大江戸恋唄



19


「お琴!今日はわしの特製雑炊を持ってきたで」

熱に倒れてから三日に上げずに金之助が様子を見にやってきていた。
一応これでも福吉の主であり、お琴の父である重雄に許可はもらっているのだ。

「ありがとう、金ちゃん」

力なくお琴がお礼を言うのを金之助は少し顔をゆがめながら手早く雑炊の準備をする。
火鉢で雑炊を温めながら、お琴が布団の上でぼんやりとしているのを見ていた。

「なあ、お琴」
「なあに、金ちゃん」
「もう、身体はかなりいいんやろ」
「うん、本当はもうそれほど悪くはないの。お医者様にもそう言われてる。…お医者様にも…」

そう言うと、お琴は黙ってしまった。

「…お琴」

金之助は直樹から渡された本をいまだお琴に渡してはいなかった。
具合の悪いお琴に渡すのも気が引けたのは確かだったが、改めてあの本を見れば、内容は医学に関するものだった。
何故お琴があんな難しい内容のものを持っていたのか。
おまけにあの本の字は、直樹のものかもしれないと思うとなかなか渡す気になれなかったのだ。
直樹は大泉屋のお嬢さんと婚約間近だと町の噂だ。
それがお琴の回復を遅らせているのは間違いないとして、それくらいでへこたれるお琴ではないはずなのだ。
今までだって何度も直樹にひどい目にあわされたようだし、きつい言葉を浴びせかけられているのも知っている。

「さあ、温まったから食べ」

そう言って器を差し出すと、「うん、ありがとう、金ちゃん」と微笑んで器を受け取った。
静かに食べる音が響き、お琴が食べ終わるまで金之助は待った。

「…お琴、おれと夫婦《めおと》になってくれへんか」
「金ちゃん…」

しばらく黙った後、お琴は金之助をしっかりと見た。

「今すぐには…」
「わかった。もう少しお琴が元気になってくれてからでいい」
「うん」
「さあ、店に戻らんと」

半ばわかっていた返事の保留だったが、とにかくお琴に自分の気持ちを告げた。
金之助はお琴から器を受け取ると、手早く台所で器を片付けてそっと家を出ていった。


お琴は、布団の上でまだぼんやりとしていた。
金之助が自分を好いているというのは知っていた。事あるごとにお琴に好意を示してくれたからだ。
直樹とのことが絶望的になった今でも、すぐに金之助に返事はできなかった。
父の事情、お琴の心情としては金之助と夫婦になれば、それほど問題なく一緒にやっていけるだろうとわかってはいるのだ。
医者という言葉を聞くだけで直樹を思い出してしまうなど、思うよりも深くお琴は自分の心が弱っているのを感じた。
そして、懐に入れていたはずの匂い袋はなかった。
どこかで落としてしまったのか。
せめてあれだけは思い出にと思っていたのに、着物に匂いが微かに残っているばかりだった。
おまけに福吉へ行く際に持って出た風呂敷包みも見つからない。
道に落ちていれば、誰かが拾い上げ、金になりそうなものならばすぐに換金されているだろう。医学の本など古本屋に行けばかなりいい値段でとってくれたのではなかろうか。たとえ四隅が焦げていたとしても直樹の手蹟ならば、それを差し引いてもよりいい値段で売れるかもしれない。
仕方がない、落としたのは自分なのだから。
あれほどお世話になったというのに、佐賀屋にも何も挨拶していない。
やはりここは辛くともきちんとお礼を言いに行かねばならないと思う。
お琴は自分の身なりを見下ろした。
そうだ、いつまでも布団でぐずついている場合ではない、と。
病は気からと言うではないかと。
そして、直樹には言わずにこっそりと匂い袋の代わりを探しに行こうと決めた。
そのためには松本屋まで行ける体力を養わねばならない。
それでもなお直樹を振り切ることができるならば、金之助と添い遂げることも考えよう、と。
世の中、好いた惚れたで一緒になった夫婦ばかりではない。
月日はなんとなく過ぎていくものだ。
いい夫婦になって子を育て、親を安心させるのも一つの務めだ。
それに金之助ならばお琴を大事にしてくれよう。店にとっても悪くはない。
お琴はそう考えつつも、つい部屋の片隅に置いた医学の書物の山に目をやった。
お琴が臥せっている間に佐賀屋の手代がそっと届けてくれた。
直樹から預かったのだというそれは、直樹の全てな気がした。
お琴は自分が医学を学び、医者を助ける者になりたいという気持ちを忘れてはいない。
金之助と夫婦になるならば、店を切り盛りする方に頭を切り替えていかなければならない。
言葉には出しつつも、どうしても書物を開く手をやめられなかった。
内容はかなり難しくて、一人では無理だと思うその内容は、それでもお琴を慰めてくれた。
直樹を思い出すことは悲しくて仕方がないのに、その託された書物とともに医学への道を預かったような気がするのだ。
お琴は、どうしたらいいのかわからないままだった。


お琴はようやく床上げをして普通の生活に戻ることにした。
慣れない家事も佐賀屋で習ったせいか、以前よりもましになった。
福吉にも顔を出し、金之助をはじめとする奉公人たちにお礼をして、やっと顔色が戻ってきたようだった。
そんな中、友人たちも訪れた。
「で、結局どうなのよ」
「うん、それがね」
お琴は佐賀屋でのことにはあまり触れずに金之助からの求婚について相談した。
「ひえー、やるわね、金ちゃん。本気だったんだ」
驚いた声をあげておさとが感心する。
「で、どう答えたのよ、お琴」
おじんがお琴に迫る。
「まだ、何も」
お琴は正直な気持ちを二人に話した。
「金ちゃんは幼馴染でよく知っているけど、今まで一度だってそんなふうに思ったことないもの」
「まあね、でも金ちゃんほどお琴のこと思ってくれる人いないよ」
おじんの言葉には素直にうなずいた。
「はっきり言って、あの佐賀屋の若だんなよりは、金ちゃんのほうが似合ってると思うよ。これを機に金ちゃんのことを考えてもいいんじゃない」
「うん」
そうは答えつつ、お琴はもう一つのことを考えていた。
「たとえばさ、あたしが福吉じゃなくて人を助ける仕事をしたいって言ったら、どう思う?」
この質問には、おさととおじんの二人が顔を見合わせた。
「…どんな仕事か具体的にわからないけどさ、お琴って不器用よね」
「う、ま、まあ」
おさとの言葉に反論はできなかった。
「人を助けるどころか、助けてもらう羽目にならないといいな、なんて思っちゃうんだけど、あたし」
おじんの言葉にお琴はそれ以上の言葉もなく「う…そうね」と返すのが精一杯だった。
「どちらにしても、お琴が本当になりたいって思うのなら、お父さんにもちゃんと相談しないとね」
おさとの言葉にお琴は「わかった、ありがとう」とうなずいたのだった。


また、ある日は、ようやく松本屋に赴くことができた。
松本屋ではお裕がいたが、少しだけこちらを見た後、手代が相手をしようとしたのを引き取ってお琴に話しかけてきた。
「いらっしゃいませ。今日はどのような御用でいらっしゃいますか」
「…あの、に、匂い袋を」
「匂い袋…?」
お琴の言葉にお裕は少し眉をひそめる。美人がすればそれすらも絵になるものだとお琴が思った時、お裕が言った。
「貴方、いただいた匂い袋はどうされたのかしら」
「そ、それは…お、落としてしまって」
「あら、まあ」
「で、でも、ただ落としたわけじゃなくて、ね、熱で倒れた時に落としたのか、無くしたのか、盗られたのかわからないけど」
「そう。でも、残念ながら貴方が同じものを買おうとしても無駄足よ」
「ど、どうして」
「あれは、お店には売っていないの」
「そんな」
「知らなかったの?あれはうちの番頭が直樹さんに頼まれた、ただ一つのお香なのよ」
「え、だって、試供品だって、直樹さんが」
「ああ、そう。試供品、かもしれないわね。でも、あれっきりなの。同じものを作れと言われれば番頭をはじめとしてうちの総力を挙げて努力は致しますが、それなりにお値段もかかると思われますよ」
「え、そ、そっか」
「それに、あの袋だってうちでは扱っていないの。あれは佐賀屋で仕入れた大泉屋からの特注品のうちの一つよ」
「大泉屋…」
「そう、大泉屋よ」
「…それなら、諦めます」
「あら、そう。お役に立てなくて申し訳ありませんわ」
そう言って、お裕は何事かを番頭に話している。
それにしても、お裕は客であるお琴に対して随分と砕けた口調だった。
「あのっ」
「なんでございましょう」
そう言って笑ったお裕の迫力に負けて、お琴は怯んだものの、少しだけ小さな声で言ってみた。
「あの、あたしも一応客なんですけど」
「買わない方はお客とは言えませんわね」
「あ、そうか。あ、いや、でも」
お琴の様子を見てお裕は呆れたように笑った。
「本当に直樹さまは貴方と口吸いを?」
袂で口を隠すようにして言ったが、お琴には聞こえた。
「あ、あれは」
「嘘なの?」
「ほ、本当です」
「…本当なのね。それなのに、やはりお嬢様には勝てないってことかしら」
誰のことを言っているのか、お琴にはわかった。
今まで会話したこともなかった(お琴がこっそり見ていただけ)お裕だったが、直樹のことに関してだけは同じように好いていたのだとお琴は思い出した。
「…残念でしたね」
「ま、貴方に同情されるようじゃお終いね」
「し、失礼な」
「医師の道は諦めたのかしら」
お裕は口調を変え、お琴をじっと見た。
ああ、そうだった、この人は、長崎行きを援助してもいい、待っていてもいいとまで言った人だったとお琴はお裕を見返した。
「今はお店を立て直すことで一所懸命ですけど」
お琴は目を伏せた。
でもあの直樹の心の中には、まだしっかりと医学への道が刻まれている気がすると思ったのだ。
商いは、譲ることができる。
いずれ裕樹さんが大人になった折にでも。
そうは思ったが、夫婦になる人が許すかどうかは別だ。
「直樹さんが口吸いまでした相手というから、どうかと思いましたけれど、これなら私の方がと思いましたわ」
お琴は少しだけむっとしたが、とりあえず何も言わなかった。実際お裕はあのお嬢さんに引けを取らないくらいの女人であることは間違いないのだ。
「でも、いきなり横から取られるくらいなら、貴方のほうがましだったのに」
「え、そうなの」
「ましって言ったの。勘違いしないでくださいな」
そうは言うものの、お琴はお裕の言葉に随分と慰められた気がした。
「お嬢様、こちらでよろしいですか」
「あら、ありがとう」
いつの間にか戻ってきた番頭がお裕に声をかけた。
「こちら、直樹さんが依頼してきたお香と同じ調合で作ってみたらしいのだけれど、どうかしら」
「え、だって、あれは試供品だって」
「試供品と偽ったのは直樹さんの勝手。試供品をわざわざ誰かさんに思いめぐらせて一つだけ作らせたりはしないでしょう」
「あ、お嬢さんのためだったんですか」
「何故そう考えるのかしら」
「え、どういうこと」
「まあ、いいわ。それより、匂いをかいでみなさいな」
「え、ええ」
渡された小皿を手に、お琴は鼻を近づけた。
「あ、いきなり鼻を近づけては…」
「匂いが違う気が」
「ああ、もう。袋に入っている状態じゃないんだからそのままではきついでしょう。少しずつ香ってみるものよ」
「ああ、はい、ごめんなさい」
少しずつ香ってくる薫りは、確かにお琴がもらった匂い袋の匂いと似ている気がした。
「…でも、ほんの少し、違う…」
「まあ、それはそうでしょう。直樹さんがどれくらいの間懐に忍ばせていたのか知りませんけれど、匂いはどんどん変わっていくもの」
「そう言えば、いただいたときも懐に…」
「そこまでされていてお互い無自覚ってどうなの」
「え、何が」
「いいえ、悔しいから言いません」
「あの、でも、これ」
「はい、せっかく調合したのに違うからいらないと」
「…その、ごめんなさい」
「わかりきっていたのよ、こんなこと。おそらく違うと言うと思っていたの。でも、番頭は自信があったようなのだけれど」
お裕はため息をついた。
「あの調合の時には、直樹さんがどれだけやり直しを頼んだと思っていて?だから無理だとお断りしたのです」
「これはこれで良い匂いだと思うのです」
「それはそうでしょう。松本屋の渾身の作ですからね」
「すごく売れそうですね」
「いえ、これは売り物にはならないの」
「え、もったいない」
「少しだけ変えて売るつもりはあるのですけれど、このままを作るわけにはいかないのよ」
「そうなんですか」
「ええ。そのように直樹さんと取り決めがあるんですって。この世にただ一つのお香なのです」
「ただ、一つの…」
「直樹さんが許可を出さなければ、このお香を作ることもできないのよ」
「へー、意外にけちなんですね、直樹さん」
「ち、違うでしょっ。もう、貴方と話してると直樹さんを諦めた方が賢い気がしてくるから不思議だわ」
「あの、お香、わざわざありがとうございました」
「いいえ、ありがたがってくださる必要はありませんわ。気にいる品をお出しすることもできませんで」
「ううん、それでも、ありがとう」
それだけ言うと、お琴は松本屋を後にした。
もう一度購おうとした匂い袋だったが、直樹がくれたあの匂い袋の代わりはないのだと思い知らされた。
あの香りを確かに覚えている。
もう、それで十分だと思った。

(2014/04/24)


To be continued.