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直樹さん、無事に長崎に着いたとのこと。この文が届く頃には、直樹さんのことだから勉学に励んでいらっしゃることでしょう。
私は今も時々佐賀屋にお世話になりながら、了安堂の先生のところにも顔を出しています。
直樹さんがお帰りになるまでに少しでもお役に立てるように学んでまいります。
やっとのことでそこまでを書き、お琴は筆を置いた。
本当はあれもこれも報告したいことはあれど、紙に書ける文字には限りがある。ついでに言えば、送ることのできる文の量も、届くまでの日数を思うと躊躇する。
ここまでの文章は、お琴なりに考えに考えて書いたつもりだった。
だから、これ以上の文を書こうとしてもなかなか筆が進まず、うーんとうなりながら考え込む羽目になった。
確かに直樹のいない生活に慣れた、とは言っても、寂しいには違いない。
とりとめのない日常を書くだけなら、何枚だろうと書くことはできる。
それこそ巻紙が延々と続くくらい、どんな些細なことも漏らさずに報告したいという気持ちはある。
それを堪えながらお琴は続きの文を思案して、なんとか書き終えたのだった。
「お琴ちゃん、今日も行くのね?」
そう声をかけられ、お琴は医学書を包んだ風呂敷を手に「はい」と答えた。
これから文に書いた了安堂《りょうあんどう》に行くのだ。
了安堂は、直樹が医術を学ぶのに通っていた医師のところで、御家人上がりの医師、古賀了安が開院している。
元は佐賀屋が頼りにしている医師の師でもある人で、かなりの腕前だった。弟子もたくさんおり、その一人として通っていた直樹は、お琴に頼まれて弟子見習いとして通うことを許してもらっていた。
本当は漢文もろくに読めない身で医学書は難しすぎる。
いくら許嫁になったとは言え、お琴を弟子として頼み込むのはばかられると早々にそれを悟った直樹は、できれば邪魔にならない程度に実地で教えてやってほしいと頼んだのだった。
それでもお琴は弟子気分で意気揚々と了安堂に通っている。
確かに知識が追い付かない面は多々あるが、了安堂に来る患者にはおおむね好評であることから、了安をはじめとする数多の弟子たちも笑って迎えてくれるのだった。
「お琴ちゃん、今日はこちらへ戻ってきてほしいの」
遠慮がちではあったが、お紀が少し含みを持たせてお琴に言った。
いつも了安堂の帰りは福吉に寄ってくるのが習慣になっていたが、お紀の言葉にお琴は不思議に思いながらも「わかりました」と返事をした。
「うふふ、ちょっといいことがあるの」
楽しげにお紀が言うのを背にお琴は出かけることにした。
佐賀屋からの道行きは徐々に慣れた。
一時は直樹の勘当話とお琴との話で持ちきりだった通りの商店でもようやく落ち着いたらしく、お琴が通りかかってもさほど気にされなくなってきた。
やがて通りの向こうに了安堂が見えると、お琴はようやくほっとする。
了安医師は、かなりの年だったが、見た目は若々しく、その仕草と颯爽と処置する様子はとても年相応には見えない。
それでも医者見習いの弟子たちを教え諭す姿は、さすが直樹の師匠だとお琴も思うくらいの人物だった。
読めない漢文は程々に、お琴は診療に来た患者の世話を引き受けることが多かった。
それから、庭に植わっている薬草の世話だ。
これはもしも直樹が医師として開業した折には役立つだろうと、熱心に世話をしている。
中には使い方によっては毒ともなるため、取扱いには注意が必要だったが、摘み取った薬草を干したり取り込んだり、了安医師が調合した薬を包むのも修行のひとつだった。
薬草は、吹けば飛ぶような量も慎重に扱わねばならない。
しかし薬包を包むのは、正直不器用なお琴にとってなかなか至難の業だった。
「お琴さん、それでは包んだそばからこぼれてしまいますよ」
お琴の包み方をはらはらしながら見守るのは弟子たちだったが、さすがに貴重な薬を扱わせるわけにいかないので、お琴がつつんでいるのはもっぱら塩だったりするのだが、見本をうっかり置いておいたら、患者が薬と間違って口にして、塩辛いと大騒ぎになったこともあった。
弟子たちにとっては笑いごとだったが、了安医師はこれに厳しく注意した。
もしもこれが本当の薬であれば、間違いでは済まされないことだからだ。
お琴は大いに反省して、二度と繰り返さなかったが、あちこちで包む練習を繰り返す割にはいまだ上達していない様子が見てとれ、これにはさすがの了安も苦笑いするほかなかった。
直樹がいれば「おまえみたいな不器用な奴が医術を習うだなんて患者を殺す気か」と怒鳴るところかもしれない。
そういうふとしたところで直樹を思い出す。
永遠に帰ってこないわけではないのだが、当分帰ってこない状況は、お琴にとって永遠にも等しいくらいの寂しさだった。
帰ってくるまでどれくらいかかるのだろうか。
一年では無理だろう。
二年、三年?
優秀な直樹ではあったが、蘭学に伴う西洋医学は未知なる分野であり、どれくらいかかるのか想像もつかない。
お琴はぼんやりとそんなことを思いながらいつものように了安堂を出るのだった。
もと来た道から少し外れ、福吉に寄る。
今思えば、直樹はわざわざ遠回りして福吉に寄ってくれたことがわかる。
もちろんあの頃はそんなことは知る由もなく、そもそも直樹本人もあまり意識することなく福吉に寄っていたのだろうとお琴は思っている。
「こんにちは」
福吉の中へ入って「お父さん、いる?」と声をかけると、「おう、お琴」と手を拭きながら父の重雄が出てきた。
「今日は女将さんに呼ばれて、あちらに泊まることになりそうなの」
そう告げると重雄は笑って「わかった」と返事をした。
「ちょっといいか、お琴」
そう言われて、お琴は首を傾げながらも重雄の後について座敷に上がる。
襖を閉めると重雄は改まった様子でお琴に向き直った。
「ちゃんと話をしておかないとなと思っていたんだ」
重雄な頭をかきながらお琴に話し始めた。
直樹から先日文が届いたらしかった。これはお琴に当てた文とは別便で送ったのだろう。
長崎へ行く前にも話をしたようだったが、一通り夫婦になることを話したところでお琴は席をはずしてほしいと言われて、二人が何を話していたのかは聞いていなかったのだ。
「坊ちゃんは、あちらで大変な修業をなさっているようだな」
「ええ、そうみたい」
「必ずお琴を迎えに行くからよろしくと書いてあった、ありがたいことだな」
お琴は頬を染めてうつむいた。
父からそんなことを言われて少し照れくさかった。
「それでも、もしもお琴に自分の他にいい人ができたなら、知らせてほしいと」
「そんな」
「まあ、黙って聞きな」
先ほどは恥ずかしげに染めた頬を、今度は怒りで膨らませる。
「それだけ、長崎での修業は大変なんだ。長くかかるかもしれない。それに、なんといっても遠い。病を治す医者だって病気にはなるだろう。それはお琴も同じだから、お互いに何かあった時は遠慮なく他の相手を見つけた方がいいと話したんだ」
お琴は不安に思っていたことをずばりと言われて涙ぐんだ。
「そんな不吉なこと、言わないで」
「…そりゃ悪かった。だけどな、そういうことも覚悟しておかなきゃいけねぇってこった」
「わかってる」
「わかってんなら、いいんだ。悪かったな、お琴。どれだけ辛くても、それだけの覚悟がありゃ、坊ちゃんが帰ってくるのも待てるってもんだ」
お琴は黙ってうなずいた。
「おっと、女将さんに呼ばれてるんだったな。暗くならねぇうちに行った方がいいだろう」
重雄に促されて、お琴は急いで福吉を出た。
その様子をちらりと金之助が見ていたが、お琴は全く気付いていなかった。
直樹に言われたからではないが、お琴も十分道行きには気を付けていたし、金之助も随分と気を付けていたのである。お使いと称して金之助がお琴に気を配っているのを知っていたのは、重雄だけかもしれなかった。
ともかくお琴は知らないまま、無事に暗くなりそうな道を急いで佐賀屋に足早に帰り着いたのだった。
佐賀屋ではお琴が帰ってきたのをお紀が浮足立った様子で出迎えた。
佐賀屋ではそろそろ店仕舞いで、お客の姿はとうになく、お琴はそのまま佐賀屋の奥に招き入れられた。
そこにあったのは、しばらく顔を見なかった懐かしい顔だった。
「おきよさん!」
お琴は小走りで駆け寄り、おきよの手を取った。
「お久しぶりです、お琴さん。ご挨拶もせずお暇をして申し訳ありません」
「そんな、こちらこそ。たくさんお世話になったというのに」
「本当にようございました。直樹さんと婚約されたそうで」
「えっと、その、はい」
「あら、違うんですか」
その言葉にお琴は「いえ、こ、こ、婚約、しました」とどもりながら答えた。
人に言われるのと自分で言うのとは大違い。お琴は顔に血が上るのを感じながら恥ずかしげに笑うのをおきよは優しく微笑んで見ていた。
お紀も一緒にうれしげに見ていたが、はっと気づいたようにお琴に話しかけた。
「それでね、お琴ちゃん。ようやく一人奥に入れることにしたのよ」
そう言ってお紀が紹介したのは、すらりとしたなかなかの美人だった。
歳はお琴と同じ年頃かもしれないが、随分と大人っぽく感じる。
「おきよさんの親戚で、おもとちゃん」
「もとと申します」
そう言っておもとからお琴を観察するようにじっと見つめられ、お琴は再び顔を赤らめた。
「えっと、よろしくお願いします」
慌てて頭を下げると、おもとが笑った。
「同じ年頃だから、仲良くしてあげてね。とは言っても、おもとちゃんはあちこち御奉公してきていて、礼儀作法は十分だから、あとは佐賀屋に慣れるだけね」
「お琴さん、おもとをよろしくお願いしますね」
おきよまで頭を下げる。
「そんな、あたしの方こそ」
お琴はおもとの手を取ってにっこり笑った。
「どうぞ仲良くしてくださいね」
いきなり手を取られておもとは驚いた様子だったが、お琴の様子にしっかりと手を握り直すと「こちらこそ。今度こそ生涯と思ってお勤めをさせていただきますわ」と熱を込めて言葉を返した。
握られた手の力が思いのほか強く、お琴は随分と力強い人だわと思いながらうなずいたのだった。
そして、いいことというのはおきよに会えたことと、新しい奉公人が来ることだったのだとお琴は納得したのだった。
おきよと歓談してお琴が楽しげに部屋に姿を消した後、おきよはくれぐれも、とおもとに対して念押しして帰っていった。
この年若いおもとを一人残すのは忍びなかったが、おきよはすでにお暇した身であり、佐賀屋に長く居残るつもりはなかった。
おもとは年若い割に妖艶な美人であり、表に出ればそれこそ小町扱いになってもおかしくないほどの容姿だった。少々背の高いことと声の低いことをのぞけば、だったが。
そう、つまり女性の恰好をしていたが、おもとは立派な男だった。
しかし生まれて間もなくはともかく、物心ついたときからどうも自分が男という意識はないようだった。
おきよの妹の子どもで、郷里にいた時はそれなりに男の恰好をしていたのだが、しゃべり方も意識も女のそれでは狭い町では噂になってしまう。
本人は気にしないが、周りは気にするのだ。
どうしようもなくなり、郷里を出てきたのを機に女の恰好をすることになった。
江戸ではそれこそ女らしい男も男らしい女も存在する。そういう職ですらあるのだ。
しかし、おもとは女より男が好きなのは確かだが、別に女の恰好をするのが好きなわけではなく、ちょっと性別を間違えてしまったくらいに思っていたのだ。
それでも世間ではそうは見てくれず、勤め上げるには十分な働きをするものの、屋敷ではなかなか続かなかったので、とうとうおきよが頼まれて佐賀屋に紹介することになったのだった。
佐賀屋の主夫妻はそういうことにあまりこだわらない。どちらかというとおきよからの推薦とおもとの人柄を見て雇うことに決めたようだった。
世間一般から見て、女の恰好をした方が合理的だと考えた結果、佐賀屋では女として勤めることになった。
おもととしては日々暮らしていけるならば、女の恰好でも男の恰好でも構わなかった。女の恰好なのに性別は男だとばれることも厭わなかった。
それでも佐賀屋の主は好きなようにとおもとに鷹揚に対処した。
あえて宣伝することでもないので言わずに済ませた結果、後々までお琴は全く気付かないまま過ごすことになったのだった。
おもとはおもとでこの少し抜けたような女が噂に聞こえた名高い佐賀屋の長男の許嫁と知った時は、随分と驚いたものだった。そもそもおもとを女として疑ってもいない。
おきよに聞いていた通りの女がまさかいるとは思っていなかったおもとだったが、少し付き合ってみればこれほど一所懸命で素直な女はなかなかいるまいとして、お琴に対しても信頼を寄せるようになった。
かくして、佐賀屋におもとありと言われるようになるまでさほどの時がかからなかったのは、推して知るべしだった。
(2014/06/29)
To be continued.