大江戸恋唄



26


またもや通りに噂がまき散らされた。
誰とはなしに佐賀屋の大英断を噂した。
あの大泉屋との縁談をなしにして、かねてから噂のあった見習い娘と所帯を持つという。
しかも、その嫡男自身は勘当され、どこへとも言わず行方知れずだという。
一説には、所帯を持つ娘は残して、武者修行の旅に出たと。
大泉屋の怒りはそれでようやく収まったとの話である。

「全く失礼しちゃうわよね。誰が武者修行よ」
お琴は直樹の旅支度に気を配りながら勝手な町の噂に頬を膨らませていた。
「最近面白い話題がなかったからな」
その傍らでお琴の用意する荷物からさりげなく余分なものを抜き去りながら、直樹はお琴様子を見ていた。
行くとなれば一刻でも離れがたい。
そんな直樹の様子を全く意に介さないお琴である。
事あるごとにお紀とともにあれやこれやと長崎に送る物を選んでいる。
もちろん贅沢は許されないので、必要最低限ではある。
「まだ行方知れずにもなっていないし、ちゃんとお勉強に行くわけだし」
そんな言葉すら直樹は一言一句忘れないだろう思った。
「ね、直樹さん」
そう言ってこちらを見たお琴を掬い取るようにして引き寄せた。
「あ、あの、直樹さん、そんな、昼間から」
そうは言いつつ、頬を赤らめるお琴は、直樹からの口付けを期待している。
それでも、そこまでだ。
急ぎ長崎行きの前にこっそり祝言の準備をしていたお紀を止めたのだが、早まったかと少し後悔していた。
このまま手に入れてしまいたかったが、長崎へは遠く、長い。
もし直樹に何かあったら、お琴は何もしないうちから未亡人だ。
それでは気の毒なだけでなく、これから先のお琴の生活も滅茶苦茶になってしまう。
直樹はそこまで考えて祝言も控えるように言ったのだが、お琴は全く何も考えていない。
長崎へ行ってしまうなら、何か証が欲しいと言う。
その証を与えるのは簡単だが、それではお互いに余計切ないことになりかねない。
知らないからそうやって無邪気に言えるのだと直樹はため息をついた。
安易に手を出せない状況なのだが、お琴は相変わらず気が付いていないのだ。
ふとこの雰囲気を壊すためにさりげなく言ってみた。

「そう言えば、おまえにやった匂い袋はどうした」
「え」
もちろん直樹はその匂い袋の運命を知っている。
知っているからこそお琴がどうやって言い訳するのかを楽しんでいるのだ。
「そ、それが…その」
「もう無くしたとか」
「う…ご、ごめんなさい。あ、あたし、熱で倒れた時に落としちゃったみたいで、気が付いたらなかったの」
「ふうん」
それに関しては掘り起こしたくない記憶でもあるので、あまり関心を持っていないふうに装う。
今度はそれに代わる何かをやりたいと思いながら、お琴の髪に差してある紅の簪(かんざし)をいじった。
お琴は直樹の膝に座りながらおとなしくしている。
「あ、あの、直樹さん」
簪をいじる直樹に戸惑い、お琴は声をかけた。
直樹を見上げるお琴の顔に吸い寄せられて、顔を近づけたところで襖の向こうから声がかかった。

「あの、兄さま」

まさかこちらをうかがっていたわけではないだろうが、そのあまりの絶妙な間合いに直樹は苦笑しながらお琴を膝から下ろした。
お琴は慌てて着物を直しながら座り直す。

「入ってもいいぞ」

直樹の声に控えめに襖が開けられる。
「どうした」
裕樹には改めて話をした折に、兄さまがそれで幸せならと泣かれつつも了承してもらった。
もともと裕樹は別の商売をする気はなく、直樹を助けるつもりでいたという。
これからは助けるつもりではなく、商売を背負っていく覚悟でやらねばならないと気を引き締めたようだ。
「あの、これ、向こうで使ってください」
そう言って差し出したのは、猫の形をした根付だった。
「わ、かわいい」
直樹よりも先にお琴がもっと間近で見たそうに声を上げた。
「これは兄さまのだ」
ともすれば手を伸ばそうとするお琴を制するように裕樹が言った。
「でも、何で猫なの」
首をかしげるお琴に裕樹はちょっと得意そうに言った。
「猫は鼠を追いかけるからな」
「はあ」
要領を得ないようにお琴が返事をする。
ちっ、これだから察しの悪い馬鹿は困るよなと裕樹はつぶやいた。
「鼠年生まれの兄さまを追いかける誰かさんみたいだし、この呑気で間抜けな面は誰かにそっくりだろ」
直樹は笑いをこらえて裕樹とお琴を見ていた。
つまり、これはお琴になぞらえたのだと直樹にはわかったが、その当の本人であるお琴にはいまいち伝わっていないようだった。
「えーと、つまり」
「…おまえそっくりってことだよ」
お琴の視線に直樹は笑って答えた。
「あたしだって鼠生まれなのに」
突っ込むのはそこじゃないだろと思いつつ、直樹は裕樹から猫の根付を受け取った。
言葉は悪いが、お琴になぞらえてこれをくれる裕樹の心遣いが嬉しかった。
「でも、これかわいいから、あたしみたいだって言うならいいけどね」
「誰もかわいいなんて一言も…」
裕樹は眉をひそめて訂正したが、お琴は聞いていない。
根付は象牙でできていて、それなりの品であることがうかがわれる。
「これ、結構しただろ」
裕樹に聞くと、裕樹は「いえ、知り合いの職人に頼んだので」と顔を赤らめた。
それにしても象牙自体を手に入れるのも結構な値段がしたはずだった。
「…ありがとう、大切に使うよ」
そうやって職人に頼める裕樹を直樹は頼もしく思った。これなら店をいずれ継いでも大丈夫だろう。
一方のお琴は「しまった、あたしも根付にすればよかった…」とぶつぶつとつぶやいている。
「へぇ、おまえも何かくれるの」
そう聞くと、お琴はさっと顔を赤らめた。
裕樹はその様子を見ると「じゃ、じゃあ、兄さま、これで…」とそそくさと部屋を出ていった。
「何かって、その」
お琴は直樹の視線を感じて後退り始めた。
「あ、後でね」
「後っていつ」

「お琴ちゃ〜ん」

陽気な声が向こうから響いてきた。
あからさまに助かったという顔をしてお琴は「は、はーい」と立ち上がる。
しかし、思うように事は進まず、お紀は何かを手に直樹の部屋にやってきた。
お琴はお紀の手にしたものを見ると「ひっ」と声を上げた。
何だ?と直樹が思う間もなく、お紀はほほほと笑いながら楽しそうにお琴にその手の物を渡した。
「あ、あの、やっぱりこれ」
「せっかく縫い上げたものをちゃんと入れないと」
白いものと何か柄の布を手にしている。
「何だよ」
直樹の言葉にお琴は先ほどまで赤らめていた顔を青ざめさせて、直樹の視線からその手の物を後ろ手に隠した。
「お琴ちゃん、夜なべして縫ったのよ」
「へぇ」
なんとなく予想はついたが、直樹はお琴がうろたえるのが楽しくて「楽しみだな」と答えた。
「こ、これは、その」
「俺のためなんだろ」
「ひー、か、勘弁してください」
後ろを向き、手にしていた布に顔を伏せる。
「…出せ」
「だ、だって」
「あー、長崎に行ってお琴のくれた物一つ身に着けることができないなんて、残念だな」
わざとらしくそう言うと、ううっと唸りながら顔を上げた。
「ほら、お琴ちゃん」
お紀にも促され、お琴は「わ、笑わないでくださいね」と伏せていた顔を上げた。
先ほどまで顔を伏せていた布の束を差し出し、お琴はうつむいた。
たたまれた布は、どう見てもふんどしだった。
その縫い目はお世辞にも上手とは言えないが、一つ一つお琴なりに縫い上げたのがわかる。
白い布は定番だろう。
しかし、この柄布は…。
「これ、お琴ちゃんの着古した着物をほどいて作ったのよ」
お紀が一向に口にしないお琴に代わってささやいた。
ああ、なるほどと思いつつ、これに顔を伏せて恥ずかしがったお琴は相変わらず間抜けだ。
「それじゃ、ちゃんと荷物の中に入れるのよ」
それだけ言ってお紀も部屋を出ていった。
「ふんどしね」
確かに毎日身に着けるものだ。
しかも滅多に表には出ず、お琴の拙い腕で縫ったことも他の者にはわからないだろう。
「おまえ、これに顔を伏せて恥ずかしがるなんて」
「え、あ、やだ、違うの、そんなつもりじゃ」
慌てて首を振る。その首まで真っ赤だ。
「つ、使ってくれる?」
直樹を上目づかいで見てくる。
この柄物をお琴の古着と知って平気で使えると思うところがお琴だなと直樹はため息をついた。しかも、そう思うのを知っていて仕掛けるお紀は確信犯だ。
そのため息を勘違いしたのか、お琴は意気消沈している。
「使うよ。おまえの古着だなんて、もったいない」
お琴は顔を輝かせて言った。
「あの、でもね、そんな古着と言っても、本当に洗いざらしで、女将さんがその方が肌触りもいいはずだからって」
そして、少し口ごもりながらお琴は続けた。
「それに、離れても、う、浮気しないでね。あ、そりゃ直樹さんはもてるから、あたしよりもきれいな人もたくさんいるだろうし、本当にあたしと縁を切りたくなったら雑巾にしてくれても構わないんだけど」
できるわけないだろと直樹はお琴を抱きしめる。
今度こそ誰も邪魔してくれるなよと思いながら。
「あたしも余った同じ布で巾着袋を作って、懐に入れておくから。あの匂い袋の代わりに」
ああ、と返事をしながら直樹はその巾着袋に入れるものをやらないとなと頭の片隅で考える。
「それからね、白いほうは余った生地であたしの襦袢を…」
「…ちょっとは黙ってろよ」
そう言って頬を撫でると、お琴はすぐさま口をつぐんで目を見開いた。
お琴を怖がらせないようにゆっくりと直樹の顔が近づく。
今だけは言葉もなく、離れることさえも忘れて、直樹はお琴への想いを唇に託した。

 * * *

長崎に出発するまでの騒動は、直樹の生涯でも一、二を争うほどの大騒動だった。
お琴と一生を過ごすなら、こんな出来事もちょっとした騒動の一つで済んでしまうかもしれない。それでも、印象深く忘れられない十日間であることは間違いなかった。
手始めに長崎での師を求めるにあたって、江戸にいる師に紹介状を頼まなくてはならなかった。
もちろん江戸での師にあたる人物はなかなかよくできた人で、以前から長崎へ行くように勧めていただけあって、行くと決めた折にはさっさと文を送ってもくれた。
もちろん早飛脚でも長崎までは遠い。船を使ってもかなり日数がかかる。
それでも直樹が長崎に着くまでには十分間に合うだろう。
江戸から徒歩で行けばゆうに三十日はかかる。天候によってはもっとかかるかもしれない。
特にこれからの季節、本来旅歩きには不向きな冬に向かうのだ。
それらを踏まえ、あれこれと世話を焼こうとするお紀とお琴に直樹は少々うんざりしながら荷物の選り分けをする羽目になった。
道行は直樹だけではなく、佐賀まで行くという店の者が一人一緒に旅をすることになった。
表向きは佐賀にある故郷に戻るためと聞いているが、明らかに直樹一人を行かせないための親心だろう。
直樹はそのことに申し訳ないと思いつつ、黙ってそれを受け入れることにした。
心配させるために行くわけではない。
むしろ安心させるために必要なのだと割り切ることにした。
その同行者はもともと佐賀から来た若者で、ちょうど郷里で妹の婚儀があるという。
折しも直樹が直前まで結婚するかどうかで揉めていたのもあって、そんな話をするうちに出発する頃には思ったより打ち解けることができた。
今までの直樹ならばそういう話すらしなかっただろうと周囲の者は思っていたし、本人もそう思っていた。
同行する若者は実直で、直樹とは程よく付き合える人物だった。これも気難しい息子を思っての人選であろうと思われた。
何せ長崎までは初めての旅である。
佐賀から江戸に旅をしたこの若者は、旅行くうちに直樹にとって心強い存在となるのだった。

「あの、着いたら文をくださいね」
「ああ」
「あ、あのお弁当を」
「途中で食うよ」

まだ明けきらぬ明け七つ時(午前四時頃)に小声でやり取りを繰り返す。
佐賀屋の裏通りには、直樹と同行する若者と別れを惜しむお琴しかいない。
他の家族とは既に挨拶を済ませて、勘当という手前、お琴しか出てきていないのである。
直樹とお琴のやり取りをあえて見ないふうで若者が少し離れた場所で立って待っている。
いつまでたっても直樹の担いだ荷物に手をかけて放そうとしないお琴にしびれを切らして、直樹は声を抑えながらも言った。

「…もう行ってもいいか」
「は、はい」

やっとのことで手を放したが、直樹はため息をついてお琴にささやいた。

「帰ってきたら、夫婦《めおと》だな」
「な、直樹さん」

そのまま直樹はお琴を見ずに歩き出した。

「もうよろしいんですか」

そう言う若者の声もしたが、お互いにこれ以上向き合っているのは辛い。
まだ辺りは暗く、裏通りを歩き出した直樹の背が暗闇に見えなくなるまでお琴は涙を我慢した。
直樹ももうこれならお琴の顔も見えないだろうという限界まで我慢してから振り返った。
お互い見つめ合ったその距離は、走れば追いつくほどだったが、暗い裏通りでは既に姿もおぼろげで、出発したばかりだというのに江戸と長崎の距離を思い起こさせたのだった。

「…直樹さん」

今はもう止めどなく溢れ出た涙がお琴の頬をぬらすに任せ、やがて佐賀屋の奉公人が掃除をしようと朝一番で出てくるまで立ち尽くしていたのだった。

(2014/06/11)



To be continued.