17
日が暮れようとしていた。
ぐっと冷え込みを感じ、直樹は御隠居に渡された刀の重みをより一層感じた。
日暮れに追われるようにして、人さらいのやさとされる場所近くまでやってきた。
「なんだか絵に描いたようなやさだよなぁ」
ぼそりとつぶやいたのは直樹ではない。
「本当によろしいんですか、西垣さま」
心配そうに言ったのも直樹ではない。
「ああ、大丈夫、大丈夫。ちゃんと御隠居に許可もらったし。なんなら腕前見てみる?」
へらへらと笑いながら言ったのは、ほかでもないあの西垣だった。
旗本三男坊の、暇を持て余し気味の、女たらしでふらふらとあちこちに顔を出している、無駄に顔の広い輩である。
「自分から飛び込んできたんだ。放っておけばいい」
「そんなに冷たくしなくてもさ、一緒にお琴ちゃんを救おうとする仲じゃないか」
「そんな仲もこんな仲もありませんよ。何故貴方さまは余計なことに首を突っ込むんですか」
「んー、暇つぶし?」
「でしょうね。それで命懸けるんですから大したものです」
「そういうおまえもな」
御隠居の配下の者たちはこの二人に少し困惑気味だ。
配下の者たちはそれなりに今まで訓練を積んでいるが、二人は全くの素人なのだ。
それを知り合いの者がさらわれたからと仲間に入れていいのだろうか、と。
すでに御隠居から隠密の者として取り扱ってもいいと話が下され、少しばかり剣の腕前を確かめた。
二人とも道場で学んだだけとは思えないほど太刀筋が鋭かった。
加えて佐賀屋の嫡男には剣に凄味があった。さらった者に対する怒りが剣を通じて感じるようだった。
しかしただそれだけでは危ないのは百も承知だ。
これで命を落としても何も保証はされない。
ましてや大泉屋の見合い相手としては非常に惜しい相手であるのは間違いない。ここで命を落とされでもしたら、どうなることやら。
そして急に後から加わったのが、これまた旗本の三男坊だった。
噂には聞いたことがある江戸でも名うての女たらしだ。
そんな女たらしに何ができると思われたが、意外に器用で船も操れば、剣の腕も佐賀屋の嫡男といい勝負だという。
これまた御隠居から許可が下りて仲間に加わった。
さらった者たちはそれほど剣の腕に覚えのある者はいないと思われる。
用心棒代わりに浪人でも雇っているのかもしれないが、何よりも心配なのは当然人質で、女を盾に取られたら奪い返すのも困難だ。
果たして不意を衝いて奪い返せるものなのか。
「様子を見てまいります」
「…頼む」
いつの間にかこの場を仕切っているのは直樹になっていた。
細かい計画を立てたのも結局直樹で、御隠居から言われた配下の者たちは、頼んだとおりに動いていく。
今もやさの様子を探りに行くのは配下の者で、さすが隠密と言えるくらい手練れの者たちだった。
「この時代にも忍者っているんだなー」
呑気そうにそう言ったのはもちろん西垣で、感心したように配下の者たちを眺めている。
「いえ、忍者というわけでは」
少し困ったようにそう言って配下の者は苦笑する。
この期に及んでそんな言葉が出るとは、と配下の者たちも半ば呆れ気味だ。これでいて剣を持って振り回せばそれなりの太刀筋なのだから、余程西垣のほうが謎だ。
「いつまでもくだらないこと言ってると、この場で切り捨てますよ」
「いやだな、無駄な殺生は身を滅ぼすもとだよ、若だんな」
「若だんなはやめてください」
「え、突っ込むところはそこ?」
「貴方を切ることは全然無駄じゃないと思いますが」
「おっとそう来たか。まあ、どうせ名前呼べないんだからいいだろ。あ、おれのことは怪盗光の君とでも…」
「旗本退屈男で十分ですよ」
かぶせるようにすかさず直樹が言った。
いや、そもそもその別名も無理では、と配下の者は突っ込みたかったが、ここは黙っているに限ると口をつぐんでいた。
* * *
お琴は、直樹と沙穂の姿を遠目に見ただけで胸が痛かった。
今でこそこれなら、二人が夫婦《めおと》になったなら、どれくらいの衝撃なのかと自分を諌めた。
これではいけないと深呼吸をして気持ちを整えるつもりだった。
腕に抱えた医学書は、こんな時でもお琴を慰めた。
火から急いで拾い上げたにもかかわらず、直樹の手書きの医学書は、すでに燃え尽きているものもあった。お琴が抱えている医学書は端が焦げただけで済み、中は十分に読むことができたため、最近ずっと持ち歩いて読んでいるのだ。
それでも大事に扱わないと、焦げた部分ははらりと千切れてしまう。
風呂敷包みを抱え直して水桶の陰から出た時には、何の前触れもなく後ろから口をふさがれた。
振り向く間もなく腹に衝撃を受け、お琴の意識はなくなっていた。
次に気が付いたときは、口に布をかまされ、後ろ手に紐を掛けられていた。
足はかろうじて動かせたが、ひんやりとした空気に少しだけ身震いしながら目を開けたのだ。
誰かに捕まったのだとわかったが、今一つ現実味がなかった。
何故ここにいるのか。
いったい自分をさらって何の得があるのかわからなかった。
福吉はそこそこの料理屋ではあるが、店を再建したばかりで金があるわけではない。
自分もどう見ても大店の娘には見えないだろう。
大店の娘ならば、今の時期女中の一人でもついているはずだ。
実際松本屋のお裕も、大泉屋の沙穂にも、直樹との外出にもかかわらず無粋にも後ろからついてきていたのだ。
さらわれた娘たちはどうなったのだろうとまずはそう思った。
自分の身はこの後どうなるのかとも思ったが、逃げようとしても無理なのだと早々に悟った。
何よりも人さらいは一人や二人ではなかった。
何やら物騒な者たちもいて、もしもこの身をどうにかされたなら、どうしたらいいのかわからなかった。
しかし、下卑た考えを持つものが一味にいなかったのが幸いしたのか、お琴はさらわれてよりずっと放置されているようだった。
まだ外は明るいのかどうか、家の奥に届く光は微かで、外の賑わいは全くわからなかった。
それほど長い距離を移動したとは思えなかった。
おそらくここはまだ江戸の町中なのだろうと思われた。
娘をさらって運ぶのも容易ではない。
ぎぎっと船の櫂の音が聞こえたので、家の裏を堀か川が流れているのだろうとわかった。
しかし、お琴にわかるのはここまでだった。
直樹ならもっと細かいところまで観察して、もっと何か手がかりをつかむのだろうと思ったところで大泉屋の沙穂を思い出した。沙穂ならば、これほど危ない目に合わないだろうと。
自分の迂闊さを悔やんだ。
生まれが違うのは仕方がないとしても、立ち居振る舞いそのものも、頭の良さもかなうことはない。
そして、一方では諦めにも似た気持ちがある。
直樹と似合うのは、やはりあのようなお嬢様なのだと。
松本屋のお裕の時にも思ったが、今までそばにいられたのが不思議なくらいだ。
大事にしていた医学書はそばになかった。やはり落としてしまったのだろうと思われた。
お琴は目を閉じた。
胸元からは匂い袋の香りがしていた。
日が経ち、いくらか匂いは薄れてきたが、落とさずに入っているようだった。それだけでもほっとしていた。
匂いを感じると、どうしようもない気持ちが少しだけ和らいだ。
直樹からもらった匂い袋だけは後生大事に一生持ち続けるのだと思っていた。
直樹は今頃何をしているのだろうと考えた。
さすがにお嬢様を送り届けて、店に帰っただろうか。
暗くなってもお琴が戻らないのを誰か心配してくれるだろうか。
直樹がお琴を心配するいわれはないが、少しだけどこに行ったんだと怒ってくれればいい。無視されるよりもずっといい。
しかし、現実はお琴がここに捕らわれていることも、直樹が知るわけはないのだ。
帰ってこなくても、さほど気にしないかもしれない。寂しいがそれもありうることだ。
このままどこかに売られていくのか、殺されるのか、身代金でも要求されるのか、それを思うと涙がにじんできたが、恐怖で身がすくむほどではなかった。
直樹と会えないことや話ができないことのほうがよほど辛いのではないかと思ったからだ。
父は金之助と夫婦になればいいと思っている節さえある。
それも一つの手かもしれない。
そんなことを思っていると、上から何か声がした。
目を開けると、そこには二つの目がのぞいていた。
「助けに来ましたよ」
お琴はただうなずいた。
微笑もうとしたが、口にくつわ代わりに布をかまされていたのでそうすることしかできなかったのだ。
誰かがここにいることをわかってくれたのだと知り、お琴はそれだけでよかったと思ったのだった。
* * *
やがて配下の者が戻った。
「家の中には用心棒が二人。他にさらった者たちが四人。奥にどうやらお琴さんだけがそこにいるようです」
「行けるか」
直樹が西垣を見ると、西垣は笑って答えた。
「用心棒が二人なら楽勝」
「他の者が裏に回ってお琴さんの身を」
「無茶しないようにしてくださいよ」
「わかった、わかった、配下殿」
西垣のその呼び方もどうかとは思ったが、あえて反論せずにこれからに集中することにした。
「じゃあ、行くか、若だんな」
「お願いしますよ、退屈男」
「省略すんなよ。しかも丁寧ながら呼び捨てかよ」
そんなやり取りをしながら、緊張感はどうなのだと思いつつ、配下の者たちと直樹、西垣は行動を起こした。
日暮れ時、暗闇に目が慣れるまでの刹那、まだ少し日がある分、かえって影の部分は色濃く感じ、そのやさを襲った者たちの姿は影に隠れた。
表戸からは浪人が刀を構えて現れ、それと同時に後ろからも人さらいを起こした張本人たちが現れる。
調べた人数よりも少ないのは、人質を気にしてのことだろう。
もちろん裏側、天井裏から忍び込んだ者たちと安普請な木壁を壊すようにしてお琴を先に救い出すはずだった。
しかし、それより一歩早く、人さらいたちのほうがお琴を連れ出すのが早かった。
表では直樹と西垣が浪人と立会いを繰り広げていた。
直樹の怒りがそのまま伝わったかのような太刀筋は、西垣からすればやや危ういものであったが、冷静になれというのも無理な話で、怒涛の勢いのまま、直樹と向かい合った浪人は直樹にあっけなく倒された。
おそらく鎖骨と腕の骨を折られ、転げまわって痛がる浪人がうっとおしいと思った西垣は、自分に向かい合っていた浪人をあっさりと切り捨てると、直樹に向かった浪人を足蹴にして気絶させた。ほどなく配下の者が捕らえるだろうから、そのまま放っておくことにした。
すでに直樹は奥に向かっている。
やれやれとつい口にした。
無駄な殺生という点では、西垣のほうが徹底している。
生かしておいても獄門打ち首間違いなしならば、ここで一思いに切ってしまった方が当人にとっても親切というものだが、一人くらいは証人として残しておくのもありか、と考えを改めた。
直樹はそこまで考えて傷を負わせただけにしたわけではないこともわかっていたが、武士と商人では根本的に背負うものが違う。そこは仕方がないと西垣は思うのだった。
直樹が合口(あいくち:鍔のない短刀)で向かってくる人さらいの一味を倒しながら奥へ駆けていくと、お琴が捕らわれており、それを見守る配下の者たちがいた。
お琴の首には合口が構えられていた。
駆け付けた直樹をお琴が見た。
こんな時でもお琴は直樹を見ると青ざめていた顔を少しだけ微笑ませた。
ずりずりと引きずられるようにしてお琴は男に連れられて移動していた。
直樹の刀を持つ手が汗ばむ。
お琴が捕らわれているのを見て、これほど動揺と怒りを感じるとは思わなかった。
「じっとしていろ」
低く響いた直樹の声に、お琴は黙って直樹を見ていた。
首を動かせば刃が首に食い込むからだ。
合口を持ち慣れていないのか、構えている人さらいのほうが腕を振るわせているため、かえって何もしなくとも刃先でお琴の首を切ってしまいそうだった。
「おやおや、これはまた」
直樹の後ろから西垣が顔をのぞかせて眉をひそめる。
「他の連中は皆捕まっちゃったけどね」
「うるさい、どけ」
人さらいの仲間がいなくなったと知っても、人質を手放す気はないらしい。
お琴を引きずって歩いていたが、こういう状況でお琴がまともに歩けるはずがない。
もう一歩と人さらいが動いたところで、お琴の足がもつれた。
抱えている人さらいごと体勢を崩した。
と同時に直樹が動いた。
人さらいの構えている合口がずれて、倒れ掛かったお琴を刺したように見えた。
お琴を救い出そうと配下の者も動いた。
全てが一度に動き、全ては一瞬のうちに終わった。
どたっと音がして、人さらいが倒れた。
「お琴!」
直樹の声以外、響くものはなかった。
(2014/04/12)
To be continued.