大江戸恋唄



21


その日、お琴は意を決して佐賀屋に行くことにした。
いくら体調が悪かったとはいえ、あのまま出たっきりでは、あまりにも恩知らずだ。
そろそろおきよもお暇する時期だろう。会えるかどうかはわからないが、ひとことお礼を言いたいかった。
それに、もしかしたら直樹とお嬢さんが婚約する時期かもしれない。
お祝いくらいはがんばって口にするべきだろう。
そして、店で二人が仲良く店番をするようになる前にけじめをつけておこうと思っていた。
吹っ切れたつもりでも、二人の姿を見たならば、自分がどんな反応を示すか想像できなかったのだ。
いつの間にか寒くなってきた江戸の町を歩きながら、お琴はそう考えていた。
あれほど敷居の高かった佐賀屋への道は、お琴にとって通い慣れた道となっていた。
本当は一人で出歩くなと言われたし、金之助がついていくと言ってなかなか譲らなかった。
体力も戻ってきて、佐賀屋まで歩くのに支障はなかった。
お琴は根気よく金之助を説得し、一人で佐賀屋までやってきた。
お琴が佐賀屋を出たあの時よりも、商いは順調のようだった。
ほっとして店の前に来ると、目ざとい奉公人がお琴の姿を認めて中へと知らせに走った。
お琴が佐賀屋の暖簾の前に立つ頃には、お紀が目を潤ませながら出てきたのだった。

「お琴ちゃん」

そう言うなり、お紀は泣いた。
後ろから主の重樹に促されなければ、しばらくそのままだったろう。
お琴も涙を拭きつつ、慣れていたのに懐かしい感じのする店の奥に促された。
直樹は、と見渡した限りでは見当たらず、その視線の意味を悟ったお紀が「今日は古本屋へ行くとかでちょうど留守ですよ」とお琴に伝えた。
ほっとしたような、残念なような気持ちを抱えながら、お琴は促されて部屋の中に座った。
座るなり姿勢を正して丁寧に頭を下げた。

「このたびは、お世話になっておきながらご挨拶が遅れました」

頭を下げたお琴に驚いて、お紀はお琴の頭を上げさせた。
「何を言うの、お琴ちゃん」
「いえ。熱を出して道端で倒れるなんて、恥ずかしい限りです」
何故倒れる羽目になったのか、お琴には思い当たる節があった。
いろいろ思い悩んで寝不足でもあったのだ。
夫婦《めおと》になる約束をしていたわけでもないし、想い人がふさわしい見合いをしただけで、直樹に非はないのだ。
それを勝手にくよくよしていたのだから、とんだお笑い種だ。
「こちらこそ、勝手にいろいろ押し付けて、ごめんなさいね。でも、本当に私…お琴ちゃんのこと、本当の娘のように思っていたのよ」
「ありがとうございます。でも、今度は本当に娘さんができるのですから」
暗に直樹の婚約話に触れたが、やはりそれ以上は口に出すことができなかった。
当たり障りのない話題を終えてしまうと、お琴にはもう佐賀屋にいる理由がなかった。
「あの、おきよさんは」
「それが…」
「もう、いらっしゃらないんですか」
「娘さんがいらして、とりあえず養生させるから、と」
「そう、ですか」
お琴は落胆したまま佐賀屋を出た。
奉公人は遠巻きにお琴を見ていた。
以前のように親しげに話しかけてくるものはいない。
いや、話そうとしてためらっている。そんな感じだ。
せめておきよだけでもいたらよかったのだろうが、どちらにしても、もうここはお琴の帰る場所ではないのだと思いながら佐賀屋を出た。
お紀は最後までお琴の手を離そうとしなかったが、重樹に諭されてお琴を送り出した。
「福吉には行きますからね。ええ、だれが反対しようとも、行きますとも」
お紀はそれだけをお琴に涙ながらに伝えた。
お琴は曖昧にうなずいて、佐賀屋から遠ざかった。
先ほどまで晴れていた空は、まるでお紀とお琴の別れ際のように湿った気配を感じさせていた。

これも最後だと思いながら、佐賀屋を出たお琴は近場の団子屋に顔を出した。
この団子屋はおいしいので、おさととおじんにも教えた場所だ。
当分買いに来ることはないだろうと、まとめて買うことにした。そうすれば父、重雄とも食べることができるし、場合によっては金之助にお礼に渡そうかと考えていた。
本数が足りないのか、お琴はしばらく待たされることになった。

「お琴ちゃん」

そう言って顔を出したのは、いつかの侍、西垣だった。
「あら、えーと、こんにちは」
名前が思い浮かばなかったが、そもそもきちんと聞いたためしがなかったと思いだした。
「愛の求道者とでも呼んでくれないかな」
「弓道者?」
その響きに違うものを感じた西垣は「道を求める方だよ」と訂正する。
それを聞いて「ああ!」と納得したものの、眉をひそめたお琴はこそっと尋ねた。
「隠れきりしたんですか」
「違う、違う!誤解しないでくれ。求道というのは、そもそも一つのことを突き詰めて求めることで…」
「…相変わらずお暇なんですね」
「うわっ、他の者が言いにくいことをさらっと言ったね」
「あ、し、失礼いたしました」
「まあいいけどね、どうせ旗本退屈男だし」
「旗本…ぷっ、うまいですね、それ」
まさかそれを言ったのが直樹だとは思いもよらないお琴だったが、笑うお琴を見て、西垣は少しだけ安堵したような表情でお琴を見た。
「元気になったようでよかったよ」
「おかげさまで」
「やはり佐賀屋はお琴ちゃんがいないとつまらないね」
「これからはもっと華やかになりますよ、きっと」
「いいのかい、それで」
「いいも何も、直樹さんが選んだのはあたしじゃないですし」
直樹の名前を出すと、さすがにお琴の顔は曇った。
お琴自身も直樹の名前を口にすることは、未だ思い出にもならず辛いものなのだ。
「なんだかなー」
「何ですか?」
西垣はそれ以上口にはせず、労わるようにお琴を見て笑った。

「お琴ー!」

遠くからお琴を呼ぶ声がした。
「おや、お琴ちゃんのいい人かい?」
「え、そんな、違います。もう、金ちゃんたら、恥ずかしい」
二人の姿を認めた金之助は、さらに韋駄天のように駆け付けた。
「お琴、遅くなると皆が心配するで」
「大丈夫よ、まだ早いじゃない」
そう言ってお琴が振り向くと、すでに西垣はいなかった。
「あいつ、誰や」
金之助は西垣がさりげなく去っていった方を睨んで言った。
「えーと、旗本の…暇なお侍さん」
「こんな時間にふらふらしとるのは、ほんまに暇なんやな」
「そうだね」
お琴はそう言って、団子を手に歩き出した。
「それより、金ちゃん、お店の方はいいの?」
「お琴が心配で、大将に迎えに行く言うて出てきた」
お琴は仕方がないなと思いながら金之助とともに歩いた。
川の土手沿いを歩き出したときだった。
「なあ、お琴」
「なあに、金ちゃん」
まだ金之助からの結婚話の返事を保留にしているせいか、改めて真面目な顔で問いかけられると、お琴の心はざわついた。
「この間の返事、そろそろ聞かせてくれへんか」
やはりそうかと思いながら、お琴は言葉を探した。
「あ、あの、うん…でも、その、もう少し、その、か、考えてもいいかな」
言葉を選んでいるうちに、歯切れの悪い返事となった。
金之助の顔は曇り、立ち止まってお琴の顔を見る。
先ほどから湿った空気を運んでいたが、まるで二人の心に呼応したかのように空が暗くなっていた。
ぽつりとお琴は頬に雨粒を感じた。
「…雨、降ってきたね」
お琴の言葉にも金之助は聞こえなかったかのようだった。
「…まだ忘れられへんのか、あの佐賀屋のぼんのこと」
「え」
お琴は目を伏せて慌てて「そ、そうじゃないけど」と答えたが、きっと言葉に説得力はなかっただろう。未だお琴は本当に忘れてなどいなかったからだ。
「ほな、なんやねん」
金之助の強い口調にお琴はびくりと肩を震わせた。
「おれは…おれはなぁ、おまえのことずっと見てたんや。あんな冷たい奴のどこがええねん」
「金ちゃ…」
ぽつりぽつりと雨が徐々に降りを強めていく。
お琴が降り出した雨に戸惑っているいるうちに、金之助がお琴の肩をつかんだ。
土手を歩いていた者たちは小走りで去っていく。
「あんな奴のこと、忘れさせたる」
お琴の肩をつかんだまま引き寄せる。
「おれが、忘れさせたる」
強い力でお琴を引き寄せて抱きしめ、唇を寄せてくる仕草にお琴は金之助の身体を押しやった。
「ちょ…やだ、金ちゃん」
お琴の手が金之助を押しやるも、ますます金之助の力は強まる。そうでなくとも金之助の力は強い。その想いの全てをお琴にぶつけるかのように。
「いやっ、直樹さん…!」
その瞬間、ようやく我に返ったような顔をした金之助とお琴の身体が離れた。
お琴の身体は勢い余って土手に倒れ、金之助は先ほどまでお琴をつかんでいた両手を土手につけて、顔を強張らせていた。
「ほーか、やっぱり佐賀屋のぼんか…」
地面は次々に茶色の染みを広がらせていく。傍らには、散らかった団子の包み。
お琴は自分の口から出た言葉に驚き、そして金之助の顔が見られなかった。
「…ご…、ごめ…。ごめん、金ちゃん」
それだけを絞り出すと、金之助の顔も見ずに立ち上がって走り出した。
頬を流れ出したものが涙なのか雨なのかわからない。
土手を走り出してすぐに福吉とは違う方向に向かっているとわかったが、引き返すことはできなかった。
びしゃびしゃと足元がぬかるんできたが、それでもお琴は足を止めなかった。
どこかの軒下に入った時にはすでに身体も濡れてしまっていたが、それを拭う気にはならなかった。
ようやく息を整えて辺りを見渡せば、町はすっかりと雨模様だった。
しかもその場所に全く見覚えがなかった。
闇雲に走った結果がこれでは、お琴には言い訳すらも思い浮かばなかった。
「…どうしよう」
とりあえず雨が止むまでは、とそのまま雨宿りをすることにした。
しかし、季節はすでに冬に差し掛かっているため、気温はどんどん下がる。
昼にあれほど暖かだったのは、雨の降る前だったからだとようやく思い至った。
しばらく軒の外を眺めていると、同じように軒下に入ってきた者がいた。
ゆったりとした足取りで、すっかり着物も濡れているせいか、急ぐ様子はない。
背の高い人だとお琴が見上げた時、目が合った。

「よお」

その瞬間、身体中の血が凍りついたかと思った。

「な、なんで」

ようやくそれだけを言うと、目一杯後退った。
置いてあった空の酒樽にぶつかり、がたりと音を立てた。
「おまえこそ、何でこんなところにいるんだ」
「あ、あたしは…だって」
「どうせ迷子にでもなったんだろ」
「ひどいっ」
「じゃあ、帰れるんだな」
「…う…その、だって」
口ごもったお琴だったが、それでも顔を上げて言った。

「直樹さんこそ、迷子にでもなったんじゃないの」

不機嫌そうにお琴を見下ろしたのは、今日は店にいなかった直樹だった。
辺りは雨の音だけが響き、通りを通る者もいなかった。
そのあまりにもな偶然に、お琴はぶるりと身体を震わせたのだった。

(2014/05/04)


To be continued.