大江戸恋唄



25


音のした方向に駆けつけると、お紀と主である重樹だった。その間にはお紀が手に持っていたらしい陶器の花瓶が粉々に割れている。
重樹は少し苦い顔をして、駆け付けた奉公人とお琴に目を向けた。
お紀は涙を流しながら怒っている。
ただの夫婦喧嘩かと思われたが、重樹の言葉から出た言葉にお琴は愕然とした。

「皆もこの際だから聞いてくれ」

佐賀屋の中が静まり返る。
帰ってきたばかりであったらしい裕樹も驚いたように立ち尽くしていた。

「直樹は勘当して、跡取りはこの裕樹にする」

その瞬間、お琴は直樹がお琴に団子を買ってきて、何か話そうとしていたことに気が付いた。
これだったのだと。

「大泉屋の手前、このままではこの佐賀屋も立ち行かない。
皆がこの佐賀屋についてきてくれると言うならば、これが佐賀屋を存続させるための策であることはわかってくれるな」

重樹の言葉に突然の宣言に戸惑っていた奉公人たちもうなずいた。
お紀はこの案をすでに重樹と直樹の間で決定してしまったことに怒っていたのだ。
お紀にもお琴にも相談もせずにいたことに。

「さあ、事情が分かったら、仕事に戻ってくれ」

重樹がそう言うと、奉公人たちはあとは夫婦と親子の話し合いとばかりに仕事に戻っていった。
散らばった陶器の破片をお琴は黙って拾い上げた。
後から来た直樹が止めるようにそっとその手を抑えるまで。

「あなたが大泉屋との縁談をお決めになった際も、私は反対しましたが、佐賀屋のためと言われて諦めました。
今度も相談もなしに何故お決めになったのです」
「…それでは、どうやって切り抜ければよかったと」
「佐賀屋は、それほどに大泉屋と事を起こしては立ち行かぬのですか」
「もちろんそうともばかりではないだろうよ」
「それならば、何故その場で勘当などとおっしゃったのです」
「…直樹のためなのだよ」

お琴はびくりとしてうつむいていた顔を上げた。

「直樹には、気にせずに医者の勉強を続けてくれと言っても無理だろう。
いくらなんでも跡取り息子が店も医者も続けられるはずがない」
「勘当して、どうするのです」

お紀の言葉に直樹が答えた。
お琴の顔を見て話しだす。
「俺は、長崎へ行こうと思う」
「な、がさき、へ…」
直樹の言葉につい先日まで覚悟していたことが現実になったのだとようやく気付いた。
医師の勉強をするならば、やはり一度は長崎へ行くべきだと言っていた。
「そうだ。こんなふうに告げることになってしまったが、きちんと話すつもりだった」
「…兄さま」
隣で突然の話に茫然とした様子の裕樹も泣きそうだった。
「裕樹、すまない。この店はお前に任せる。俺は、医者になりたいんだ」
裕樹はこぼれそうになる涙を隠すようにして「その話はまた後でお聞きします」と部屋に走って行ってしまった。
お琴は陶器を床に置くように抑えられ、立ち上がるように促された。
「そんな大事なこと、何故私たちに一言の相談もなく…!」
お紀の言葉に重樹はその肩を抱いた。
「お紀、そばにいることだけが愛情ではないよ」
「そんなことを申しているのではありません。反対するといつ言いましたか。せめて、他の方に話す前に話をしてほしかったと言っているのです」
「…すまない、お紀」
お紀の言葉にお琴は諦めにも似た気持ちを抱いていた。
知っていた。
長崎へ行きたいと願っていたことは知っていたのだ。
それこそ、直樹の両親よりも先に。
そして、お琴を選んだからには、いずれそうするだろうということも。
店を継ぐだけなら、長崎になど行っている暇はない。
大泉屋にも、あのお嬢さんにも、それは余計なことだからだ。
だから、ただ佐賀屋を継ぐだけなら直樹でなくともよいと言える。
それは前から思っていた。
幸い佐賀屋には次男の裕樹がいるのだ。
裕樹も直樹と同等に優秀だと聞いている。店を継いでも十分やっていけるだろう。
ただ、まだ少しばかり店を継ぐには歳が足りない。今困るのはそれだけだ。
いつか、重樹が許せば医師への道を歩むだろうとお琴は思っていた。そうなってももちろんついていくと決心もしていた。むしろ、そうなってほしいと思っていたのだ。
「すぐにでも行くのですか」
お琴は自分でも驚くほど静かに尋ねた。
「…できるだけ早く」
本当は、誰よりも早く教えてくれていたらと思わずにはいられなかったし、お紀のように一言もなくと詰ってもよかった。
勘当というのは、直樹のためというのは本当だろう。
長崎へ行く直樹のために苦しい中から重樹が用立てるだろうことは想像できる。
昨日思いが通じ合ったことすら忘れるほどの衝撃であったことも本当だった。
「わかりました。…無事に帰る日をお待ちします」
そう言ってそのまま直樹の顔も見ずにお琴は部屋に戻った。
部屋に戻って涙が出るかと思ったのだが、全く出なかった。
泣きわめいて、ひどいと言葉をぶつければすっきりするのだろうか。
お琴にはどうしてもできなかった。
医師になりたいと告げられたあの日から、直樹がいつか医師になれればいいと思ってきたのだ。
ようやく長崎に行くことを許されたのだから、喜ぶべきだ。
それでも、やはり寂しかった。
そう思うことはいけないことだろうかとお琴は自分に問うていた。
思いが通じたらそれで終わりではないのだとお琴は痛感した。
夫婦《めおと》になるのなら、それも乗り越えるべきことなのだとわかってはいる。
ただ、昨日の今日で少しだけ、思いが通じたことを喜びたかったのだ。
二度と会えない、無理だと思っていたのだから。

「お琴」

襖の向こうで声がした。
直樹だとわかっていたが、返事ができなかった。

「開けるぞ」

何も言わなかったが、そっと襖は開けられた。
そちらの方を見なくてもわかった。
多分少し困った様子で直樹は立っているのだろう。
内心は怒っているだろうか。
それとも呆れているだろうか。
お琴は前を向いたまま、直樹が入ってくるのを待っていた。
「長崎へ行くのを反対はしません。それが、直樹さんの夢だとあたしは知っていたから」
「ああ」
「医師になってほしいと、なれたらいいとあたしはずっと思っていました。できればその手助けもしたいと思い、本も譲り受けました」
「そうだったな」
「お嬢さんと結婚していたら叶えられなかった夢ですから、そのためにあたしと結婚するとおっしゃったとしても構わないんです」
「そんなことはない」
「いいんです。それでも、本当に、構わなかったくらいなんです」
「お琴」
「それでも、あたしは…」
「馬鹿なことを」
直樹はお琴の正面に回り込んだ。
執拗に前を向いたままで直樹を見ようとしないお琴にしびれを切らしたのだろう。
「俺が、そんなふうに偽ったままでおまえみたいな面倒な奴を嫁にするとでも?」
直樹の言葉にお琴は首を振った。
「どちらにしてもいつか長崎へ行くつもりだった」
「はい」
「それが、少しばかり早くなった」
「…はい」
「おまえに、一番に言うべきだった」
これはただのやきもちかもしれないとお琴は薄々わかっていた。
そばにいるだけでうれしかった。
話ができるだけでよかった。
夫婦になろうとまで言ってもらえて、贅沢なことだと思った。
それでも、まだ比べてしまう。
直樹の希望する未来は医師だったとしても、歩むべき道は大泉屋のお嬢さんとの道だったのではないかと。
そして、そのお嬢さんの家に宣言するよりも先に長崎行きを知りたかったなどと。
「あたしは、本当に、直樹さんが長崎へ行ってちゃんとお勉強してほしいと思っているんです」
「わかっている」
「それでも、少しだけ、言ってもいいですか。もう二度と言いませんから」
お琴はようやく涙を流した。
「離れたく、ないです」
「…俺もだ」
その言葉を抱きしめられたまま聞くと、お琴は直樹にしがみついて泣いた。
たとえ思うことはあっても二度と口にはしないと誓いながら。

 * * *

雨の降る中、福吉にたどり着いた後は、自分が何をしているのかわからなかった。
本音を言えば、お琴と向き合った時から、心ここに非ずといった感じだった。
その朝、確かにお琴はまだ佐賀屋に向かうのをためらっていた。
佐賀屋の嫡男、直樹は大泉屋のお嬢と結納寸前で、お琴はその佐賀屋から家に戻っていた。
しかも熱を出して行方知れずになった後だったので、その後の外出には気を使って一人にしなかった。だから、佐賀屋までついていくと言ったのに、一人で行きたいのだと断られた。
それでもどうしても心配になり、買い出しをすると称して無理に抜け出してきた。
福吉の主にしてお琴の父、重雄は仕方がないと言った感じで見逃してくれた。内心一人では心配だと思っていたからだろう。
実際熱を出して戻ってきてからのお琴は、傷心で見ていられないほどだった、ようやく回復して元気になってきたのだ。
それでもその心は、お琴のことなどどうでも良さそうな直樹で占められているのは十分にわかっていた。
その傷が癒されるまで待つつもりだった。
今まで十分待ったのだから、この先も待てばよかったのだ。
直樹がいよいよお嬢と夫婦になって店を継いだならば、お琴は自然と諦めて金之助にも目を向けてくれるだろうと思っていた。
誰よりも傍でずっと見てきたことに気が付いてくれれば、あの情の深いお琴のことだ、少しはほだされることもあるだろうと。
それがずるい目算であることもわかっていたが、そうでもなければお琴が金之助を幼馴染から認めることは難しいと自分でもわかっていたからだ。
どうかすると、お琴の好みは金之助の容姿とはかけ離れた美丈夫ばかりだった。
わかっていたのに、返事を急がせた。
佐賀屋に行った帰りのお琴は、明るく振舞っていたが、やはり直樹の面影を大事そうに抱いている感じがして、胸が焦げるほどに嫉妬した。
つい強く責め、無理にでもこちらを振り向かせようとしてしまった。
雨の降りだすのも構わずに、返事を強いた。
それが男としての性(さが)なのか、そんなふうに困った様子を見せるお琴すら手に入れたかった。
挙句の果てにお琴からとっさに出た言葉は「直樹さん」だった。
そのどうしようもない敗北感。
目の前に立ちふさがったわけでも、邪魔をされたわけでもない。
それなのに、お琴を守ったものは確実にあの佐賀屋の嫡男だった。
降りしきる雨が土手の土を湿らせ、座り込んだ金之助の服を滴らせ、行く道が泥にまみれてしまうまで金之助は動けなかった。
一人にしないつもりで迎えに行ったというのに、お琴をそのまま走らせて行かせてしまった。
たった一人で駆け戻るお琴が、その後どこに行ったのかわからなかった。
捜しがてら帰り道を行きながら、店にどうやって言い訳したらいいのかすら思いつかなかった。
ところが、金之助が失意のうちに帰り着くと、それよりも先に佐賀屋からの使いが来ていた。
身体を拭きつつ聞いた話では、お琴は今晩は佐賀屋に泊まるという話だった。
詳しくは誰も言わない。
言わないが、その雰囲気は金之助には聞かせたくない話題だったようだ。
巧みにその質問をかわす先輩に業を煮やして直接お琴の父である重雄に聞けば、詳しいことはわからないという。
ただ、何かが変わったのだと感じた。
その何か、は翌日になってわかったのだが、金之助はそれを聞かなくてもああそうだったのかと一人納得していた。
戻ってきたお琴は、少し憔悴した感じはあったが、明らかに前日の朝とは違う雰囲気を持っていた。
それこそ惚れた欲目だったのかわからないが、光り輝くような微笑みは、金之助にははるか遠く及ばぬことになったのだと悟らせた。
何故そういうことになったのか。
雨の中でやり取りしたあの出来事は、きっかけの一つとなったのか。
金之助はただお琴と目を合わせることもままならず、仕事に打ち込むことになった。
それだけが今の金之助にできる精一杯のことだったのだ。

「金ちゃん」

仕込みに忙しい店の中に響いた声に金之助は体を強張らせた。
とうとうこの日が来たのかと心の奥底では諦めの気持ちと、まだ決まったわけではないという気持ちで振り向けなかった。

「金之助」

今、一番聞きたくない声だった。
お琴と一緒にやってきて重雄と奥で話をしていたのか。
わざと忙しそうにして、声を無視した。
あれほどうれしかったお琴の声も何度か無視すると、唐突に宣言された。

「お琴は、俺がもらう」

耳を疑うような言葉だった。
おまえはお嬢と夫婦になって、店を継ぐはずではなかったのかと。
勢い込んで振り返った金之助の目には、直樹に寄り添うお琴が目に入った。
「あ、あほか!今まで散々お琴に冷とーしとって、今さら何言うてんねん」
思わずそう叫べば、お琴の目から涙がこぼれた。
「ごめん、ごめんね、金ちゃん。あたし…やっぱり直樹さんが」
その涙と言葉に金之助は言葉に詰まった。
何だかんだと言いつつも、お琴の涙に弱いのだ。
それは今ここにいる一番見たくなくて一番腹の立つ男も同じだろうと悟った。
思えばこんな予感は端々に現れていたのだ。
冷たくしつつも、決してお琴が諦めるように仕向けることはなかった男だ。
なんてずるい、そして鈍い男だろう。
自分でもおそらく気づいていなかったに違いない。
お琴がよその男に目を向けるのを許さなかった男。
お琴が諦めようとすると、さりげなく自分を見るように仕向けていた男。
同じように鈍いお琴は、知らずに計略にまんまと引っかかっていた。
加えてこの男もお琴の体当たりに知らずうちにまんまと引っかかったに違いない。
どこか似た者同士なのだ。
いや、この男は似ていると言われれば速攻で否定するだろうが。
お琴だけが追いかけているふうに見えるだろうが、この自尊心の高い男がここまでお琴に譲歩するのだ。相当惚れているとようやく認めたのか。

「…お琴、おまえはほんまに男を見る目がないの。後悔しても知らんで。
佐賀屋のぼん、おまえ、お琴を幸せにせな、ほんまにほんまに許さへんで」
渾身の力を込めてそう言った金之助に、直樹があっさり言った。
「もう俺は佐賀屋の息子じゃない。勘当された」
「…はあ?」
金之助の声が店に響いたのも無理はない。
「ど、どういうこっちゃ」
「言葉通りだ、店は継がない」
「ほ、ほんなら、お琴はどないするねん」
「もちろん嫁にもらう」
「お、お琴、こんなやつでいいんか」
「うん、あのね、金ちゃん」
「長崎に行く」
「ああ?」
再び金之助の声が響き渡った。直樹の言葉を理解するのに少しばかり時間がかかった。
あの一部燃えていた医学書を思い出した。
長崎と言えば医師修行に欠かせない場所だとの知識くらいはあった。ようやくその医学書をお琴が持っていた意味を知った。
「お、お琴を置いてか!」
「当たり前だ。あんな所には連れていけない」
「お、お琴、お、おまえ、承知したんか」
呆れて口もうまく回らなくなった金之助にお琴はうんとうなずいた。
「何や、それ」
金之助はすでに二人の間では納得済みのことに口を出すのも馬鹿馬鹿しくなった。
嫁にすると宣言されたその口で、その嫁を置いて修行に出ると言う。
天才だと名高いこの佐賀屋の嫡男は本当は馬鹿ではないかと思った。
お琴を好きだと言う男にわざわざお琴を置いていくと宣言するなど、お琴が他になびいても仕方がないと思わないのだろうかと。
「あんたの傍ならお琴につく虫もすぐにわかるだろ」
「虫言うたか」
しかもそれではお琴は絶対他には目を向けないと自信満々ではないか。
そこまで馬鹿にする気かと金之助は怒り狂ったが、逆に考えればこの男なりにお琴が心配なのだともわかった。
「お琴につく虫はともかく、お琴が他になびいても知らんで」
「それならそれまでだ」
「おまえ、あほちゃうか」
そう言って金之助はふてくされながらも、無視はできなかった。
「もうええ。お琴がそれでええ言うてるんやから、おれが口出すことじゃない」
「そうだな」
金之助はむっとして口早に言った。
「その江戸随一とか言われていい気になってる天才さまの頭脳でさっさと長崎修行終えて帰って来るんやな。愚図愚図してたらわろうてやるわ」
「ああ、わかったよ」
「ありがとう、金ちゃん」
二人はそう言って店を出ていった。
すっかりお琴は佐賀屋に帰るのが当たり前になっている。
ええんか、それでと父親の重雄を見たが、重雄はすまなさそうな顔をしているだけだ。
「お琴…いやや、お琴〜〜〜〜」
お琴が出ていった店に金之助のすすり泣きが響く。
「うんうん、おまえ、よく言った。男らしかったぞ」
先輩の慰めも金之助にとっては素通りだ。
寂しさだけがこみ上げる。
「お義父さんと呼びたかったんですわ、お義父さんと」
思わずそう言って困惑顔の重雄にすがりついた。

その日、福吉の店表には、臨時休業の張り紙がなされたという。

(2014/06/05)


To be continued.