大江戸恋唄



27


直樹のいない生活は、すぐに慣れた。
慣れざるを得なかった。
想いが通ずる前は、これで会えなくなる、最後だと思っていたこともあって、悲愴なまでに思い詰めていた。
しかし、今度は本当に距離的に離れてしまった。
どう頑張っても会いに行ける距離ではない。
おまけに今度は江戸に帰着したら婚儀が待っているという約定まであるのだ。
悲しくて辛いことには変わらないのだが、その先に待っているものが違う。
待つことを許されている。
それだけがお琴を支えているのだ。

「お琴ちゃん、直樹が戻るまでずっとここにいてれくれていいのよ」
「ありがとうございます」

お紀はすでにうちの嫁同然にお琴を扱うが、お琴は居候としての自分の立場から抜け出せずにいた。
何か月も居候していたとはいえ、まさか直樹と夫婦になるなどと妄想したこともなかった。せいぜいが直樹に優しくされるだとか、好きだと言われるとか、それくらいのものだったのだ。
したがって、今までと同じく、佐賀屋と福吉を行ったり来たりの生活になった。
ある程度夕暮れになるとどちらかに泊まり、一人歩きも一切しないようにした。
佐賀屋夫婦もお琴の父もやはり以前の行方知れずになりかけた経緯を忘れてはくれないのだ。
金之助は、あれからぶつぶつと文句を言いながらもやはりお琴の身を案じている。
しかもお琴を置いて直樹が長崎まで行ってしまったので余計にうるさい。
お琴の父である重雄は、そんな金之助に苦笑しながら見守っている。
そしてお琴には、直樹が長崎に行く前にただ一言だけ忠言があった。

「お琴、おまえは望外にも坊ちゃんと気持ちが通じたようだがな、あの大泉屋を蹴ってまで受け入れてくれた佐賀屋の恩を忘れちゃならねぇよ」

お琴はもちろんと大きくうなずいたのだが、重雄とて同郷の友人として幼き頃から付き合ってきた佐賀屋の重樹の息子となれば、どこかの知らない男をいきなり連れてこられるよりはましだという気持ちの方が大きかったのだ。
贅沢を言えば、福吉を手伝えるような、将来店を任せられるような男であれば文句なしだったのだが、それを言っては天才と誉れ高い直樹を前に罰が当たろうというものだ。

直樹が旅立ち、京に着いたと文が届いてから、お琴とお紀はうれしさのあまり京料理の店を訪れている。
こんな料理の一部を直樹も食べているかもしれないというわけだ。
実際には贅沢など無縁の旅のはずで、江戸で食べられる贅沢な富裕層向けの京料理とは違うものだろうが、あくまで雰囲気を味わうためだ。
京まで十五日。天候に不安はあったが、途中の川渡しもうまく乗り切り、足運びの良い直樹とその同行者は順調に東海道を下りきったようだった。
お琴は毎日佐賀屋からほど近い明神様に参って、直樹の無事を祈っている。
懐には、直樹がくれた紅《べに》が忍ばせてある。
貝殻にほんの僅かばかりの品だったが、江戸でも人気の紅とあってかなり高価だろうとわかった。
大店の小間物問屋といえど、人気のある紅屋にはかなわない。
直樹はあのふんどしとお揃いで作った巾着に入れるものをと買い求めたようだった。
忙しい中、あの直樹が女人でいっぱいの紅屋に立ち寄ってくれたのかと思うと、お琴は胸がいっぱいになるのだった。

「この紅がなくならないうちに帰ってくるよ」

そうささやいて直樹は紅を贈ってくれた。
お琴はまだもったいなくてとても使えなかったが、お紀から一度化粧をと勧められた時にそっと見せると、「あら、まあ」と意外そうにしていた。
もちろんそれが直樹からの贈り物なのだと言ったわけではなかったのだが、お紀は察し良くそれはもう満面の笑みで喜んでくれたのだった。
まさかあの朴念仁の直樹がこれほどお琴のことを気にかけ、逃すまいとするなど、お紀には想像もできないことだったのだ。
かくしてその紅はお琴の懐におさまることになったのだが、万が一にも割れたりしないように気を配ることになった。
転んだりすれば割れるかもしれない。
割れてしまうことは、直樹との仲が壊れるような気がして身震いするほど怖いことだった。
だから、お琴は以前より慎重に歩くようになり、転ぶことが少なくなった。
これは直樹にしたらうれしい誤算かもしれない。
今はそばにいて転びそうになるお琴を助け上げることはできないのだから。
また、紅の量はほんの少しで、お琴が頻繁に使ったらすぐになくなるくらいの代物である。
できるだけ早く医術を習得して帰るという直樹の心持ちだったのだ。
お琴にしても使えば使うだけ直樹が早く帰ってくるとは思いもよらないで大事に懐に入れていたので、いつまでたっても減らず、直樹が帰るまでの間は紅を見つめてため息をつくことが多くなったのだった。

お琴は今日も朝一番にお参りに行こうと佐賀屋を出た。
まだ人の気配もほとんど感じられない早朝のことだ。
裏戸から出ると、偶然そこには大工道具を担いだ啓太がいた。
お琴は「あら」と声をかけたものの、あまりに久しぶりだったせいか名前が出てこない。
「えーと、えーと」
詰まった挙句、困り顔の啓太に「お久しぶりですね、啓太です」と自己紹介までされた。
「そうそう、啓太さん」
お琴は誤魔化すように両掌をぱちんと叩いて見せた。
その際荷物が腕からずり落ち、「おっと」と啓太が荷物を受け止めた。
「ありがとう」
にっこり笑うと、啓太はお琴から目をそらせた。
「啓太さん、これからお仕事なのですか」
「ええ」
啓太はお琴と目を合わせない。
何か粗相をしたかとお琴は首をかしげる。
「では」と歩き出した啓太の後ろを同じように歩き出すと、さすがに無視しきれなくなった啓太が振り返った。
「あの、佐賀屋の嫡男は」
啓太は遠慮しながらもそう聞いてきた。
「直樹さんのこと?」
「はい」
「今はもう長崎に」
「へぇ…、は?」
驚いたようにお琴を見た。
「何か?」
「大泉屋とは」
「あ、それはその、婚約破棄で」
「お琴さんとは」
「え…あの、め、夫婦《めおと》になる約束を…」
「…ああ、そうなんですか」
お琴がそう答えた後、沈黙が流れる。
朝早い通りは掃除の小僧くらいしかいない。
そのまま二人して無言のまま通りを歩き、表通りに入ったところで「それでは」と啓太はそそくさと歩き去っていった。
その態度は少しよそよそしくて、お琴はますます首をかしげたが、まさか先日まで足の骨を折って仕事を長らく休んでいたこととか、その足の治療を直樹がしていたことなどは知らない。
お琴が反対方向に歩き出し始めたのをそっと振り返った啓太が、大きなため息をついたことなどお琴は知る由もなかったのだった。


啓太は仕事場に向かって歩き出しながら、いつもと変わらない調子のお琴を見てほっとしたのと同時に気落ちしていた。
気になっていなかったと言えば嘘である。
少なくとも、お琴に好意を持っていたのは確かだった。
それは夫婦になるかならないかというところまでは考えたことはなかった。
お琴が直樹を好いていたのは丸わかりで、啓太でなくともお琴を好いていた福吉の見習い料理人だけでなく、当の本人の直樹ですら知っていたことだろう。
それだけお琴が素直で馬鹿正直だということで、隠し事には向かないのだ。
それはともかく、啓太が足場からうっかり落ちて足の骨を折ったのは、まだ秋口の頃だった。
あの頃、直樹は医師になるかどうかで悩んでいたようだった。
その後、出歩くことがなくなり、しばらく家に引きこもっている間に佐賀屋と大泉屋の縁談の話で噂は持ちきりだった。
どちらも大店で、加えて佐賀屋は商売仲間の失態をかぶる形になって商売が傾きかけているという噂だった。
そうは言うものの、佐賀屋の嫡男は昔から見目のいい美丈夫で、才覚に優れた若者だと評判だったので、決して大泉屋の損とは言えなかったのだ。
お琴が佐賀屋を出た、と噂にも聞いた。
ようやく足が癒えてから福吉の前を通りかかった時には、お琴の姿はないものかと思ったが、どうやら体調を崩しているらしいと店の女に聞いた。
一度見舞いに行こうとしたが、福吉の主であるお琴の父に断られた。
その頃には体調云々というよりも、心がふさいで誰にも会いたくないと言われたのだ。
そうこうしているうちに日は過ぎ、ようやくお琴の姿を福吉で見かけるようになったと聞いたときには、あの佐賀屋の嫡男と婚約した後だったというわけだ。
なんとなく、そう、なんとなくではあったが、残念なような、悔しいような気すらしていた。
あれだけ辛辣な態度をとり続けていた直樹だったが、結局お琴を好いていたのかとほっとしたのも本当だった。
それなのに、長崎へ既に旅立ったらしい。
夫婦になる約束をしたまま、お琴を置いて。
正直、気が知れない。
もちろん医師になるには修業がいる。
優秀な医師の下で修業を何年か積むことも必要だ。
そして今の時代、蘭学と共に西洋医学も学ぼうとすれば、やはり長崎に行くのが手っ取り早い。
長崎には医師になるための学舎もあると聞いている。
あの佐賀屋の嫡男…ああ、そうだったと啓太は思い出した。
勘当されたという噂もあった。
跡取りは次男になり、そのために家を出たのだと。
この一年余りの間に、いろいろあったものだ。
季節が一巡りもしないうちに、なんと変わってしまったことだろう。
そしてお琴は一人残されて、ひたすら直樹が帰る日を待ちわびるのだ。
どうせいつ帰るとも知れないならば、わざわざ婚約などせずにさっさと行けばよかったものを。もしくは、さっさと夫婦になってしまえばよかったのだ。
そのどちらもせずにただお琴の将来を縛り付けて行くなど、ただの直樹の我がままではなかろうか。
夫婦になってしまえば、誰も文句は言うまい。
しかし、夫婦ではなく婚約。
約束とはいえ、確たる保証はない。
もしも長崎でお琴以外の女との縁ができたならばどうなるのだ。
お琴とてそういう不幸なことがあるやもと思いつつも、自由にはできまい。
離れてしまえば何が起こるかはわからない。
それは本当に幸せなことのか。
幸福と不幸は紙一重だ。
何かが違ってしまえば、あっという間に幸福は不幸に変わってしまう。
お琴の気が変わらないと、確信を持っているのだろうか。
直樹が帰ってくるまでの間、誰にもなびかないと?
お琴を何年も放置しても大丈夫だと?
誰も、お琴をさらっていくようなことはしないと?
直樹を待つことは、お琴にとって不幸ではなく、幸福であると?
啓太には、今までそんなふうに何年も思い続けた相手はいなかった。
思い続けることの辛さも、幸福も知らなかった。
時々夢見るようなお琴に会うたびに、啓太はそれを知りたいと思っていた。
ただ一人を思い続けることの幸福と不幸を。
啓太はそう考えていたのだった。
そして、そう考えたことが啓太にとって生涯で一番後悔する事態を引き起こすことになるのだった。

(2014/06/19)


To be continued.