大江戸恋唄



20


あの人さらいの日、お琴は無事に助け出された後、通り沿いの長屋に寝かすように言われた。
直樹はお琴が目を覚ます前にその場を立ち去るのは躊躇われたが、顔を合わせても今はお琴に構ってやることはできないことはわかっていた。だから、言われるがままに長屋を出てきた。
目を覚ましたお琴は、まずは自分がどういう目に遭ったのか、一切合切覚えていなかった。
それは幸いなことでもあったが、その間の記憶を埋める口裏合わせが行われることになった。
その過酷な出来事が身体に負担を与えたのか、目が覚めるまでの間に熱を発していた。
したがって、お琴は通りで急な発熱のために意識を失って倒れていた、ということになった。
善意の長屋の住人が運び込んで介抱したことになっていたが、もちろんその長屋の女主も配下の者が隠れ住んでいる場所だった。
本人が意識を失ってどこの娘さんであるか身元が分からなかったため、自身番に届けて初めて身元が分かった、という話になった。
お琴はそれを疑いもせずに信じているようだった。
直樹が助けに入ったことまでもけろりと忘れているなど、お琴らしいと思ったのだが、一方ではそんな恩すらもあっさりと忘れてしまうとはという恨めしい気持ちもあった。
何か、忘れてしまいたいことがあったのだろうと聞かされた直樹は、それは自分の存在そのものだったのかもしれないと思い始めていた。
あの出来事は思い出さなくてもいい。それは直樹も思う。
ただ、何故かお琴は直樹が助けに来るのを知っていたようだった。
そんな馬鹿なと言われそうだったが、お琴は根拠もなしにそういうことを思いつきそうだった。
ただ、直樹が助けに入ったことを思い出せば、それは自然とあの人さらいの全てを思い出すことになりかねない。その恐怖心、絶望的な気持ちを思い出させるのは酷というものだ。
しかし、その後の身体の回復は、聞いている限り遅々として進まなかった。
あれほど元気な娘さんが、と手代が気の毒そうに言うのを聞いた。
お紀に頼まれてお琴を見舞うことになった手代にこっそりと書物を届けてもらった返事がそれだった。
このまま佐賀屋には戻ってこないだろう、というのが大方の奉公人の噂だった。
お紀も本人の病に直樹の婚姻となれば、無理にお琴を連れ戻すなどという無茶はしないだろう。
直樹は奥にあったお琴の部屋を見ては無理に視線を戻すのが常となった。
もうその後の様子は聞かない。
そう努めて、直樹は佐賀屋の仕事に打ち込むことにしたのだった。


直樹は店を出て、久しぶりに古本屋に出かけた。
しばらく表にも出ず、店のことにかかりきりだった。
あれから大泉屋の沙穂との出歩きもしていない。
あちらもそうやすやすと外に出てくるわけではないので、夫婦《めおと》になるのならこのまま婚姻の日まで会わないこともありうる。
あの日だけで人となりがわかったと言えば嘘だが、直樹が感じた印象に違いはそうないだろうと思う。
少し足を延ばしたところで、珍しい人に会った。

「あら、お久しぶりでございます」

そう言って艶やかに笑って頭を下げたのは、松本屋のお裕だった。
「ああ、ご無沙汰で」
一応挨拶を返す。
泣いて踵を返していったのは、さほど遠い日ではない。それなのに、お裕は気にしないふうで直樹に向き合う。
「大泉屋の方とは滞りなく?」
「…ああ」
「そう。私はあの女、嫌いだわ」
直樹はこうまではっきりというお裕に驚きつつも、面白げにお裕を見た。
「見知っているので?」
「ええ。私はこれでも大店と呼ばれる娘の一人なの。そういう娘たちが行く場所なんて限られていてね、そこそこで顔を合わせることもあるのよ。もちろん、顔をお見かけして挨拶したくらいで、親しく口をきいたわけじゃないけれど」
「それで」
「つまらないわ。なんでも言うことを聞いてしまうような女」
「実際はそうじゃないかもしれない」
「ええ。でも、お琴さんとくっついてくれたほうがよかったわ。私の方がいい女って言えるもの」
直樹はそのお裕の言いぐさとお琴への親しげな口調に思わず笑った。
「初めてね、私と向き合ってお笑いになったのは」
そうだったろうかと思わず自分の顔を撫でた。
そんなつもりはなかったのだが、お裕と対面していた時はいつも医学に向き合って夢中な時であったかもしれないと不意に懐かしく思い出された。
「先日、お琴さんがうちの店にいらっしゃったのよ」
「お香の趣味でもできたのか」
「わかっていらっしゃるくせに。あれほどあなたが苦心した匂い袋を無くしたんですって。同じものはないとわかって残念がっていたわ」
「…試供品だからな」
「試供品、ねぇ」
お琴は着物の裾を翻すようにして勢いよく直樹に背を向けて、艶やかに笑った。
「あなたが、お店の中でも笑えるように祈っているわ」
そんな言葉だけを告げて、自分はさっさと戻っていった。
古本屋の前に残された直樹は、颯爽と歩き去るお裕の後姿も眩しく見えた。


気になる本も見当たらず、収穫なしのまま古本屋から立ち去ろうとすると、どこからともなく西垣が現れた。
「やあ、婚約おめでとう」
「…まだしていない」
「ふうん、もう済ませたのかと。大泉屋のはしゃぎようと言ったら、もうすでに夫婦になった勢いだったがな」
それには思いっきり無視して、直樹は歩き始めた。
「お琴ちゃんは、元気になったよ」
「ああ、よかったな」
「おや、気にしていたんじゃなかったのか」
「…別に」
「先ほど見かけたんだ」
西垣はうれしそうに直樹の横に並ぶ。
「俺には関係ない」
「へえ、そう?佐賀屋の前でなんだけど」
一瞬直樹の足が止まりかけたが、隣の西垣がにやにやと笑いながら直樹の顔を見ていることに気付いて、黙って歩き続けた。
「なんでまた」
それだけ言いつつも少しだけ足が早まった。
いったい何を言いに来たのか。
「隠密ってのは不思議だね」
「こんなところで何を」
念のため、周りで聞いている者がいないか直樹はあたりを見回した。
さすがに西垣も承知しているのか、二人の話を注目するような者はいなかった。ただ皆足早に通り過ぎるだけだった。
「これと信じた人のために動くのか、自分の信念のために動くのか」
「さあ。どちらでも」
「冷たいね。修羅場を潜り抜けた仲だというのに」
「これ以上は御免被りたいですね」
「まあ、また何かあったら、ひと声かけてくれれば…」
「ありませんから」
それだけ言うと、直樹が足早に橋を渡っていくのを西垣が苦笑して見送っていた。

信じた人のために。
あの時の直樹は、誰かを信じたわけではなかった。
強いて言うならば、信じているだろう人のためか。
人さらいが悪だから捕まえるために動いたわけではない。
たまたまその人さらいにお琴が連れ去られたから助けに行ったまでだ。
何かを考えて動いわけではない。
ただ、気が付いたら身体が勝手に動いただけのことだ。


お琴がいつも買っていた団子屋の前を通り過ぎようとしていた。
お琴の姿はなかったが、代わりに見たことのあるお琴の友人二人が立っていた。
「あ、佐賀屋の」
「どうしてここにいるの」
二人は直樹の顔を目ざとく見つけてそう叫んだ。
騒々しいと思いながらも一応目をやった。
どうしてここにと言われても、ここは佐賀屋へ向かう通りなのだから、その友人二人がいることの方が珍しいと言える。
「お琴に会ったんじゃないの」
魚のような顔をした友人が言った。
「…いや、出かけていて、今ここを通ったんだが」
お琴はやはり佐賀屋にあいさつに来たのだ。
偶然なのか、直樹のいない時に。
「やだ、今日に限ってお琴ったら」
「おじん、もういいんだってば、それは」
別に直樹に会いに来たわけではなかろうと言いたかったが、何も言わずに立ち去ろうとした。
全く今日は何て日だ、と思いながら。
「大泉屋のお嬢さんと結婚するんですってね。お琴がそりゃもう落ち込んじゃって」
もう一人の友人が言った。
「知ってる。どうせ金之助の奴が世話焼いてんだろ」
「う、そりゃそうなんだけど」
もううんざりだった。
お琴が落ち込もうが、立ち直ろうが、もう直樹には関係がない。いや、そもそも関係などあったのだろうか。
何故危険を冒してまで、両親にも内密でお琴を助けたのか。
「でも、お琴もこれで吹っ切れるかもね。なんたって、金ちゃんがお琴と夫婦になりたいって真剣に申し込んだらしいし」
金之助が。
多分、そうなるだろうとわかっていた。
そうなるだろうと想像することと、実際になることは、同じではない。
ずっと、同じだと思っていた。
しかし、現実は想像よりもずっと衝撃的だった。
いったい何に衝撃を受けているのかわからないまま、直樹は通りを歩いた。
誰かに声をかけられたが、頭に入ってこなかった。
それぞれ妻を娶り、夫を持ち、お互い別々の人生を歩んでいく。
それはごく当たり前のことだ。
お互い気持ちを通じ合ったわけではないのだから。
いつの間にか店を通り過ぎ、違う方へ歩き続けていることに直樹は気が付いていなかった。

 * * *

「もしもお琴が嫁に行っても、お琴が一所懸命に好いていたこと、忘れないであげてよ」

そう言った琴子の友人たちの声は、すでに直樹には届いていなかった。
友人たちは首を傾げながら、先ほどまで直樹がいた空間を見つめた後、すでに見えなくなっていた背中がそのまま佐賀屋に向かっていると信じていた。
あまりにもせっかちな、ともすれば全く人の話を聞かない、琴子の友人ですら馬鹿にしているかのような行動に少しばかり憤慨しつつ、それでもお琴とすれ違えばいいのにと二人は願っていた。
いや、会わない方がいいのだろうか。
おさととおじんにはお琴の辛い気持ちを知っているだけにどちらが正しいのかはわからなかった。
ただ、お琴のような、素直で馬鹿正直すぎるほどの娘ならば、少しくらい良い思いをしたっていいのではないかと思っていた。
それがせめてもの思い出に、直樹にあと一目会うことであるならば、簡単なことではないかと。
金之助と夫婦になるにしろ、ならないにしろ、お琴が一所懸命に直樹を好いていた思い出を記憶として、少しくらいあの天才的な頭脳の片隅に置いておいても罰は当たらないのではないかと思ったのだ。
「お琴って、何であんな奴好いていたのかしらね」
おさとがつぶやいた。
「…顔と頭?」
おじんがさらりと答えた。
「…なるほど」
二人はそう答えながらも、あれだけ邪険にされながらも好いていたのだから、それだけではないのはわかっていたが、友人の壊れた恋を思えば、そうやって貶すほかなかったのだった。

(2014/05/01)


To be continued.