大江戸恋唄



23


これは雨のせいなんかじゃない。
ましてや、まだ風邪などひいてもいない。
冷たい雨の下から一転、暖かい家屋に引き入れられ、なんだかわからないうちに直樹と夫婦《めおと》になることを約束した。
お琴は思い返すたびに頭がぼうっとして、どこかへ飛んでいきそうだった。
もちろんそう思うだけで、実際はしっかりと地に足は着いていたし、耳も目も手もちゃんとお琴の思う通りに動いていて、言われるがままぬれた着物を着替えることもできた。
お紀の指示で今夜はお琴を佐賀屋で預かることを福吉の重雄に知らせにやり、久々にお琴は佐賀屋で過ごすことになった。
お琴の部屋は出ていったときそのままで、文箱もそのまま片隅に置いてあった。
その文箱には、文や直樹の幼い頃の絵姿もおさめられていたのだ。
自宅に帰って療養していた時期も、本当は絵姿を持ってきたかったのだが、それをするには勇気がなかった。これだけのために佐賀屋に取りに戻るなどという恩知らずなことはできなかったのだ。
着替えてもなおふわふわとした夢心地のような気がして、お琴はぼんやりと部屋に座っていた。
このまま布団を敷いて寝てしまおうかと思うくらい疲れていた。
しかし、先ほど直樹が「後で」と言った言葉を思い出し、かろうじて起きて待っていた。
いったいこれ以上今日は何を言ったらよいのか、お琴にはわからなかった。
とても面と向かって話すことなどできない気がした。

「だって、直樹さんが…」

思わず独り言を言いながらも再び思い出してしまったお琴は、「きゃー、もうだめ」と手を頭の上でぶんぶん振り回しながら思考を中断した。

「おい」

しばらくそうしていたせいか、襖の向こうから呼びかけられた時には気が付かなかった。
遠慮もなく襖を開けられ、お琴は顔を真っ赤にしたまま振り返った。

「直樹さん」
「…何やってんだ」

おそらく頭をぶんぶんと振り回していたことを見ていたのだろう。直樹が少し心配げな顔をしてお琴に近づくと、お琴の顔を覗き込んだ。
「あの、ちょっと」
思わず顔の近さに驚いて思いっきり顔を背けた。
それに不満だったのか、直樹は眉間にしわを寄せてお琴の顔をつかんだ。
顔の赤いのを見ると、「風邪を引いたか」とますます心配げにお琴の顔を見つめた。
内心お琴はそれ以上近づかないでと思いつつ、直樹の身体を両手でもって押し留めた。
「…何のつもりだ、これは」
「えーと、その、だって、いきなり、そんな」
「いきなりおまえを襲うかもって?」
「ち、ちがう、そうじゃなくて、だって…近すぎる…」
恥ずかしげにそう言っても、直樹は顔をつかんでいた手を離すことなく、今度はややからかい気味に笑って言った。
「へー、散々今まで自分の方から寄ってきたくせに?」
「そ、そんなことしていません」
「ふーん、まあいいけど」
そう言って笑うと、さらに顔を近づけてくる。
近い、近い、近い…とお琴が胸の内でつぶやいていると、「うおっほん、おっほん」とわざとらしげに廊下の方で声がする。
二人でそちらに目をやれば、主である重樹がやってきたようだった。しかも襖は開けっ放しなので丸見えだったのだ。
「その…気持ちはわかるが、重さんの手前、いくらなんでも…」
「…しませんよ、今日は」
「今日はって?」
お琴はこれ以上にないほど真っ赤になりながらも首を傾げた。ようやく直樹がつかんでいた手を外してくれたからだ。
「ところで、用事は」
直樹が促すと、重樹は思い出したように言った。
「ああ、そうだった。明日は早速大泉屋に…」
「わかっています」
「お琴ちゃんはきちんと家に戻って重さんとよく話し合いなさい」
「はい、おじさま」
「うんうん、その、邪魔したね」
それだけ言うと、重樹はそそくさとお琴の部屋から去っていった。
奥まった部屋だからと直樹が襖を開けっ放しにしていたのは、幸いだったのか、失敗だったのか、それとも計画だったのか。
廊下の向こうから「もう、何で邪魔をするんですか、貴方さまは」とお紀の甲高い声が聞こえてきた。
お琴は少し力が抜けてくすくす笑うと、直樹はそれを見て至極真面目に「今日は見逃してやるよ」と言った。
何かよからぬことをたくらんでいそうで、さすがに今まで意地悪された数々のことがよみがえり、お琴は身構えながら恐る恐る言った。
「み、見逃してやるって、いったいどんな意地悪するつもりですか」
「さあてね」
詳しいことは何も言わず、大きく伸びをすると、直樹は「全ては明日からだ。そうすんなりと事が進むとはおまえも思っていないよな」と念を押すようにお琴を見た。
お琴はこれは大事なことだとうなずくと、「あたしのことはどうとでも。もともと実るとは思っていなかった想いですから、もう何があっても大丈夫」と答えた。
お琴の言葉を聞いた直樹は、「おまえには降参したよ」とお琴がついぞ見たことのないような優しげな微笑みを浮かべた。
その微笑みにお琴がぼうっとしている間に直樹はさっさと部屋を出ていった。
結局直樹が何をしに来たのか、これからのこと、明日のことについて話したかったのではなかったのかとお琴は考えたが、さすがに眠いのを我慢していたせいもあって、それ以上考えることなく眠ってしまったのだった。

 * * *

翌日は、昨日降り続いた雨の面影が昼前には微塵もなくなるほどの晴れだった。
直樹はいつもの通りに起きだして朝餉を食していたが、お琴は一向に起きてくる気配を見せなかった。
お紀などは疲れているのでしょうと奉公人にも起こさないように伝え、お琴が自分で起きだしてくるのを待つことにしたようだった。
直樹は早々にお琴の起床を諦め、父である重樹と大泉屋への断りについて話し合い、内々に話がしたいと申し入れておいた。
返事は大泉屋からではなく、大泉屋の御隠居からあった。
これにはさすがに重樹ともども佐賀屋の身代が揺らぐかと気を引き締めることになった。
もしもそうなれば、佐賀屋はまた一から出直しだ。
その覚悟がなければお琴を嫁にすることなどできはしない。
腹をくくったのか、重樹ももうとやかく言わなかった。
お紀はまるで二人が戦場に行くかのような気合で送り出した。
重樹は佐賀屋の番頭と手代に「苦労をかける」と声をかけて籠に乗り込んだ。
大泉屋に着くまでの間に、直樹はこれからのことを考えていた。
お琴と夫婦になってなお佐賀屋を継いでいくのか。
お琴も商売人の娘だ。佐賀屋に嫁ごうと不都合はない。大泉屋の沙穂には気乗りしなかったお紀もこれ幸いとばかりにお琴には仕込むことだろう。
同じように重樹も籠の中で考えているに違いない。
許しを得ることができるのかどうか。
まずはそこからだろう。

大泉屋の離れに案内され、畏まって重樹とともに座っていると、そこにゆったりと大泉屋の隠居が現れた。
二人して頭を下げると「まあ、まずは顔を上げてください」と声がした。
大泉屋の御隠居は、あの日通りで見たとおりだったが、それに加えて大店の御隠居という風格も増していた。
これが千代田の城にまで力の及ぶ大店の商人というものなのだと直樹は感じた。
続けて大泉屋の現在の主である沙穂の父も現れるかと思ったが、他には誰も訪れなかった。
表通りの店とはさほど離れていないにもかかわらず、この離れは静かだった。
何かを思って人払いをしているのかもしれない。
「お話というのは」
「…大変申し訳ないことなのですが」
重樹が口を開くとと、御隠居はしたり顔でうなずいた。
「沙穂との縁談の話ですな」
「その通りです。結納を交わすという約定をどうしても果たせなくなりました」
「沙穂にはそれとなく話をしてみたが、何か思い当たることがあるのか、浮かない顔をしておった」
「それは」
直樹が気になって口を挟もうとしたのを御隠居が制した。
「どこを見ても、何を見ても心ここに非ずといったふうだったそうな。もちろん沙穂には随分と優しく接してくださったようだし、沙穂はそれでも構わないと言っておったのだがね」
「…申し訳ないことです」
またもや二人して頭を下げた。
「沙穂のどこが気に入らなかったというのだね」
「ありません。沙穂さんほど完璧な人はいないでしょう」
「それでも」
「…それでも、沙穂さん以上に好いてしまった女がいると気付いてしまったのです」
「あのお嬢さんじゃな」
「ええ。欠点だらけでああいう女ですが、一度気付いてしまったら止められなかったのです」
御隠居はふと目をそらせてため息をついた。
「わかっていたよ。あのお嬢さんを見た時からこうなるだろうという予感はあったのだ。わかっていて手助けをしたのだ。それでもな、直樹くん、わしは君を孫の婿に欲しかったんだよ」
御隠居の言葉を聞いて、重樹は頭を下げながら冷や汗をかいていた。
二人の間には何かあったのだとわかったが、こうなるより前に御隠居は直樹の胸の内を知っていたのだと言うのだから。
直樹はそんな重樹の驚きを解さず、淡々と言った。
「こうなってしまっては大泉屋から疎まれても仕方がないことですが、どうか奉公人の食い扶持だけはお願いしたいと伺ったのです」
「こ、これ、直樹」
「ふむ。大泉屋の援助は断ると」
「私がのめる条件であれば、喜んで援助はいただきます。選んでばかりはいられないのです。それでも、お琴を悲しませるようなことになるなら、自分の才覚だけでやっていきます」
「……わしは、孫はかわいいが、それとは別に其方の才覚にほれこんどるのだ。できる限りで援助はしようと思っておる」
「ありがとうございます」
直樹がそう答えると、それまで黙って頭を下げていた重樹が声を発した。

「お待ちください」

直樹も御隠居も、重樹の声の硬さに振り向いた。
「お待ちください、源兵衛《げんべい》さま」
「佐賀屋殿、どうされた」
「このままでは、佐賀屋の面目もたちません。吹けば飛ぶような我が商いではございますが、それなりに矜持というものがございます。元は私の商売仲間の失態からの出来事。その尻拭いを全て大泉屋さんに被せることなどできません。
この直樹が沙穂さんと添い遂げたうえでならまだしも、手前勝手に見合いを断るような息子のために出資していただくわけにはまいりません」
「それでは、どうすると」
重樹は直樹を見た。
「この息子は、この限りで勘当いたします」
「…なんと」
御隠居は驚いて重樹と直樹を見比べた。
もちろん直樹も驚いたが、それをおいそれと顔に出す直樹ではない。そして、その勘当の意味するところを読み取った。
「それでは跡取りは…」
「店は次男に継がせます」
「それで、よいのですか」
直樹は御隠居の視線を感じてうなずいた。
「それが当然の報いでありましょう。つきましては、私はしばらくこの江戸からも身を引いて、沙穂さんのお目にかからないところに向かいます」
御隠居はそこでようやくその勘当の裏に気付いたようだった。
「…そこまで」
御隠居は息を吐いた。
「そこまでして、其方は…」
本当は、そこまでして孫である沙穂と夫婦になりたくないのかと言われるかと思ったが、出てきた言葉は意外だった。
「医師になりたいと」
直樹はさすがに眉を上げて御隠居を見た。
しかし、それには答えず、ただ頭を下げた。
そうすることで全てに許しを得るかのように。

(2014/05/25)


To be continued.