大江戸恋唄



16


芝居を見終わった後は、華やかな役者の姿絵を眺めながら通りを沙穂と直樹は歩いた。
沙穂は穏やかに笑いながら芝居の話をしている。後ろで寝ていた男の気が知れないと少し憤慨もしていた。
直樹はそれに応えながら、一方では寝ていた男の話を聞いて思わずお琴を思い出した。
面白い芝居ならばきっと喜んで見ているだろうが、沙穂のように細かくあれこれと覚えていることはないだろう、と。芝居の内容に興味を持てなければ寝てしまうことだってありうる。
もちろんそう言えば「寝たりなんかしません」と頬を膨らませることだろう。
「…思い出し笑いですか。ふふ、直樹さんでもそんな風にお笑いになるのですね」
不思議そうにこちらを見る沙穂と目が合い、直樹は知らずうちに笑んでいた顔を引き締めた。
「すみません、沙穂さんの話で間抜けな知人を思い出してしまいました」
「直樹さんのお知り合いでそんな方が?」
「…ええ、まあ」
「きっと愉快な方なのでしょうね」
話を促すかのように言ったその言葉には応えず、直樹は話をそらすように沙穂が気に入っていた役者の姿絵を選ばせた。
「まあ、よろしいんですの?」
うれしそうに包みを抱え、沙穂は微笑む。
「今日の日の良き思い出ができました」
ただ、そうした些細なことですら、お琴に渡した匂い袋のことなどが思い出された。
あれは特別にあつらえたものであったにもかかわらず、お琴は試供品だと誤解したままだ。
今ここで役者絵を抱える沙穂の土産は、こうして思い出すことはあるだろうかと直樹は考えた。正直どんな絵を選んだのかすらろくに見ていない。沙穂が気に入ったのならそれでいいだろうというくらいのものだ。何年か後にあの時の思い出の絵ですと差し出されても、覚えているかどうか自信がない。
目の前の美しい沙穂との会話は決してつまらないものではない。
機知に富み、流行のものや物語、料理のことまで幅広く知識も深い。
「最近評判の料理屋も考えたのですけれど、予約がいっぱいだそうで、残念でしたわ」
そう言って沙穂が示したのは、紛れもなくお琴の実家の料理屋、福吉だった。
この時期に予約がいっぱいとは思えなかったが、もしかすると察したお琴の父、重雄がそう言って断ったのかもしれないと直樹は思った。
少なくとも、今は沙穂を連れて福吉で料理を食べる気にはなれない。
お琴と鉢合わせするのもかったるく、料理人見習いの金之助に嫌味を言われるのもたまったものではない。それに加えて何も知らない沙穂がどうしたのかと言いたげな顔をするのも耐えられなかった。
ほっとしながら福吉の前を通り過ぎようとしたときだった。
まさに偶然とも言えるこのときに、金之助が店から飛び出てきた。

「おまえっ、お琴はっ?!」
開口一番そう言った。
「知るわけないだろ」
そう冷たく返すと、そのまま金之助は通りをどこへともなく走っていく。強いて言えば佐賀屋の方面かもしれない。

「お知り合いですか」
沙穂が直樹を仰ぎ見る。
「偶然知り合ったことがあって」
そう答えると、沙穂は疑うことなくうなずいた。
こういうところは箱入りのお嬢様らしく、あまり突っ込んだことも聞いてこないし、これ以上聞いてもいいのかどうか判断する引き際も見事だった。
確かにこういう女人を妻にすれば、商売は滞りなく進むだろうし、家庭は円満であろうと思う。
直樹は、先ほど金之助が血相を変えてお琴のことを聞いてきたことが少し気になったが、金之助はいつも大げさにお琴について騒ぐこともあって、その場では流してしまった。
沙穂がそばにいて、送り届けねばどうにも身動きが取れないこともあった。
後ろからそっと沙穂の女中もついてくる。
このまま沙穂を放り出したところで大通りにいる限りなんら困ることはないだろうが、確実に佐賀屋の評判は落ちるだろうと思うと、やはり沙穂をそのまま放っておくわけにはいかなかったのだ。

「もう店に着いてしまいますわ」
名残惜しそうに沙穂が言った。
そう言われても、直樹はこれ以上他の場所に誘うすべがなかった。
つまらないわけではない。
再びそう思いながらも迷いなく沙穂の実家である大泉屋に送り届けた。
沙穂は先ほど直樹が買った姿絵を「ありがとうございました。大切にします」と大事そうに抱えて店に入っていった。
その後ろをそっと女中がついていき、直樹に頭を下げる。
中から沙穂の父が顔を出したが、軽く頭を下げただけですぐに奥に引っ込んでしまった。
まだ一人娘に対する複雑な思いがあるのかもしれない。
何よりも忙しいようで、店の中は活気があった。今の佐賀屋には感じられない賑やかさだ。
大きな間口の呉服屋は、それだけで直樹を圧倒した。
少しの間大泉屋の店先を眺めた後、沙穂の母が出てこないうちにそっと立ち去ることにした。
大泉屋の店先が遠くなりかけた頃、誰かが急ぎ店から出てくるのを感じたが、振り向くことなくそのまま歩き続けた。


家に帰ると、青い顔をしたお紀が出迎えた。
また父、重樹に何かあったのかと「何か…」と言いかけた。
ところが思いもかけない言葉がお紀から出た。

「お琴ちゃんの行方がわからないの」

一度聞いただけではよく理解できなかった。
お琴はかなり方向に疎く、この佐賀屋の近辺でも迷子になることもある。ようやく福吉との往復に慣れたところだった。
そのお琴はあれでも年頃の女人で、いくらなんでも迷子になれば自分であれこれ訪ねて帰ってこられるはずなのだ。
しかし、直樹は思い違いをしていた。
「あなたが芝居に出かけたすぐ後にこちらを出て、福吉に向かったの。いまだ現れないばかりか、誰もお琴ちゃんを見かけていないって」
「どれだけ経ってると思う」
直樹は自分よりも後に出たというお琴が、それほど何刻もあちこちを歩いているとは思わなかった。
いや、正直言えば頭の隅ではちらりと考えたのだ。
お琴が好いていたのは直樹だった。その直樹が沙穂と一緒に芝居に行くために出かけたのだ。お裕の時のように後をつけたりはしなかっただろうかとか、沙穂との仲に絶望してふらふらと我知らず歩いてぼんやりとしたままどこかにいるのではないかと。
「福吉の料理人さんが来てくれなかったら、まだ知らないままだったと思うわ」
途中で血相を変えた金之助に会ったことを思い出した。
あの時の金助は確かに直樹にお琴の行方を聞いたのだ。
まさかそんな事とは知らずにそんなことまで知るかと答えたのだが、あれからかなりの時が経っていた。
今帰ったばかりだったが、直樹は立ち上がって家を飛び出た。
「あの馬鹿が」
直樹の知っているお琴の行く先などほとんど知らないも同然だった。
友人たちと寄っていたあんみつ屋。一度は寄りたいと言っていた白粉屋。福吉の帰りによく立ち寄った団子屋。そぞろ歩きをしたという土手。
心当たりはそれだけだった。
たった数か所しかない心当たりに立ち寄ってしまうと、あとは手当たり次第しかなかった。
お琴のことを知っているようで知らないことに直樹は気が付かされた。
こうなると、全く行方のつかめないお琴に一つの心配が出てきた。
湯島天神の方だからと油断していた人さらいだ。
どんな方法でさらうのか、いまだ手口は知れていないが、道で困っている者を見ればすぐに声をかけるお琴をさらうのは容易な気がする、と直樹は辺りを見回しながら思うのだった。
ただ見回しているだけではやはり見つからない。
手がかりが何もない以上、お上に頼るのが筋というものだろう。すでに両親から話はいっていると思われたが、直樹は自身番に顔を出した。
しかし、この昼間から数刻いないだけの娘を真剣に探そうとはしておらず、佐賀屋の両親と直樹、福吉の面々が心配していることを理解していないようだった。
苛立ちを覚え、直樹は自身番を後にした。あとは自力で何としても探すしかなかった。
日が暮れれば、自身番でもさすがに帰らない娘を心配して探し回るだろうが、そのころにはすっかり手がかりも何もかも消えているかもしれない。
それを思えば、直樹は役人のようにのんびりとしていることはできなかった。もちろん役人は役人でいろいろ仕事を抱えているのだろうから、直樹の焦りを感じても今はどうしようもないと思っているのかもしれないが。

昼下がりはまだ暖かだったが、日が傾いていくにつれてうすら寒くなってきていた。
幾つめかの通りを歩いていると、向こうから金之助とすれ違った。
金之助は意外そうに直樹を見て言った。
「なんや今頃お琴を心配してんのか」
「見たという者もいないのか」
「今さら親切ぶって捜しても遅いわ。お琴はわしが見つける」
「おまえが見つけようが俺が見つけようが、そんなことどうでもいいだろ」
「…向こうの通りを通ったんは確かなんや。通りでお琴が足を止めたのを油屋の小僧が見とる」
どうやら金之助は通りの店をしらみつぶしに聞いて回ったらしい。その根性には恐れ入る。
そして、油屋の前と聞いて、直樹は「…ああ」と思わずうなずいた。
「それから、これ。これが桶の裏に落ちていたらしい。近所の子どもが拾った言うて」
金之助が差し出した風呂敷包みは、医学書だった。
「これは、お琴に…」
火の中に手を入れてまで守った書物だ。
少しだけ焦げかけたふちを直樹がなぞると、黒焦げた紙がかさりと音を立てて舞った。
「何でお琴がこんなもんを」
金之助が訝しげに直樹を見た。
直樹は手早く風呂敷包みを戻すと金之助に押し付けた。
「どうするんや、これ」
「…後でお琴に渡してやってくれ」
「本当はおまえのだったのとちゃうんか」
金之助の前から走り去りながら、直樹は通りを見渡した。通りには当然のようにお琴の姿は見当たらない。
あの時、芝居に行く前にちらりと見た姿は、やはりお琴だったのだと直樹にはわかった。
沙穂と一緒にいるのを見て、とっさに通りを外れたのだろうと思われた。お琴ならそうするかもしれない。人の後をついてくる大胆さと妙な遠慮を併せ持っているお琴なら。
あの時間、あの通りの人通りは多かった。
お琴一人が道を外れたからといって覚えている者はいないだろう。
人が多ければ、逆に人ひとりの動きなど誰も注視していない。
いったいお琴はどこへ消えたのか。
直樹は歩き回るうちに大泉屋の裏にまで来ていた。
裏なので沙穂がいるわけではなかったし、通りには大泉屋の者は誰もいないと思っていた。
歩き進んだところで、一人の老人が桶を椅子にして座っているのが見えた。
誰もいないと思っていたので、直樹には老人が一瞬置物か何かに思えたくらいだ。
目が合うと、老人はにこりと笑った。

「誰かをお探しかな」

あまり動きのない老人だったので、置物がしゃべったくらいにしか思えなかった直樹だったが、その老人の言葉に思わず疑わしい目を向けた。

「何故、それを」

直樹の言葉に老人は「先ほどから表を行きつ戻りつしている見目のいい若者がいると評判だからの」と答えた。
沙穂を送った時以外に大泉屋の前を通った覚えはないのだが、とさらに疑わしく思えたのだが、老人はさらに言った。
「ほかにももう一人、通りを人を捜して歩き回っている者がいるそうな」
それは金之助のことだと直樹は心の中で答えた。
「人さらいは、人の目を気にするが、案外連れ去るときは人の目がある中で巧妙に行われることもある」
「あなたは」
「…ただの隠居爺だが、世の中にはこんな隠居爺にいろいろな話を届ける者がおってな」
確かにどこかの大店の隠居然としていた。もしかしたら大泉屋の先代かもしれないと直樹は思い始めていた。
「疑わしく思うのは当然であろう。でも、ちいとこの隠居爺に事の次第を任せてみる気はないかね」
「お琴が見つかるならば」
「…お琴さん。ふむ、そんな名前であったかの」
「知っているのですか」
「聞いてはおらぬかな。以前足を痛めて助けてもらうところで家人に拾われての」
「お琴が籠を呼んだにもかかわらず、立ち去ったとかいう」
「そうじゃ。あの時は申し訳ないことをしたと探しておったのだ。家人には何度も娘さんがこの後やってくるからと繰り返し言うたのだが、家人は頭が固くて疑り深い。娘さんがわざわざ見知らぬ爺のために籠を呼んで戻ってくるなどと思わぬたちでな」
「お琴はちゃんと戻ってきたはずです」
直樹はいつか籠で戻ってきた日のことを思い出していた。
確かにあの時、直樹も見知らぬ老人のために駕籠屋を呼んだりするなど、愚かだ、危険だと言った気がする。お琴はあまり疑うことを知らない。
「駕籠屋に聞いたら、確かにわしがいた場所に籠を連れていったと。その後駕籠屋は佐賀屋に娘さんを送り届けたと聞いた。しかし、佐賀屋に娘はいない」
「お琴は父の親友の娘です」
「そのようじゃな。ここはひとつ恩返しをする番じゃ」
「お琴はしかし、どこに行ったかもわからないのです」
「どこかその辺にいればいずれ見つかる。それよりも、もう一つの急を要する可能性を探らねばならん」
「人さらい、ですか」
「そうじゃ。そちらは以前より配下の者を散らばらせて探っておったところじゃ」
「…配下の者」
直樹は目の前の御隠居をとくと眺めた。
もしも本当に大泉屋の御隠居であるならば、お琴を助けてもらうことによって沙穂との話はますます断れなくなるだろう。いや、断るつもりではなかったのだから、何の不都合もあるまい。
そして、大泉屋の御隠居が配下の者を使うその意味は何だと直樹は問いたかった。
千代田の城に出入りするくらいの大店である。
何かお上からのお達しや密命を持っていたり、どこか城の奥深くの誰かとつながっていることも考えられないわけではない。
「わしの家は、代々尊いお方からの依頼事があってな、配下の者を使うことも許されておる。
今は人さらいの件も含まれておるの」
「そこまで私に話していいのですか」
「…聡明で口の堅い者が身内に欲しいと思っていた。引き継いでくれるような若者が。こんな話は自分の息子にだとて内密じゃ」
ということは、沙穂の父は御隠居のやっていることを知らないことになる。
「知ったからといって引き継げとは言わんが、今回は手伝ってもらう。娘さんを助けたいのならばなおさらじゃ」
「お役に立てるなら」
「そう言ってくれると思ったよ。早速だが、剣は得意とか」
「それなりに」
「じゃが、実戦はないと」
「その通りです。武士ではないので」
「なに、すぐにつかめるだろうて。配下の者をつける。日が暮れる直前にやさを探って娘さんを助け出すがよい」
「いる場所はもうわかっているのですか」
「いや、多分そこだろうという話だ。すでに今までさらわれた娘たちがそこにいるかどうかはわからないが、少なくとも今日さらわれた娘はそこに置くしかないという話じゃから」
「…行きます」
「くれぐれも御身に気を付けて。いや、わしが言うことではないか。危険な場所に行かせようというのだから」
「役人は動かないのですか」
「…役人にもいろいろあってな。どうしてこの江戸で大店の娘がさらわれて探し出せないと思う。あれだけ派手にやらかしておって、何故捕まらないと思う」
「内通者がいるわけですか」
「お上からのお達しではな、今回は隠密の者しか動けないのじゃよ。ああ、これはすべて聞かなかったふりをしてくれ」
直樹はひとつ疑問に思ったことを聞いてみた。
「何故今回お琴が…」
今までは大店の娘ばかりだった。そして、大店にいるとはいえ、お琴は佐賀屋の娘ではない。福吉はそこそこの料理屋ではあったが、大店と言えるほど有名ではないし、金持ちでもない。
「娘さんは間違われたのかもしれんな」
「やはりそうなのですか」
「それとも、今度ばかりは大店の娘をさらうのは難しかったと見える。どこも警戒して外に出さなくなったゆえ、そこそこの器量よしの娘で、ある程度品がなくては商品にならないと見たのだろう」
「商品、ですか」
「嫌な言い方だろうが、娘さん方は立派な商品だったとみえる」
直樹はお琴を思い浮かべた。はねっかえりではあるが、お紀によって着物はそこそこのものを着せられていたし、店の者に大事にされていた。そして、ふらふらとあちこち一人で出歩く娘だ。しかもいろいろとうっかりしている。さらう方はさらいやすかっただろう。
「性格はそれぞれだろうが、立派な店の娘さん方だ。売り物とするならば、それなりに身綺麗でなければ売れはしないからの。大店がだめならその格下でも十分というさらう側の都合のせいかもしれないが」
直樹はその言葉に怒りを覚えた。
もちろんこの御隠居がそう決めてさらっているわけではないというのに、怒りを抑えられなかった。
娘たちが、お琴が、売られる。
まるで何かの商品のように。
いったい何の商品だ。
決まっている。どこか見知らぬ国への捧げ物だったり、下卑た権力者への貢物のためだ。
激しい怒りを感じながら、直樹は御隠居を睨んだ。
「…そろそろ配下の者がやってこよう。少しは冷静にな。そんなに頭に血が上っては、この後を乗り切れまい」
日が傾き、建物の向こうへといよいよ隠れようとしていた。いずれこの通りも暗くなるだろう。
直樹は一つため息をついた。

(2014/04/06)


To be continued.