22
雨はなかなか止みそうになかった。
お琴は直樹と二人で軒下で雨宿りをしながら降り続く雨を眺めていた。
「真っ直ぐ帰ったんじゃなかったのか」
「う…それは、その…」
お琴は金之助に迫られて突き飛ばして逃げてきた、とはさすがに言えなかった。
「あいつはどうした」
「あいつ?」
「見習い料理人」
「あ、ああ、き、金ちゃんね」
これにも少しばかり冷や汗を流しながら何とか答えた。
「求婚されたって?」
「そ、そうよ。あたしだって満更じゃないんだから」
「何て答えたんだよ」
「何て答えようが、直樹さんには関係ないじゃない」
「…そうだな」
そして、またしばらくの沈黙が訪れた。
その沈黙は、苦しいような、それでいてお琴にとってはこの上ない甘やかなひと時でもあった。
雨の音だけが二人を包み、お琴はもういっそこのまま時が止まればいいとさえ思っていた。
この軒下を出たら、雨が止んだら、直樹はまた別の道を行く。
それはお琴と交わることのない道だ。
今はただひと時を同じ軒下で雨宿りしているに過ぎないのだから。
そうは思っても、先ほど溢れた自分の中の本当の気持ちはやはり隠せそうになかった。
だからこそ、自らここで断ち切る必要があった。たとえ心の中では一生直樹の面影を離すことはなくとも。
「あたし、金ちゃんと結婚します」
その未来を先ほど手放そうとしたばかりだというのに、気が付けばそんなふうに口にしていた。
「そうしたらうまくいくのよね。直樹さんは大泉屋のお嬢さんと夫婦《めおと》になって、あたしが金ちゃんと福吉を手伝って…」
「あいつのこと、好きなのか」
ぐっと言葉に詰まりそうになるのを堪えながら、お琴は勢いよく言った。
「そ、そりゃす…好きよ。だって、あたしのこと、幼いときから好きでいてくれたのよ」
「ふん。おまえは好きって言われたら好きになるのか」
「な、何よ、悪い?あたしは、望みのない恋は忘れることにしたの。直樹さんはお嬢さんのことだけ考えていればいいじゃない。あたしのことなんて…」
そこまで叫んだとき、頬に衝撃が走った。
何が起こったのか、自分の頬が熱く火照るのを感じてようやく悟った。
「た、叩いたわね。何であたしが叩かれなくちゃいけないのよっ」
頬はやがてじんじんとしてきて、余計にお琴の頭に血が上るようだった。
やはり直樹とは一緒にいるべきではないのだという思いが押し寄せ、お琴はまだ雨の降る中を走り出そうと足を踏み出した。
「…待て」
腕をつかまれ、お琴は軒下から出たところで逃げ出すことは叶わなかった。
「直樹さんには何も関係ないじゃない」
雨は容赦なくお琴の上に降り注ぐ。
同じようにお琴の腕をつかむために一歩踏み出した直樹をもぬらしていく。
「おまえは俺が好きなんだよ」
お琴は耳を疑った。
何故この期に及んでお琴を追い詰めるのだろうと。
「俺以外好きになれないんだよ」
何て強引で、傲慢で、自信満々なのだろう。
お琴は直樹を見つめるうちに、涙がにじんできた。
この苦しい胸の内を知ってか知らずか、なんて残酷な事実を突きつけるのだろうと。
「そうよ。そうよ、そうよ!」
お琴は泣きながら直樹をにらみつけた。
涙があふれ、直樹の姿がぼやけてきた。
「でも、仕方がないじゃない。直樹さんはあたしのことなんて好きじゃないんだもの」
自分だけがいつも直樹を好きで、追いかけて、傷ついて、それでも諦めきれなくて、とんだ間抜けだと自分でもわかっている。
「あたしのことなんて…」
流す涙のように雨は止まない。
不意に直樹の手がお琴の頬に触れた。
触れたことがわかったが、その後の出来事は、すぐには理解できなかった。
何か、柔らかいものが唇をかすめた。
続けざまに今度は強く、間違いようもない熱を持ってお琴の唇を直樹が塞いだ。
目を見開いたお琴の目には、これ以上もないほど近づいた直樹の顔が見えた。
息も苦しくなるころ、お琴はようやく直樹の顔を見ながら問い返すことができた。
「だって、直樹さんは…」
ゆっくりと抱きしめられ、雨に溶けるように声が響いた。
「俺以外の男、好きなんて言うな」
本当に直樹が言ったのか疑っていたお琴だったが、優しく抱きしめられる感触は現実だ。
しかも口付けまでされたのだ。
「二回目…」
おいそれと口付けなどする直樹ではない。
直樹以外の誰かを好きになるなということであるならば、お琴はずっと直樹を好きでいいということになる。
「三回目だろ」
自分が口にした言葉に答える直樹は、どことなく意地悪気だ。しかも間違いようのない数を訂正までしてくる。
「え、でも」
反論の余地を与えず、今度はお琴の頬に口づけた。そして耳元で声がした。
「もう数えなくてもいいよ」
その優しい口調は、雨の中でもお琴の心にじんわりと温かみを与えた。
まるで夢みたいな出来事に、お琴はしばし酔いしれた。
これが夢ならもう一生眠ったままでもいいとお琴が思い始めた頃、直樹がゆっくりと動いた。
「帰るぞ」
「…どこに?」
思わず聞き返す。
福吉なのか、お琴の家なのか、それとも佐賀屋なのか。
歩き出した直樹に手をつながれ、お琴はどちらに向かっているのかもわからずに歩き出した。
「ね、ねぇ、どこに…」
「ここからだと佐賀屋のほうが近いだろ」
「そ、そうなんだ」
「それもわかっていなかったんだろ」
「だ、だって、金ちゃんに…」
直樹の足が止まり、お琴を見た。
「…あいつに何されたんだ」
その眼の鋭さにお琴は慌てて首を振った。
「な、何も。大丈夫、何もないからっ」
一つため息をついた直樹に促され、お琴は再び歩き出した。
先ほどまで凍えるほどだと思っていた雨は、今は火照りを冷ましてくれる雨になった。
* * *
佐賀屋に着くと、雨のせいか店は閑散としており、少し早目に店仕舞いをする準備をしていた。
「直樹さん…お琴さん…?なんとまあずぶぬれに!」
普段決して大声を上げない慌てない番頭が、驚いて帳場から立ち上がった。
その声に反応して、奉公人は手拭いを持って駆け付け、お紀は転がるようにして奥から出てきた。
手拭いを受け取った直樹が、お琴の顔を拭い、「早く拭け、風邪をひくぞ」と声をかけたのことに誰もが驚いた。
直樹は周りの反応にも気づいていたが、それには構わず出てきたお紀に「父はいるか」と問いかけた。
「え、ええ。奥にいらっしゃいますよ。それよりも、どうしてお琴ちゃんと…」
「わかった。行くぞ、お琴」
「え、はい」
そのまままたお琴を連れ、足を拭く間もないほどに奥へと向かう。当然父である重樹のところだ。
「そんな恰好で。着物を整えてからでもよいのでは…」
お紀の言葉も構わずに、直樹はお琴を連れて重樹の部屋の前に立った。
「何か騒がしいが…」
そう言ってちょうど顔を出そうとした重樹の目の前に立った直樹を見て、重樹は「そんなにぬれて」と顔をしかめた。
「さあ、風邪をひくから早く着替えてしまいなさい」
優しくそう言う重樹に直樹は「話があるんです」と遮った。
後ろに立っていたお琴を引っ張って直樹の横に抱えるようにして立たせると、重樹は目を見張った。
「お琴ちゃん…」
戸惑うお琴を見て、重樹は再び直樹を見た。
その視線を受けて、直樹は言った。
「お琴と夫婦になりたいんです」
一瞬の静寂の後、お琴を含めてお紀と重樹までもが叫んだ。
「えーーーーー!」
番頭に手代、ただならぬ直樹の様子に顔をのぞかせた奉公人、ぬれた板間を拭きに来た女中もその叫びに腰が抜けるほど驚いた。
「ほ、本気で言っているのか、直樹」
やっとのことで声を絞り出した重樹に直樹はうなずいた。
「本気です。やっとわかったんです。もちろん今すぐにというわけじゃないし、店も軌道に乗せなければならない。大泉屋にも納得してもらわないといけないし」
お琴ですら驚いたままものも言わなかった。
加えて店中誰もが口を開けたまま直樹を見ていた。
「でも、これからずっと一緒にいるのは、こいつ以外考えられなくなったんだ」
そこまで言ってから、ようやく直樹はお琴の顔を見た。
重樹は直樹の言ったことを懸命に理解しようと、目を閉じて沈黙した。
やがて顔を上げると静かに言った。
「そんな勝手なことが許されるとでも?」
「許されないのなら、家を出るまでです」
「お琴ちゃんの父…重さんにはどう説明するつもりだ」
「俺の気持ちをそのまま」
重樹はじっと直樹を見つめてからため息をついた。
「…思ったより早かったな」
直樹は少しだけ驚いて重樹を見返した。
「いつそう言い出すかと思っていたよ」
「まあ、そうだったの!人が悪い!」
お紀がそう叫ぶ。
「いや、そのまま大泉屋のお嬢さんと添い遂げる人生もありだと思ったんだ。世の中すべてが思い通りに行くわけじゃない。たとえ天にニ物を与えられた者だってな」
そう言うと、重樹は直樹の肩を叩いた。
「あの、でも、大泉屋さんのお嬢さんとは…」
お琴が口ごもりながら言うと、重樹は首を振った。
「直樹が決めたんだ、これは佐賀屋の問題であって、お琴ちゃんが気にすることではないよ」
「そうよ、お琴ちゃん。どんなことがあってもきっと何とかなるわ」
直樹も両親の言葉を受けてお琴に言った。
「俺がお前を選んだんだ。悪いようにはしない」
「それでも、佐賀屋は…」
振り返ると、まだ番頭も手代も奉公人たちも一様に不安な顔をのぞかせている。
「…私は、旦那様についていきますよ」
番頭は胸を張った。
「もちろん私も」
手代も口を添えた。
「私たちだって、本当はお琴さんが来てほしいと思っていたんです。きっと、おきよさんだって…」
そう言って女中が泣いた。
奉公人たちの言葉を聞いて重樹は満足そうにうなずいた。
「どうだね、お琴ちゃん。こんな情けない主と少々口うるさい女将と愛想のない男のところに来てもらえるかね」
お琴は改めて直樹を見た。
「本当に、本当にあたしでいいの?」
「そう言ってるだろ」
「あたし、何にもできないのに」
「知ってる」
「お店の助けにもならない、ただの料理人の娘なのに」
「知ってる。でも、それはおじさんにも失礼だろ。おじさんは、立派な料理人だ」
「…うん、ありがとう」
お琴は直樹の袖をつかんだ。
「それに…それに、あたし、本当に馬鹿で」
「それも知ってる」
「直樹さんがいいの…」
「…知ってる、十分にね」
「あたしは直樹さんがあたしのことを好きだったなんて知らなかった」
「おまえには降参したよ。いずれ、夫婦になろう」
「…はい。はい、直樹さん」
強張った顔をしていたお琴が、ようやくほころぶように笑った。同時にやはり泣いている。
こいつはよく泣くなと思いながら直樹がはっとして周りを見渡すと、不安そうな顔をしていた奉公人たちは、それぞれさも忙しそうに目をそらせて立ち去るところだった。
さすがの直樹も片手で目を覆って天井を仰いだが、これもまた運命だと諦めて両親を見やると、お紀はお琴を抱きしめながら泣いていた。
「よかった、よかったわね、お琴ちゃん。私、うれしくて…」
「さあ、着替えてきなさい。お琴ちゃんはお紀に任せて」
そう言うと、「いや、良かった、良かった」とつぶやきながら重樹は部屋に戻っていった。
直樹は、お紀と抱き合って喜ぶお琴に「後で」と声をかけて自分の部屋に戻っていった。
途中、心配そうにのぞいていた裕樹に気付き、直樹は裕樹の頭を撫でた。
「心配かけたな」
「…いいえ、兄さま。でも、本当によろしいんですか、あのお琴で」
直樹は笑って答えた。
「いいんだよ。お琴が、いいんだ。おまえだってだろ」
「わた、私はそんな」
「また、しばらく大変になるぞ」
「構いません。兄さまが幸せになるなら。あ、もちろんあのお琴とでは本当に大変でしょうが」
「ありがとう、裕樹」
そう言ってから、初めて直樹はほっとしていることに気が付いた。
部屋に戻ると大きく息をつき、着替えるのも忘れて座り込んだ。
お琴を選んだことを後悔はしない。
それでも、自分の気持ちが信じられなかった。
あれほど嫌おうとしていた、押し込めようとしていた気持ちが、今では隠しようもないほどにあふれていた。
何故これでお琴を手放そうと思えたのだろう。
お琴の笑顔が嬉しかった。
それを愛おしいと言うのならば、確かに直樹はお琴を好いている。
それも、間違いようもないほどに。
(2014/05/06)
To be continued.