大江戸恋唄




お琴の父の店、福吉の再建が終わった。
火事によって焼けた以前の建物と少々違って見えるものの、より一層見栄えよく建てられた。
開店にはお琴も手伝った。
琴子の父、重雄はもちろんお世話になった佐賀屋の一家を揃って招待した。
佐賀屋の女将、お紀は開店を祝うものの、一抹の寂しさを感じていた。
福吉の再建がされたということは、お琴も佐賀屋を出て行くということだ。

「ねえ、お琴ちゃん。このまま佐賀屋に行儀見習いとしていらっしゃいな」
「それは…」
お紀の提案に、お琴は驚いて重雄を見た。
お琴にしてみれば、福吉は建て直されたのだから、父の元に返るのが筋というものだろうが、このまま直樹と会えないかと思うと、それはそれで残念に思っていたのだ。
しかし、重雄は「いや、女将さん」と首を振った。
「娘のように可愛がってもらっただけでなく、これほどまで望まれれば親としてもうれしいもんです。ですが、いつまでもご厄介になるわけにはまいりません。そちらの大事な坊ちゃんの縁談にも差し障りますし」
「いいえ、大丈夫ですわ。お琴ちゃんがうちに嫁に来ればいいんです」
お紀の発言に一堂は驚いて声を上げた。
「そ、そんな、嫁だなんて」
「まっぴらごめんだ」
「母さま、兄さまにこんな馬鹿な嫁なんて」
「ほー、そりゃいい考えだ」
ほほほと陽気にお紀は笑う。
かなり以前からの決まりごとのように発言したせいで、特に直樹はお紀に向かって再度言った。
「いくらなんでも強引過ぎるだろ。人の気持ちも考えろよ」
「あら、だっていい考えだと思うの。どうせ嫡男なんだから、お店を切り回すのに下手な女を迎え入れるくらいなら、お琴ちゃんのほうがずっといいわ。ねえ、そうでしょ」
「そうだなぁ。お琴ちゃんなら歓迎だね。重ちゃんと親戚になるのは悪くないね」
「うーん、そりゃ、お琴を知らない変なやつのところに嫁にやるくらいなら…とは思うんだが、店もあるしな」
「そ、そうよ、勝手に決めないで」
お琴の言葉に直樹が眉を上げてからかうように言い出した。
「へえ、そんなこと言っていいの」
「な、何よ」
「突撃するほど情熱的な付文をしてきたのに」
「な…」
「お初に文を差し上げます。私は同じ手習所に通っていた琴と申します。あなたは私を見知ってはいないでしょうが、私は知っています。私は直樹様を以前からお慕い…」
直樹がそこまで言ったとき、ぴしゃりと鋭い音がした。
いつの間に読んだのか、渡し損ねたはずの付文の内容をすらすらと言い出したので、お琴は慌てて直樹の頬を張ったのだ。
「いってぇ。なんて乱暴な女だ」
「読んだわね、いつの間に?」
「俺宛なんだから構わないだろ」
「ここで言うことないじゃない」
「ちょ、ちょっと待ってちょうだい。もしかして、お琴ちゃんて、前から直樹のこと好きだったの…?」
思わずその場が静まる。
「ほら、はっきり言ってやれよ」
直樹の言葉にお琴はうつむきながら「つ、付文を…」と真っ赤になって答えた。
「なんだと、おめぇ、女の身ではしたない」
「では、先ほどの話はまるっきり夢ではないのね」
「で、でも、きっぱり断られて…」

「ちょっと待った〜〜〜〜〜」

座敷の襖が思いっきり開かれ、一人の若者が乱入した。
「さっきから聞いてれば勝手なことばかりぬかしおって。お琴は、わしのもんじゃー」
「金之助、おめぇ、いったいどこから聞いてやがった。店のほうを放っぽりやがって」
「あ、皆さんお初にお目にかかります。金之助ゆうて、この福吉にて料理人修行させてもろうてるもんです。よろしゅう」
「き、金ちゃん」
「お琴とは将来わしが立派な料理人になって婿になって店を継ぐ予定ですんで、そちらの嫁になんてとんでもない」
「金ちゃんこそ勝手に決めないでよ」
「おまえはお琴の文も読まんと断ったやないか。だから、金輪際お琴に変なちょっかいかけんでもらおうか」
金之助が勢い込んでそう言ったが、直樹は淡々と答えた。
「そんなことわからないだろ」
「…へ?」
「はい?」
思わず直樹の言葉に金之助もお琴も間抜けな声を出した。
「明日のことなんて誰にもわからない。今日は嫌いでも明日は好きになってるかもしれないしな」
しばらく沈黙した後、「なんやとぉ〜?!」と金之助の叫び声が上がった。
「やっぱりおまえはお琴に惚れてるんやな」
「さあね」
しれっと直樹は答えた。
「少なくとも、お琴の気があるのは、おまえじゃなくて俺だってことだ」
「な…」
言葉もない金之助に直樹はにやりと笑って立ち上がる。
「おじさん、ご馳走様。一足先に帰るから」
そう言って悠々と座敷を出て行った。
残されたお琴はやはり何も言えなかったが、直樹の口から出た言葉が本当かどうか考える間もなくただただ驚いていた。
「お聞きになりました?あの直樹が!」
お紀は呆然とする一堂の中で一人興奮していた。
まさか、あんな言葉をあの朴念仁で恋愛ごとどころか女にも全く興味を示さなかった直樹が、と大興奮だ。
仕事を放って乱入した金之助は、店主重雄によって持ち場に戻され、まだ荷物も佐賀屋に置いたままにしているお琴も佐賀屋夫妻とともにとりあえず佐賀屋に戻ることになった。
少なくとも、直樹はお琴を嫌っているわけではないらしい、ということがわかっただけでも大収穫かもしれないとお琴は思った。


夕闇の道を直樹は一人歩きながら、お琴の真っ赤になった顔を思い出していた。
途端に思い出された思わぬ平手打ち。
張られた左の頬に手を当てて、「あいつ…」とここにはいぬ者に文句を付けた。

お琴の文を読んだのは偶然だった。
夕餉(ゆうげ)になるというのに一向に台所にも現れないお琴を心配して、お紀が帰ったばかりの直樹にお琴の様子を見てこいと言ってきたのだ。
本来ならここは女中かお紀の役目だろうと直樹は嫌そうな顔をしたのだが、お店はやけに混雑していて誰も手が離せなかった。
仕方なく直樹がお琴の部屋に行き、部屋の外から声をかけたが返事がない。
そろりと襖を開けると、お琴は文机の上に突っ伏して眠っていた。
いい歳した女がまさかそんな格好で居眠りしているとは思わず、倒れているのかと心配して傍に寄って声をかけた。
その文机に広げられていたのが例の付文だったのだ。
その日、出かける前に顔を合わせたお琴にきつい言葉を浴びせたのを思い出していた。
医師の勉強を親に隠れてしているのを心配したらしいお琴の言葉に、おまえに将来の心配までしてもらわなくて結構だ、おまえと添い遂げるわけでもあるまいし、と。
その後、お琴は泣いたのだろうかと、眠っているその顔を覗き込む。
その顔に涙の跡は見られなかったが、広げられた文は湿っていた。
何の気紛れかその文を手に取り、内容に目を通す。
少々ぎこちない手跡だったが、お琴なりに丁寧に書いたのだろう。
ううんとお琴の体が動き、その場にたたずんでいた直樹は我に返ったように文を持ったままお琴の部屋を出ていた。
結局その文は黙って持ってきたので捨てるに捨てられず、直樹の部屋の文箱の一番下に納まっている。

いまだ何故そんな気紛れを起こしたのかわからない。
わからないが、それまで自分に気がある程度の女という認識しかなかったのだが、初めてお琴という女として見たと言えるかもしれなかった。
それから、家の中でお琴が動く様子を注意して見てみると、お琴は非常にいろいろおかしな女だった。
騒々しくて、声は部屋の奥まで通る。
時々店に出ては女将であるお紀と一緒になって客あしらいをする。
そうかと思えば奥向きの奉公人と夕餉の準備をしている。しかし、その腕はひどい。奉公人が苦笑しながらそう言ったが、ひどいから手を出すなとは言っていないらしい。
さすがにひどい料理を目の前にして、お世辞にもうまいとは言えない。本当に料理人の娘かと言ったこともある。
小間物問屋に居候している割には、あれこれと小間物を欲しがるわけでもなく、唯一つ譲られた珊瑚の赤玉の簪(かんざし)を大切にしているらしい。

「よお、佐賀屋の若だんな」

からかうようにかけられた声に顔を上げると、一見遊び人風な男が立っていた。
直樹は眉間にしわを寄せると、そのまま歩き出そうとした。
「おいおい、あっさり無視してくれるなよ」
「…何ですか」
ため息をつきながらその軽口に付き合うために立ち止まると、男はうれしそうに笑った。
「そうそう、年長者には従うもんだ」
そう言う本人は、これで武家の三男坊だというのだから驚きだ。
直樹が通っていた道場に顔を出していたのだが、腕のほうはそこそこ。直樹と比べてどちらが上手いかと聞かれれば、真剣に勝負をしたことがないのでわからないといったところだ。
「最近佐賀屋に若い娘が居候してるって?行儀見習いかなんかかな」
「父の親友の娘ですよ。先日の大火で店と家が焼けて世話してるだけです」
「へー、てっきり嫁候補かと」
「西垣様、お言葉には気をつけられたほうが」
「そんな怖い顔して睨むなよ。町の噂だって」
「いつもくだらない噂ばかり拾ってるからいろいろ困ったことになるんですよ」
「では、今度見に行くかな」
「何か買ってくださるんなら」
「さすが商売人だねぇ」
そう言って西垣家の三男坊は、またふらふらと夕時で込み合う橋の向こうへと行ってしまった。
何とはなしに顔を見ると話しかけてくるが、それほど本当は親しいわけでもない。
自分が狙っていた娘が直樹に取られたと、どうでもいい女の話から、やや危なげな話まで、どうして直樹にというような話を耳に入れる。
西垣いわく、大店と懇意にしていれば、将来役に立つということらしいが、真意はわからない。
どちらにしても武家を粗末にすればお咎めもあるかもしれないので、嫌々ながらも付き合うといった感じだ。もっとも西垣のほうも普通なら激怒するような直樹の態度も意に介していないようだった。だからこそ付き合えるのかもしれない。

やがて店に着いたが、店表からは入らず裏から黙って入る。
奉公人は慣れたもので、直樹が何も言わないのも気にしていない。
顔も頭もいいが少々気難しいところのある嫡男、くらいに思っているのがありありとわかるが、いずれその嫡男が店を継ぐものだと思っているので、割と好きにさせているといった感じだった。
自分の部屋に入って目に付いた医学書を手に取る。
その嫡男がまさか医学の道に進みたいと思っているなど知るわけもない。
お琴はあの脅しのせいかどうかはわからないが、他の者に話した様子はなかった。挙句の果てに医師になれるといい、きっといい医師になるとまで言った。
大店の息子で、縁談にはちょうどよいと見初めたのではなかったのかと直樹は少しだけお琴の見方を変えた。
もちろんお琴も結構な料理屋の一人娘であるので、本来なら料理人を婿にもらうのが筋だろう。あの料理人見習いをしているという男でも相手は全く構わなかったはずだ。
しかも相手はそのつもりでいるのだから、うまいことを言って押し付けてしまえばよかったのに、つい邪魔立てするような言葉が口から出てきた。
しかし、何故かあの時はそのまま黙ってやり過ごすことなど思い浮かばなかったのだから仕方がない。
自分の心境の変化をどう捉えたらいいのかわからなかったが、少なくともお琴があの男と結婚するのは面白くないと思ったのは確かだった。
そもそもお琴がその気ではないところが見て取れただけに。
部屋に行灯が必要になるまで、直樹は熱心に医学書を読みふけることになった。しかし、熱心にめくった割には既に頭に入っている内容だというのに文字の上を目が滑るのを自覚しながら。

(2013/10/08)


To be continued.