24
直樹は江戸を離れると口にした途端、ちらりとお琴の顔が浮かんだ。
まさか長崎くんだりまでお琴を連れていけるわけではない。
江戸を離れることは、すなわちお琴とも離れることである。
帰ったらそれを告げることになるだろう。
直樹は今まで感じたことのない感情を覚えた。
しかし、今はその感情を抑え、御隠居に申し出た。
「父はこう申しておりますが、もしも私がいなくなった後でも佐賀屋が立ち行くように恥を忍んでお願い申し上げます。たとえ佐賀屋がつぶれても、奉公人だけは何とかしてやりたいのです」
「わかっておる」
直樹の言葉に御隠居がうなずくと、そこに控えめに声がかかった。
「…直樹さん」
御隠居が少しだけ顔を困ったように直樹に向けた。
沙穂の声だとわかったが、すぐに返事をするのは躊躇われた。
まさか顔を出すとは思わなかったからだ。
「…少し、失礼いたします」
御隠居に向かってそう告げると、沙穂が待っているらしい襖の向こうへと部屋を出ていった。
襖を開けると、その陰に沙穂が座っていた。
「申し訳ありません。父母には止められましたが、どうしても直樹さんとお話がしたくて。
御迷惑でしょうが、少しだけお付き合い願えますか」
そう言って頭を下げた。
直樹の方が見合いを断りに来たので、詰られても仕方がない。
そう思いつつも沙穂が向ける視線はそれとは違う感じがして戸惑いながら沙穂の後をついて歩いた。
別室に招き入れられると、中庭に向かって障子戸が開けられていて、昨日の雨が嘘のように晴れ上がった空が見えた。
改めて座り直すと、直樹は真っ直ぐに沙穂に向かい合った。
沙穂も姿勢を正して静かに頭を下げた。
お互い、何から話したらいいのか、どちらから口を開くべきか、思案しているうちに庭で鳥の鳴き声がした。
「何でしょう、あれは」
沙穂の言葉に直樹はちらりと庭に目をやると、木の上を茶色の小さめの鳥が止まっている。
雀でもなく、その少し甲高い鳴き声は、少しだけ耳につく。
「百舌鳥でしょう」
直樹がそう答えると、沙穂は眩しそうに庭を見た。
「いろいろな鳥の鳴き声の物真似をするそうですね」
「ええ、そう聞いています」
少しだけためらいを見せた後、沙穂は言った。
「…直樹さんは」
「はい」
「お父様のお仕事は、好きではなかったのですか」
沙穂の言葉に直樹は目を伏せて答えた。
「好きか嫌いかと聞かれれば、嫌いではないです。でも、やりたい仕事ではなかった」
沙穂はその答えに自分のことを言われているのではないかと錯覚した。事実、沙穂に対する直樹の気持ちを聞けば、嫌いではないと答えただろう。
しかし、沙穂よりも好いているという女人がいるのだと聞いている。
その女人と気持ちが通じることがなければ、沙穂と結婚していたのかもしれない。
それでも沙穂は幸せになれただろうか。…なれたかもしれない。
なれたかもしれないが、どこか寂しさを抱えたままだったろうと思う。
今も目の前に座っている直樹は、男にしては見目麗しく、付近でも評判の若者だった。
沙穂とてきれいだと褒められることは多かったが、直樹の前ではとても敵わないと思っていた。それくらいの美丈夫だった。
芝居を一緒に見に行く前に、佐賀屋の近くで見かけたことはあった。
真っ直ぐに前を見つめて歩く姿は、颯爽としていて、噂通りのその姿に憧れるには十分だった。
しかし、その眼は誰にも向けられていなかった。
ましてやただすれ違っただけの自分にすら目を向けてもらえなかった。
そんな憧れの存在だったのだが、思いがけず見合いの話が持ち込まれた。
祖父が見初めた若者だという。
やはり祖父のような人にまで認められるほどの人なのだと沙穂は胸をときめかせた。
次に見かけた時は、隣にかわいらしい女人を連れていた。
表情はよく見えなかったが、まっすぐ歩いていただけの人が、その女人の歩く先を見ていた。
聞こえた口調は随分と乱暴だった。
それなりに親しいのは感じたが、いつかそんなふうに自分が隣を歩けるのかもしれないと思うと楽しみだった。
いざ芝居見物に行けば、親切で優しい口調は、それこそ大事に扱われて、沙穂はうれしさと少しの物足りなさを感じた。
贅沢なことだと思う。
丁寧に扱われて文句を言っては罰が当たる。
それなのに、何か一線を引かれたような気がした。
父母から話を聞いて、ああそうかと納得した。
隣を歩けても、同じ先を見ることはできないのだと。
目を合わせて話をしても、同じものを見ることはできないのだと。
こうして同じ景色を物を見ても、伝える言葉が違っているのだと。
今となっては、断ってよかったのかもしれないと思う。
父母が怒りに任せて祖父にすぐに断ってくれと伝えた。
それも正確には断られたのだろうが、嫁入り前の娘の評判を気にしてのことだろう。
世間的には大泉屋が断ったことになるだろう。
少なからず傷心の面持ちの沙穂にとって、直樹と向き合うのは少々辛い。
それでも、聞いてみたかったのだ。
好いている女人のことを。
「…勘当とか」
「そのようです。至らない息子ですから」
「江戸を離れるのですか」
「その方が沙穂さんにとってもよいかと」
「では、気持ちを通じたという娘さんとは」
「…離れることになるでしょう」
少しため息をついたような気がした。
そこまで思ってもらえる女人が本当にうらやましかった。
「かわいらしい方とか」
「沙穂さんのようなできた娘ではありません」
「でも」
「ええ、それでも…」
「祖父から聞きました。明るくて、優しい娘さんだとか」
それには笑って答えなかった。
しかし、沙穂にはそれで十分だった。
答えないその顔が、今まで見たこともない表情だったからだ。
「…恨み言を言うなら一言だけ」
「はい」
「早く出会いたかったです。せめて、もう少し張り合えるくらい」
そう口にしながらも、沙穂にはわかっていた。
どれだけ早く出会おうとも、直樹の心をつかんだ女人ほどには関心を持ってもらえなかっただろうと。
遠く、鳴き声が去っていく。
「ああ、百舌鳥が…」
――秋の野の 尾花(をばな)が末(うれ)に 鳴くもずの 声聞きけむか 片聞け我妹(わぎも)
そんな万葉の歌を思い出した。
口に出していたのか、直樹がはっとして沙穂を見た。
《秋の野の、尾花(すすき)の先で鳴いているもずの声を聞きましたか。耳を澄ませてよく聞いてください、愛しいあなた。》
その気持ちは、直樹に受け入れられることはない。
沙穂は涙を隠すように頭を下げ、足早に離れから立ち去っていった。
一人残された直樹は、その楚々とした後姿を見送った。
人によっては惜しいことをと言うのかもしれない。
早く出会っていたら沙穂を選んだろうか。
多分、出会ったのがお琴でなければ女人をそういう目で見ることもなかっただろうと今は思う。
先ほどの万葉歌には、離れて暮らす寂しさを百舌鳥に託してもいるのだ。
大泉屋の手前、行くとなったらぐずぐずはしていられない。
勘当という名で手放してくれる両親の恥にならぬようすぐに出発することになるだろう。
長崎は遠い。
そして、すぐに戻ってくることはかなわず、修得するまで帰ることもかなわない。
それをお琴はわかっているだろうか。
…わかってくれるだろうか。
大泉屋からの帰り道で、団子屋が目に入った。
お琴の好きな団子だと思うと気になって土産に買って帰ることにした。
お琴の友人に金之助とのことを聞いたのは、つい昨日のことなのに、変われば変わるものだ。
松本屋の裕子にも、西垣にも、お琴のことはどうするのだと背中を押されたのだ。
これで長崎に行き、お琴を一人にすれば、またいろいろと噂されるのだろう。
そうやって噂されることも、前ほど嫌ではない。
そう思える自分に驚きだ。
直樹は人知れず微笑んだ。
先に籠で帰った重樹が見ていたならば、無理に大泉屋との縁談をまとめなくてよかったと心の底から思ったであろう。
* * *
お琴は遅めに起きだしてから、ずっとぼんやりとしていた。
昨夜の雨で風邪を引いたのかとお紀と女中に心配されたほどに。
ただ、現実味がなかったのだ。
直樹はお琴のことを好いていると言った。
…いや、言ってなかったか。
少なくとも夫婦《めおと》になりたいとは言ってくれたはずだ。
夫婦になりたいということは、お琴のことを好いていると解釈してもいいだろう。
それとも、愛はなくとも夫婦にはなれるというやつだろうか。
お琴は目が覚めてからそんなことをずっと考えていたのだった。
ぼんやりとしたまま布団を片付け、遅めの朝餉をいただき、佐賀屋全体が妙に活気づいている中でお琴だけがただぼんやりとしていたのだ。
「えーと、あれは現実、よね」
お琴は自分の頬をつねってみた。
その頬は、昨夜直樹が両手で包んで口付けまでしてくれた場所だ。
「う、うわ〜〜〜〜〜」
自分で自分の頬をつねるのをやめ、頬をぴしゃぴしゃと叩いてみた。
「どうしよう、あまり痛くない。夢だったのかも」
「…何やってんだ」
夢中で頬を叩いていたお琴は、その声に腰を抜かすほど驚いて振り向いてよろけた。
あわや壁に激突する寸前で抱きとめられた。
「あっぶねぇ」
ほっとしたように言ってお琴を抱きかかえているのは、大泉屋から帰ったばかりの直樹だった。
「いっそ頭をぶつけた方が痛くて夢じゃないとわかったか、もしかしたら万が一頭が良くなったかもな」
そう言われて、助けられたことに感謝しつつも思わず「ありがとうございました!」と拗ねた口調で返した。「頭ぶつけたら余計に馬鹿になるかもしれないじゃない」とつぶやくのも忘れずに。
「自分を馬鹿だと認めてるのか」と直樹が笑いながら答えた。
そんな直樹からいい匂いがして、思わずお琴は鼻を動かす。
直樹の片手には団子を持っている。
直樹はお琴を引き起こし、団子を見せた。
「食べるか」
「はい」
お琴はうなずいてから、引き起こされた自分の着物の裾を直した。改めて直樹を見て言った。
「えっと、お帰りなさい」
直樹はその言葉にうれしそうに笑った。
帰ってきたばかりの直樹は、先ほどから笑顔ばかりだ。いつもの仏頂面が引っ込んでいる。
「…機嫌いいのね」
団子を受け取り、台所へ歩きながらお琴は首を傾げた。
佐賀家にお世話になってから、これほど機嫌のいい直樹に会うことははっきり言って初めてかもしれないとお琴は思う。
台所で団子を分け、お茶を入れて、直樹のいる部屋に戻っていく間に女中が噂していた。
「若だんながあんなに機嫌いいのなんて初めて見た」
そう、そうよねとお琴はお茶と団子を持っていなかったら話に加わりたい気分だった。
大泉屋に行っているとお紀に聞いた。見合いの破談について話し合うために。
それなのに、あれほど機嫌がいいのは、やはりお嬢さんと何かあったのではないかとお琴は思った。
もしかして、やはりお嬢さんとは夫婦になって、お琴は囲い者にするとか…などと考えたお琴は、直樹の部屋に着く頃にはすっかり泣く寸前になっていた。
「やはり私は囲い者でも直樹さんが好きです」
襖の前でしゃくりあげるような気配を感じた直樹が襖を開けると、そこにはお茶と団子を持ったお琴がいてそう言ったのだった。
さすがに呆れたらしい直樹が「何言ってんだ」と眉をしかめた。
ようやく落ち着いたお琴が団子をほおばり、お茶をすすって、涙も引っ込んだ頃、その様子を呆れて見ていた直樹が口を開いた。
「誰が誰を囲い者にするって言った?確か、夫婦にと俺は言ったよな」
お琴は顔を赤くしてうなずいた。
「だって直樹さんの機嫌が佐賀屋始まって以来の良さだって皆が言うから」
「ああ、そうかよ」
少々やさぐれた感じで直樹が答えた。
「機嫌が良かったらいけないのかよ」
「だ、だって、いつもの直樹さんだったら、こう眉間にしわ寄せて、あたしに罵倒して、こ、こんなふうに団子を買ってきてくれるだなんて…」
「…なかったかもな」
それがどうしたと言った感じで直樹がお琴を見た。
「だ、だから、その、大泉屋との商談がうまくいって、お嬢さんは正妻に、あたしは囲い者にするのかと」
「どういう発想だよ」
直樹がため息をついてお琴に言った。
「もう一度言っておく。他の誰が何か言っても、俺の言葉だけ信じろよ」
「は、はい」
お琴はため息をついた直樹を見た。
目が合うと直樹が笑う。
自分を見て笑ってくれるだけでこれほどうれしいとは思わなかった。
同じようにつられて笑うと、直樹がお琴の口元を拭った。
「団子の餡、ついてるぞ」
そう言われて赤くなりながらも慌てて口元を再度拭った。
「あの、直樹さん」
気になっていたことを口に出そうとしたその瞬間、がしゃんと割れ物の音がした。
「どうしてそう勝手にお決めになるのです!」
お紀の声だった。
直樹と目が合ったが、今度はあからさまにそらされた。
胸騒ぎがした。
気になって、お琴は腰を上げることにしたのだった。
(2014/06/01)
To be continued.