大江戸恋唄



15


そろそろ冬の兆しも見え始めた頃になると、町の噂は直樹の嫁とりの話で持ちきりだった。
もちろんお琴も見合いの話を知らないわけではなかったが、人から聞かれるたびに「私は居候ですからよく知らないんです」とか、「花嫁修業中なので、主家のことを漏らすわけにはいきません」とか、あの手この手で避けるようにしていた。
町の人、特にお琴や直樹を見知っている者などは、佐賀屋の状況を鑑みて密かに噂する。
噂もいろいろで、佐賀屋を助けるために呉服問屋のお嬢を嫁にとり、商いを支えてもらうのだが、若い二人は泣く泣く別れる決意をしたのだとか、直樹はひどい男だとか、いや実はお琴の片想いなだけで、実際は野心あふれる直樹が進んでお嬢を嫁にもらうのだとか。
さすがのお琴も笑顔ではいられなかった。
今は店のこともあるので、直樹は医師の師匠のもとへ通っている様子はなかった。
このまま店を継ぐとなれば、通っても仕方がないのかもしれない。
お琴は少しそれを残念に思っていた。
医学の話をするときの直樹は、人が言うほど冷めた様子はなかったのだ。
むしろ店の中で商いをするよりも生き生きとしていた気がする、と。
いつか許されて、医学の道に進むと思っていたので、お琴は複雑な気持ちだった。
もちろん自分が直樹と結ばれるなどと思ってはいなかったが、それでも女心としてどこか片隅にでもちらりとその考えがなかったわけではない。
直樹が医学の道に進むなら、自分はその手伝いをしようと思っていた。
しかし、佐賀屋の主、重樹の世話を手伝いながら、お琴はたとえ直樹が医学の道に進まなくても、医師を助ける者になりたいと思うようになっていた。
だから、直樹が大事にしていた医学の本をこっそり焼こうとしていたのを知ると、止めるのも聞かずに手を伸ばした。
「あつっ」
つい火に手を入れ、火傷を負ったが本は守った。
危うく焼かれるところだった本を胸にお琴は直樹を睨んだ。
「焼くくらいならあたしにください」
「おまえ、手…」
「こんな大事なものを燃やすなんて」
「わかった、それより手を出せっ」
「わかっていません。どうして焼こうなんて思ったんです。
貴重な本を燃やすくらいなら、他にも医学を志している者にお譲りするくらいの気持ちが何故持てないのですか。直樹さんはいつも勝手過ぎます」
直樹はお琴の言葉に怒る風はなく、そのままお琴の手を取ると直樹の部屋に連れて行った。
「こんな火傷を負ったら、母に何を言われるか」
「あ、あの」
「手当てするぞ」
「は、はい」
戸惑いながら手の火傷を直樹に手当てしてもらうと、お琴は顔を赤らめながら胸に抱いていた本を改めて眺めた。
丁寧に書かれた本は、直樹の手による写しだった。
恐らく貴重な本を行くたびに写本していたのだろう。
「…本の件はわかった。それで、誰に譲ればいい」
「あたしに」
「は?」
「あたしに譲ってください。あたし、医学の勉強をしたいんです」
「でもおまえは…」
「ええ。医師になろうだなんて思っていません。でも、医師を助ける者になりたいんです。それにはやはり病気のことやお医者さまが行うことを知っていたほうがいいんでしょう?」
「そりゃそうだが」
「だから、譲ってください。あ、でも後でどうしても返してほしいって言われたら、仕方がないから返してあげますけど」
「…いや、いい。本もそんなに言うなら譲ってやる。土産代わりに持っていけ」
「…はい」
土産代わりと言われて、お琴はやはり胸が痛んだ。
近いうちにこの家を出なければ、とお琴はぼんやりと思っていた。

火傷は大事には至らなかったが、目ざとく見つけたお紀が心配そうに言った。
「本当にお医師に見せなくてもよろしいの?」
「ええ。もう優秀な方に見ていただきましたから」
「それにしてもどうしてそんな火傷を」
「えーと、焚き火で…」
「焚き火?そう言えば昼間は何か燃やしていたようだけれど」
「え、ええ。その、お芋を焼こうと思っていたら…」
「あら、まあ」
それを聞きつけた裕樹はすかさず馬鹿にしたように言った。
「お前のことだから欲張って焼こうとしたんだろ。本当にとろいな」
むっとしたお琴だったが、あえて反論はせずに黙って引き下がった。
それ以上しゃべるとぼろを出しそうだったからだ。
「ふーん、焼き芋ね」
通りかかった直樹がわざとらしく言った。
誰のせいで、と思ったものの、膨れて睨みつけるだけにとどめた。
手当てしてもらった布で包まれた手を擦った。
この傷が残ろうとも、後悔はしない。
そして、やはりこの家を出よう、と。
お琴は直樹の後姿を見ながらそう思った。

お琴がそんな決意をした頃、直樹は店の忙しさの合間をぬって、大泉屋のお嬢さんとの話を進めていた。

「では、行ってくる」

直樹がそう言って店を出て行った。
誰もどこへとも聞かなかった。
店にいたお琴に気を使っていたのか、わざわざ聞くことではないと思ったのか。
そのどちらともだろうとお琴はため息をついた。
このまま直樹は大泉屋に出向いて、今日はお嬢さんと芝居を見るのだという。
どこかの料理屋で食事もしてくるのだろうと思うと、お琴は胸が痛かった。
少し前までその向かいに座って食事をしたのは自分なのだと思うと、直樹の助けにならない自分を恨めしく思った。
もちろんお嬢さんとて親の商売のお陰ではあるのだが、今のご時勢では商売をうまく運んでいる者が常に上となるのだ。
身分の差は大きく、武士の家においそれと町人は嫁げないし、そのためにわざわざ武家の養女になったりするくらいなのだ。
大泉屋と言えば、江戸界隈では並ぶ者のないくらいの呉服問屋だった。
千代田の城に出入りを許されているとも聞いている。
それだけではなく、その娘は噂に違わず美しく聡明なお嬢さんだとの評判で、その姿はあでやかな牡丹だとも言われている。
大店にありがちな金持ちぶったところのない人格者の両親も揃っているとなれば、これを断る男もいない。
そんな大店に見込まれた佐賀屋の嫡男と言えば、大泉屋には及ばなくとも十分大店と言える小間物問屋の美丈夫で神童とすら呼ばれた男だ。
先祖はどうやら武家の流れであり、その颯爽とした姿と身のこなしは、言うまでもなく人気だったのだ。
「でも、性格までは見てるだけじゃわからないわよね」
そう一人ごちたが、その性格もきっと大泉屋のお嬢さんは知ることになるのだろうとお琴はさみしく思った。
素っ気無いのに、ふとしたときに優しい。
そのきれいな顔から出る辛辣な言葉に何度泣かされただろう。
まさかあのお嬢さんにそれほどの言葉を言うとは思えないが、きっと聡明なお嬢さんならその言葉の裏の優しさに気づくはずだ。
そんな直樹を知ってほしいと思う反面、自分だけが知っていたいと贅沢なことを願うのだった。
直樹を見送った後、お琴は福吉に行くことにした。
そろそろ家に戻ることを決意したため、荷物も少しずつ手でこっそり運んでいるのだが、やはり昼間でないと一人での外歩きは危ないとのことで、こうしてあまり目立たない時間に出かけることにしていた。
店奥の女中にいつものように福吉に行くと伝え、お琴は店を出た。
直樹に譲ってもらった本を一冊抱え、お琴は佐賀屋を出て歩き出した。
福吉までさほど遠くないとはいえ、それでも通りを二つ三つ越えていかなければならない。
お琴はのんびりと通りを楽しんで歩いた。
もうすぐこの道のりも歩かなくなるだろうと思っていたからだ。
家に戻ってしまえば反対方向なため、この通りを歩くこともない。
直樹とお嬢さんの姿さえ家の近くで見ることはないのが唯一の救いだ。
芝居小屋はここを曲がって行くはずだ、とお琴はふと足を止めた。
通りの向こうの大泉屋まで直樹はお嬢さんを迎えに行き、この橋を渡って芝居小屋まで行くのだ。
そんなことを思っている間に本当に通りの向こうに直樹とお嬢さんの姿が見えた。
お嬢さんの後ろには女中がいるので、厳密に言えば二人きりではない。
それでもその二人の姿は通りの向こう側からでもわかった。
やけにお似合いで、お嬢さんの姿は牡丹と称されるほどの美人だった。
お琴はいたたまれなくなり、大通りから外れて細道へと身を潜めた。
ここでばったりと会って挨拶を交わそうものなら、どんな言葉をかけていいかわからなかった。
ましてや直樹に無視されるのも辛い。
一歩二歩と後ずさりして、通りにある水桶の陰へと身をかがめた。
にこやかに通り過ぎる二人をやり過ごして、お琴が立ち上がった。
細道から戻ろうとしたときだった。
不意に後ろから口をふさがれた。
誰、と振り向く間もなく、お琴は当身を食らって意識を失った。
細道には他に人影もなく、大通りの者は誰も気づかない。
ただ、静かにお琴は運ばれていった。


「どうされました」
急に立ち止まった直樹に、大泉屋の沙穂が聞いた。
「いえ。知り合いの者がいたかと思ったのですが、違ったようです」
「そうですか。世の中には似た方が三人はいると申します。でも、直樹さんのような方は三人もいらっしゃいませんわね、きっと」
「そうですか。弟は、割とよく似ていると評判ですが」
「まあ、そうなんですか。それはぜひ拝見したいですわ。いずれ、ご紹介くださいますわよね」
「そうですね。よろしければ芝居の帰りに寄って早速確かめてみたらどうですか」
「まあ、よろしいんですか」
「ええ。沙穂さんさえ良ければ」
「ぜひそうさせてくださいませ。直樹さんのお父様のお見舞いもしたいですし、お母さまにもご挨拶させてくださいな」
「そうですね」
そう言いながら直樹はあらぬ方を見て微笑んだ。
その笑顔に一抹の淋しさを感じた沙穂だったが、すぐに笑顔を取り繕うと「さ、参りましょう。私、とても楽しみなんです」と言って直樹を促したのだった。

(2014/01/09)


To be continued.