大江戸恋唄



18



それは一瞬のことだった。
目の前にかざされたものが、刃物だと気付いたときには、人質だった。
がたがたと周りが騒がしくなったのは、助けに来てくれたせいだとわかっていたので、少しでも迷惑にならないように自分でも逃げ出そうと思ったのに、実際は後ろ手に縛られた体が思うように動かず、うまく立ち上がれなかったのだ。
本当は、足手まといになるくらいなら、いっそ刺されてしまえとすら思っていた。
人質がいなければこの状態はすぐに終わるだろうとも思っていたからだ。
他にもさらわれた娘がいるらしいのは、人さらいたちの会話で気づいていた。
しかし、ここにはいない。
すでに場所を移動しているからだろう。
どこへ行ってしまったのか、生死すらもわからない。
ここで助け出されるのが、自分だけでいいのかと思ったが、この者たちが捕まれば後に判明することもたくさんあるだろうと思い直したのだった。
直樹の姿を見た時は、ただの幻だと思った。
都合のいい夢を見たのだと。
まさか助けに来るだなんて誰が思うだろう。
ここにお琴がいるのを知るわけがなかったのだから。
最後に目に焼き付くのが、直樹なら、それに越したことはない。
口のくつわが邪魔だったが、精一杯微笑みかけた。
見せる姿がこんななりでは、やはり大店の嫁には向かないのだろうとまで考えた。もちろん今この状態が比べるものでもないとさすがのお琴も混乱して気づいていなかった。

声が頭に響いた。
直樹に名を呼ばれるのは、なんて幸せなことだろうとお琴は思った。
でもこの声は、多分怒っている、と感じた途端、お琴は意識を失った。
最後に聞く声が怒った声なんて、自分らしい、と思いながら。

 * * *

直樹は放心したように刀を取り落すと、倒れたお琴を抱き寄せた。
刺されたように見えた。
それだけで自分の心の蔵が止まったように感じた。
着物を確認すれば、確かに着物が一部切られている。
しかし幸いなことに血は出ていない。
代わりに胸元からぱらぱらと落ちたものがあった。
いつか直樹がお琴にやった匂い袋だった。
袋にざくりとした刃物の後が残り、中身が零れ落ちてしまったのだ。
さほど大きくもないその匂い袋は、懐に入れていたお蔭でお琴の命を寸でのところで救ったのかもしれない。
幸い体勢が悪かったせいで、もちろん刺されていたとしてもさほど傷は深くなさそうだったが、たとえかすり傷でも身体に傷ができるのとできないのとでは大きな違いだ。

「…ったく、どれだけ迷惑をかけたら気が済むんだ」


そう言って大きくため息をついた背中を見ながら、西垣は不意に笑いがこみあげる。
借り受けた名刀も放り出す。
迷惑だと言いながら容赦なく現場に踏み込む。
面倒だと言いながら一番先に傷を診る。
なにも医者見習いだからと言ってそこまで胸元をはだけなくてもよかろうに、と思いながらそれぞれ後片付けと称して目をそらしているのだ。
気を失ったままのお琴を担ぎ上げようとして、ようやく胸元をはだけたことに気付いたようだった。
それでも顔色一つ変えずに胸元を直し、千切れてこぼれた匂い袋を取り除いた。
あれほど大事に懐にしまっていたものをあっさり取り除くのを見て、お琴はきっと後で泣くんだろうなぁと西垣は想像した。
またそれに対して直樹が面倒そうに怒るのだろうと思うと、やはり笑いがこみあげてくるのだ。
まるで荷物を運ぶようにお琴を肩に担ぎ上げ、直樹は歩き出した。
もう少し丁寧に運べないものか。もしくは女人にふさわしい運び方があるだろうに。
せめて負ぶうとか。
それでもここにいる他の者に触らせない辺りは独占欲丸出しだ。
そんなことを思いながら西垣は直樹が取り落とした刀を鞘に戻した。

 * * *

お琴が目を覚ますと、座敷に一人眠っていたようだった。
何故こんなところで寝ているのかわからなかった。
座敷は静まり返っていて、よく見れば自分の家だとわかった。
何の物音もしない。
額の上からぱさりと手拭いが落ちた。
熱が出ていたのかと起き上がってみると、頭がくらりとした。力を入れたせいなのか、お腹もずきりと痛んだ。何故そんな場所が痛むのか、お琴にはわからなかった。
布団の傍に桶が置いてあったので、手拭いをその中に放り込むともう一度横になった。
静かに目を閉じると、ぼんやりとした頭で考えた。
このままここにいれば、佐賀屋とは縁も切れて、直樹とお嬢さんのことも忘れられるだろうかと。
何事もなかったように夜は更けていくのだった。


「お琴」

お琴の父、重雄の声がした。
お琴は目を覚まし、起き上がると部屋の襖を開けて重雄が入ってくるところだった。

「…おはよう、お父さん」
「気分はどうだ」
「うん、少しお腹が痛いような気もするけど、熱のせいかな」
「そうか。ところでおまえ…」
「ねえ、お父さん、あたし、どうして家に戻ってきてるのかしら」
「そりゃおまえ…なんだか知らねぇが、熱が出て倒れてたとかで親切な人が介抱してくれてな」
「あ、そうなんだ」
「…何も憶えていないのか」
「熱が出たのも憶えていないんだけれど」
「…うん、そうか」
「佐賀屋を出たところまでは…」

そう言って、お琴は少しだけ目を伏せた。
直樹と大泉屋のお嬢さんの芝居見物は、夢ではなさそうだった。
あの光景に衝撃を受けて熱を出したのかも、とお琴は納得した。

「まあ、ぼちぼち寒くなってきた頃合いだしな」

それだけ言って、重雄はまた部屋を出ていこうとしている。
そろそろ店に戻らなければ、とつぶやく。

「仕込みは終わったの?」
「ああ。ひと段落ついたところで出てきちまったからな」
「あたしの方は大丈夫だから、お店に戻ってね」
「そうか、悪いな、こんな時もいつも一人にして」

何気なく言った重雄の言葉にお琴ははっとした。
佐賀屋に同居するようになってから、お琴の傍にはいつもお紀やおきよがいたのだ。
でもそれは佐賀屋でのことであって、いつも熱を出したときにはこうしてお琴一人で家で寝ているうちに回復したり、時々仕事を抜け出して重雄が見に来たり、近所の親切な住人たちがのぞきに来てくれたりしたものだ。

「お琴、もうこのまま家に帰ってきたらどうだ」
「…うん」

重雄はお琴の返事を聞くと、「また誰か様子を見にやらせるから」とだけ言って部屋を出ていった。
確かにこのまま佐賀屋にいても双方にとっていいことは一つもないように思われた。
布団の上でお琴は身震いをした。
また、熱が上がってきそうだった。

 * * *

佐賀屋の直樹と大泉屋の沙穂が一緒に芝居見物に行ったことは、すでに近隣の者にも噂は伝わっていた。
ちょうどお琴の姿も見えず、ますます噂は拍車をかけた。

「それで、お琴ちゃんの具合は」
「熱は下がったようですが、どうにも顔色が悪いようで」
「そう」

お紀は店の手代の話を聞いて心を痛めた。
福吉へ行くと言ったまま、お琴が戻らず皆心配をしていた。
人さらいにでも遭ったかと右往左往しているところへ、福吉から急ぎ知らせが来た。
どうやら福吉へ行く途中で熱が上がって倒れ、親切な住人に介抱されていたらしく、身元がわからないので福吉への知らせも、それを受けて佐賀屋への知らせも遅れたとのことだった。
もちろん福吉とは別に佐賀屋からも人をやって介抱してくれた長屋の住人にはそれ相応のお礼をした。
それでもお琴はすでに父である重雄が家へ連れ帰っており、それ以来寝付いてしまったというお琴は佐賀屋へ文を寄こしたきりだった。

「あれほど元気な娘さんが、それはもう見るからにやつれてしまって」

重樹に聞かれないようにそっと手代はお紀に伝えた。

「ご苦労だったわね。このことは」
「はい、承知しております」

手代は店へ戻っていき、お紀は一人、部屋の中でため息をついた。
このところ佐賀屋の主である重樹の調子は戻りつつある。
あの大泉屋と縁ができたことで、商売の方も少しずつ回復してきており、じきに元に戻るだろうとのことだった。
直樹はどうやら真面目に商いに精を出しているようで、このところ店には嬌声が響いている。
たとえ大泉屋との縁談の噂があったとしても、まだ縁付いたわけではない。
お琴が店に姿を見せなくなったことで、この機会を逃さないかのように女の客が押しかけているのだった。
少し高めかと思われる髪飾りだろうと直樹が少しほめればそれを手にすることを厭わないようなお嬢様たちの大挙だ。

あのおきよも暇を願い出ている。
店を出したときからの奉公人だった。
女中頭としても申し分なかっただけに惜しい。
しかし、新しく直樹が主人になる店に古い者は邪魔になるかもしれないと言うのである。
何よりも、大泉屋のお嬢様をお迎えするならば、大泉屋から女中もついてくるだろうから、良いようにしてもらえばいいとおきよは言った。
最近腰を痛めたのも暇を願い出るきっかけになったのだろう。
それがわかるだけにお紀は引き止めるのもためらわれた。

少し伺った限りでは、大泉屋の沙穂は申し分のないお嬢さんだという。
大店の娘さんだけあって、おいそれと顔を見る機会はないらしいが、容姿もよく、立ち居振る舞いも完璧だという。
あれだけのお嬢様なのに、炊事も縫い物も結構な腕前だという。
炊事は母親があまりさせたがらなかったと言うが、どこへ嫁に出てもいいようにと本人が自ら女中に願い出て教えを請うたらしいとまで聞く。

お紀はお琴のお焦げの飯を思い出した。
縫い物の針運びを思い出して思わず笑った。
今度こそお琴は佐賀屋に戻ってこないだろう。
あの元気な声が佐賀屋に響くことはないのだ。
直樹の怒鳴り声も。
ぱたぱたと廊下を歩く少し騒々しい足音も懐かしい。
まだひと月も経っていないのに、と。
笑いながら涙がこぼれてきた。
「ああ、お琴ちゃん」
お紀は袂でそっと涙を拭ったのだった。


重樹の容体が少しずつ回復するにつれて、奉公人にも活気が戻ってきた。
しかしその奥にお琴の声は響かない。
福吉へ行くと言ったまま佐賀屋を出て、そのまま熱を出して寝込んだというお琴は、戻ってくる気配はなかった。
それはもしかしたら幸いなことかもしれなかった。
あの後、配下の者が手配した者が倒れているお琴を見つけたことにして託し、その者が福吉の重雄に知らせをやった。
福吉からは佐賀屋に知らせが入り、とりあえず失踪という事態は避けられたのだ。
肝心なお琴は、目が覚めてみればこちらが心配したのを通り越して何も覚えておらず、それはそれで安堵してそのまま別の記憶とすり替えた。
人さらい云々の件は伏せることにして、思い出さないままにしておこうというわけだ。
悪戯に家人を心配させるものでもないので、もちろん福吉の面々にも佐賀屋の面々にも内密のことになった。市井の者で知っているのは直樹と、事を共にした西垣だけだった。
その西垣もいろいろあるのか、ここのところは店の近くでも見かけていない。
その後どうなったのか、当然配下の者からの知らせもないし、大泉屋の御隠居からも何も言ってはこない。内々に処分された者もいると聞くが、それは商人には明かせられない話で、せいぜい得意先が一つ二つなくなったり、千代田の城の片隅で人が代わったりしただけのことだ。
主である重樹は城中の事情に詳しいかもしれないが、いまだ直樹の日常は全て店の中だった。

夜に直樹が部屋にいると、遠慮がちな声が襖の向こうから聞こえた。

「…兄さま」

直樹が「入ってこい」と答えるとそろりと裕樹が入ってきた。
少し入ったところで姿勢を正して座ると、少しうつむきがちに直樹に向き合った。
「どうした」
そう声をかけると、意を決したように裕樹は口を開いた。
「兄さま、本当にあの人と結婚するのですか」
「どうしたんだ、急に」
突然そんなことを言い出した裕樹に驚いて、直樹は改めて裕樹を見た。
「するのですか」
「…さあ、多分そうなるんじゃないか、このままいけば」
「好きなの、その人のこと」
「どうしたんだ、裕樹」
「兄さま、いいのですか。だって、だって、兄さまが好きなのは…」
裕樹は泣きそうな顔で直樹を見た。
「お琴なんでしょう」
直樹はそれには答えず、さも関係がないように言葉を続けた。
「ああ、今度沙穂さんがお前に会いたいと言っていたよ。あれでいて飯炊きもできて、縫い物も上手なんだそうだ。美人で頭もいいからおまえも気にいると思うよ」
「兄さま!」
「いい女将になると思うし、きっとうまくいくよ」
裕樹の顔は見ずにそう言うと、裕樹はもう何も言わずに静かに部屋を出ていった。
裕樹がどんな顔をしていたのか、直樹にはわからなかった。
直樹には、好きか嫌いかなどわからなかった。
お見合いなんてそんなものじゃないか、とつぶやく。
家柄がつり合い、うまくいきそうならそれでまとまる。
おまけに相手は才色兼備とくれば、断る理由などあるまい。

「そう、きっとうまくいくよ」

幸いなことに、直樹のひとり言を聞く者は誰もいなかった。
部屋の片隅に積んでいた医学の書物の山はすでにない。
全てお琴に譲ったのだ。
無心に勉強に励んだすべてを。

(2014/04/16)

To be continued.