらも一人娘さんではなくて?」
「だから、この佐賀屋と大泉屋を合わせて大きな商いにしようというんだよ」
お紀は黙って重樹の前から立ち上がる。
「私は、反対です。あなたには矜持というものがないのですか」
「それでも、大勢の奉公人を迷わすよりはいいと思ったんだよ。そりゃ自分で立ち上げた佐賀 屋を大事には思っている。何も佐賀屋をつぶすわけではない。大きく変わらせると思えば…」
「私は」
お紀は部屋を出る前に重樹を振り返った。
「あなたのお身体も佐賀屋も奉公人も等しく大事に思っております。でも、賛成はできません 。家族を思えばこそなおさらです」
重樹は、お紀の言い分もわかるだけに深いため息をついた。
この話は、あの大泉屋がぜひにと持ち掛けてきたのだ。
何よりも大泉屋の御隠居が何かの折に直樹を見かけ、ぜひ孫娘の婿にと願ってきたために話が 来たのだった。
自分の息子ながら、直樹は聞こえのいい若者だと思っていた。
頭は良く、見目も良く、商売に対する勘も悪くはない。本人に気がないのが残念なだけで、こ のまま店を譲ってもつぶすことはないだろうと思っていた。
そのうえで親友の娘を嫁にもらうのもいいなと考えていた。
少し仏頂面な息子には、いつも笑っているお琴のような娘がよいとの女将の言葉もなるほどと 思わせる。
そんな折に耳にしたのが医師になりたいという本人の希望だった。
とんでもない話だと憤ったが、口論となればまた心の蔵に負担をかけると言われ、面と向かっ て話し合ったことはない。
お紀は無理に店を継がせることはないと言ってはいたが、重樹はぜひとも直樹に店を継いでほ しかったのだ。
つくづく倒れたことが疎ましかった。
無理の利かない身体は、このまま商いにまで影響する気がして鬱々とした。
願ってもなかなかない良縁が、これほどまでに悩ましいものだとは。
重樹はこれからのことを思い、天を仰いだ。

 * * *

お琴は見合い話を聞いたときに、とうとうこの時が来たのだと思った。
それまでも主夫妻の好意で居候していた佐賀屋だったが、大泉屋との話が進むならば、邪魔者 でしかない。
今すぐに出ていこうと思ったが、憔悴している女将を見ると、なかなか言い出せなかった。
それに加えて、おきよも体調を崩していた。
以前から時々痛めていることは知っていた腰をさらに痛め、今は主以上に寝込んでいる。
その世話も含めてお琴は佐賀屋に恩を返すまではと留まっていた。

「娘が迎えに来ましたら、お暇いたします」

静かにそう告げるおきよに、お琴はうつむいた。
佐賀屋はどんどん変わってしまうだろうとお琴は思った。
直樹が嫁を取り、佐賀屋と大泉屋が合併し、おきよまでいなくなる。

「そうは言っても娘も嫁いだ身ですので、こちらに着くのはまだ先でございましょうが」
おきよはお琴を元気づけるようにそう言った。
「主家をお世話する身でありながら、こんな身でお世話になるのも心苦しくて申し訳ないので すが、お琴さんがいらっしゃるかと思うと少しだけほっといたします」
「そうですか、あたしなんて…」

水飲みを交換して、お琴はおきよの部屋を出た。
台所へ戻る途中で直樹に会った。
久しぶりに見た顔は疲れているようだったが、見合い話が出てから顔を直に見合わせたのも本 当に久しぶりだったのだ。
驚いて水飲みを落としそうになり、慌てて支え直した。
「おきよの調子はどうだ」
思ったよりも落ち着いた口調で直樹が言った。
お琴はこの期に及んでもざわめく胸を落ち着かせようと、深呼吸をしてから答えた。
「痛みもひと頃に比べれば少し落ち着いてきたようで、今日は支えれば起き上がることができ るようになっておりました」
「そうか」
「あの、おきよさん、佐賀屋を出ていくそうです」
「そうらしいな」
その淡々とした口調に、お琴は少しばかりむくれた口調で言い返した。
「小さな頃からお世話になっていたのに、それだけですか」
「別に。奉公人だって仕事を退くときは来る」
「そうかもしれませんが」
「俺が泣けば満足か」
「そんなことは」
お琴は下を向いて直樹の足元を見ていた。足元が音もなく動く。
もう行ってしまう、と思わず片手で着物の上から匂い袋を押えた。
「医師になりたかったと、泣けば満足か」
はっとしてお琴は顔を上げた。
直樹は背中を向けていた。
「佐賀屋を継ぐ」
「直樹さん…」
「長崎に行く前でよかったかもしれないな」
「でも、あれほど熱心に勉強されて、これからまだ」
「この状態の佐賀屋を何とかするのも面白そ…」
お琴が直樹の背中にしがみついた。
かちゃんと水飲みが揺れる。
そっと背中に寄った微かな着物のしわをつかんでさらにしわを寄せさせてしまったが、直樹は 何も言わなかった。
よく見れば、この着物の柄に見覚えがあった。お琴が縫った着物だった。
道理で背中にしわが寄るわけだと納得したが、ちゃんと腕を通してくれた直樹に涙がこぼれる 。
しかもこんな時に気付くなんて、と。
着ているのを遠くから見たのと、間近に見るのとでは胸にこみ上げるものも違う。
同じように手が届きそうだった夢と、ただ夢見ていただけとは違うものだろう。
少なくともお琴がこの家に来てからずっと勉強していた医師への道を直樹は諦めるという。
幼い頃から頭の良い人であっただろうが、あれほど努力するのは並大抵ではないだろうと頭の 出来の良くないお琴でもわかる。
佐賀屋をつぶさせないためには仕方がないと思っても、お琴は声もなく泣いた。
決意したという直樹の背中があまりにもさみしそうで、お琴はどうしてもそのまま背中を見送 ることができなかったのだ。
奉公人の気配が感じられるまで、お琴は背中の着物をつかんだままだったが、直樹もそのまま 動かずに文句も言わず黙って立っていたのだった。

(2014/03/21)


To be continued.