大江戸恋唄




その日は朝早く、医学を学んでいる医師の更に師匠となる人の元へ行くために、直樹はいつもより早起きをして出かける支度をした。
少しばかり遠い場所になるので、早めに出なければならなかった。
駕籠でも使えば楽なのだろうが、さほど自由になる金もなく、大方の金は医学書に費やしている。
裏から通りへ出ると、そこには珍しく早起きして箒を使っているお琴がいた。
しかもその場にはもう一人いた。
大工姿の若者で、いなせな姿は清々しい。
何を話しているのかは定かではなかったが、どうやら福吉を再建した棟梁の組の者らしい。
お琴と知り合いでもなんら不思議はなかったが、思わず直樹はその二人に背を向けてさっさと立ち去ろうとした。

「あ、直樹さん、おはようございます、お早いですね」

何故かこういうときは目ざといお琴が直樹の背に声をかけた。
あえて振り向きもせず、直樹はさっさと足を速める。

「いってらっしゃい」
「なんでい、愛想のない若だんなだな」

大工の若者がそうつぶやくのが聞こえた。

「直樹さんはとても頭がよろしくて、本当ならあたしとなんて口も聞いてもらえないくらいなの」

お琴のよく通る声が直樹の背から聞こえた。
所詮頭が人より良くても何になれるわけでもない、と直樹は思っていた。
家を出る覚悟でなければ医師になるのは難しい。
できれば長崎に行きたい。
その長崎に行くには旅費もいるし、それなりの伝手もいる。
大店の跡取りという立場は中途半端だが、伝手をたどるには立場は大いに利用する。
一人娘とはいえ、お琴のほうがよほど自由に思えた。
そして、あの若者も。
料理人見習いよりもよほど似合っているように見えたのは、穿った見方だろうかと思いながら。

 * * *

お琴はさっさと歩き去った直樹の背を見つめていた。
今日はきっとどこか遠いところに出かけるのだろうとわかったが、行き先は誰かに告げたのだろうかと少し心配になった。
そんなお琴を少しだけ残念そうに見つめる若者は、大工道具を抱え直してお琴に声をかけた。

「では、お嬢さん。またよかったら顔を見せてくださいよ」
「ええ。あ、啓太さん、ちょっと待って」

お琴は急いで家の中に戻ると、何かを抱えて出てきた。
「少し邪魔になるかもしれないけれど、よかったら皆さんで召し上がって。め組に寄られるんでしょう?」
そう言って大工の若者、啓太にお琴は蜜柑を押し付けた。
本当はお琴の父にともらった頂き物だったが、お世話になっため組にならば父も喜ぶだろうと思ったのだ。
「お、こりゃ…。お嬢さん、いいんですか。そりゃ蜜柑は親方も好物だろうけど、これはお嬢さんのために頂いたものじゃないんですか」
「いいの。だって、あれほどの火事の中、助けていただいたんだし、福吉も立派に再建してくださって、父も喜んでいましたから」
そう言って啓太に笑いかけた。
啓太は少し照れて頭をかこうとして手が蜜柑でふさがったのを思い出した。
「では、遠慮なく頂いていきます。親方にきっちり渡しますから」
「ええ。お願いね。本当にありがとうございましたって」
「では」

お琴は片手に大工道具と更に蜜柑の包みを抱えた啓太を見送ると、再び箒を動かしだした。
店表は店の奉公人が掃除をしているので、せめて裏くらいはと掃除をかってでたのだ。
箒を動かしながら先ほどの直樹を思い出す。
こちらを見ないその背中は、何か拒絶されたような気がしてさみしかったが、元々あまり話しかけるなと言われていたのだったとお琴は改めて思い出した。
このままこの佐賀屋を出てしまったらそれこそ接点はなくなるのだと思うと、ますますお琴はさみしかった。
しかし、お紀の言うように行儀見習いをするのは、重雄にあまりいい顔をされなかった。
これ以上世話になるわけにはいかないと言いつつも、恐らく跡取り息子である直樹にお琴が心を寄せていることが原因だろうと気づいた。
傍にいればいるほどのその恋着は強くなり、いざ婿を迎えようと思ってもお琴の気持ちがないのでは忍びないと思っているのだと。
確かにこのまま直樹のそばにいれば諦めるのも難しい。
大体よく考えればわかったのだろうが、大店の跡取り息子に憧れるだけならともかく、一緒になれるはずもないのだ。
ただ、そう気づくのが遅すぎたことをお琴は感じていた。
振られてお終いのはずだった恋心は、居候することによって更なる接点を持ち、普段の直樹の姿を見ることになり、何気ない会話をし、口喧嘩までしたりするにつれ、もはや取り返しのつかない気持ちになっている。
ただ、まだ嫁入り先を決められたわけではないので、しばらくはこのまま憧れたままでいようと楽観的に考えると、また軽やかに箒を動かしだしたのだった。


午後になり、さすがにお紀も直樹の行方が気になったようだが、それもお琴がお使いに出るというので思い出したくらいだ。
お琴は、行きに駕籠を使うことで少しばかり遠いその場所へお使いに出ることになった。

「大丈夫です、寄り道はいたしませんから」

そう言ってお琴は駕籠に乗り込んだ。
そのお使いも無事に済ませた後、お琴は急ぎ足で駕籠屋に向かっていた。
さすがに得意先の店先で、これ見よがしに駕籠に乗り込むわけにはいかないと、若い娘だから駕籠を呼んでくれるというのを断ったのだ。もちろん行きも少し手前で駕籠を降りていた。
得意先が呼ぶとなれば、若い娘に代金を払わせるわけはなく、お琴は慌てて断った。
駕籠の代金はきちんとお紀からもらっていたので、わざとこの先の店に用があるのでと理由をつけて足早に店の前を去ったのだった。
そうやって駕籠屋に向かっていると、店横にうずくまっているお年寄りを見つけた。

「どうされました」

お琴は慌てて駆け寄り、顔を見ると上品そうな大店の隠居といった感じの年寄りだった。
「いや、少し足を痛めましてな。誰かを呼ぼうにもどうにも動けず、誰にも気づいてもらえず…」
「駕籠を呼んでまいりましょう」
「いえ、そこまでしてもらうわけには」
「何をおっしゃってるんです。じきに日も暮れてしまいますし、肌寒くもなってまいりましたよ。家の方々が心配されてますよ」
「ああ、黙って出てくるのではなかったかな」
そう言って笑っている。
「少しの間、ここでお待ちくださいませ。呼んでまいりますから」
そう言ってお琴は駕籠屋まで一目散に走った。
駕籠屋に事情を話して急いで戻ってくると、その年寄りは既にその場にいなかった。
しばらくあちこちを探してみたが、どこにもいなかった。
「…どなたか迎えにいらしたのかしら」
「お嬢さん、どうされます」
「あ、そう、そうね。えーっと、じゃあ、あの、日本橋の佐賀屋までお願いできますか」
日も暮れてきたことだし、とお琴は素直に駕籠に乗ることにした。
日本橋まではまだかなりの距離があったし、娘浚いの下手人はまだ捕まっていないのだ。ここで変な遠慮をしてお紀を心配させるのは申し訳ない。
駕籠に乗り込み、お琴は佐賀屋に戻ることにした。


佐賀屋の裏通りに駕籠が着くと、ちょうど直樹が通りを帰ってくるところだった。
「直樹さん、お帰りなさい」
すっかり日の暮れた通りで、駕籠から降りたのがお琴だとわかると、直樹は少し驚いていた。
「今帰りか」
「はい。お使いを頼まれて、ちょっと川向こうまで」
「おまえ一人で?」
「ええ。でも、贅沢にも駕籠を使うようにおっしゃってくれて」
「…何考えてんだ」
「え、遅くなると女将さんに心配かけると思って。それに、ちゃんとお使いは済ませましたよ。あ、帰りに足を痛めたお年寄りがいたので駕籠を呼んであげたら、いなくなってて…。だから代わりに乗ってきたのだけどちょっと心配。無事に帰れたのかしら」
「馬鹿か」
「え」
「知らないところで知らないやつにほいほい声をかけるな」
「でも、お年寄りだし。足を痛めていらっしゃったし、どこかのご隠居みたいだったし」
「そういう詐欺をするやつもいるんだ」
「そ、そうなの」
「お人よしもいい加減にしろ。この女浚いもうろついている時分に」
「でも女浚いは湯島天神のほうでしょ」
「…もういい」
そう直樹がいらだたし気に言ったとき、家からお紀が出てきた。
「もう、いつになったら帰ってくるかと思ったら、そんな暗い中で二人で話していないで早く入っていらっしゃいな。あ、それともお邪魔だったかしら」
うふふとお紀が笑い声を上げたのを機に、二人は家の中に入ることにした。
お琴には直樹が何を怒っているのかさっぱりわからなかったが、お使いなど任せられないと思われていたではないかとか、駕籠を使って贅沢だと思われていたわけではないことを知って少しほっとした。
「何を怒ってるのかしらね。そんなに心配だったなら、朝早くから出かけずにお琴ちゃんについていったらよかったのに」
「そんなの知るかよ」
「まあ、怖い」
少しも怖そうに思っていなさそうだったが、お紀は肩をすくめて直樹の言葉をやり過ごした。
「本当に無事でよかったわ。今日も一人浚われたらしいって聞いて、本当に心配したのよ。もうお琴ちゃんを一人お使いなんてことはさせられないわ」
「そうなんですか」
お琴はほっと胸をなでおろした。
浚われた娘たちはいずれも大店のお嬢様ばかりで、既に三人も浚われているのだ。
お琴はどう見ても大店の娘には見えなかったが、それでもやはり年頃の娘をこの時分に出歩かせるのは憚られるだろう。
店で働いている長屋の娘たちも恐々暗くなった中を帰っているという。
いつ矛先が大店の娘から代わるとも知れないのだ。特に大店の娘は一人で歩くこともないし、警戒も厳しくなるだろう。
お琴はそれぞれ同じく商家の娘である友人のおさととおじんを思った。
彼女たちも普段は気軽に誘ってくれるが、しばらくは誘えないなとさみしく思うのだった。
「あ、でも明日は父に頼まれて、お店の手伝いをしなければならないんです」
「あら、大丈夫よ。明日は直樹に送ってもらいなさいな」

「は?」

お紀の言葉を聞きとがめたのか、自分の部屋に入ろうとしていた直樹がこちらを見た。
「あ、いいんです、あの、直樹さんも忙しいでしょうから。
それに…、そ、そう、朝なら知り合いが通るから、一緒にお店に行ってもらえばいいから…」
「知り合い?」
直樹とお紀が同時に聞いた。
「あの、うちの店を再建していただいた大工の方で、今はうちの店の隣を再建しているはずだから、毎朝そこへ行くと…」
「駄目よ、お琴ちゃん。そんな(別の男と)朝早く行くなんて」
「で、でも、朝早いほうが人攫いも出ないかなとか」
「いいえ、駄目よ。お琴ちゃんはかわいいんだから(その男に)連れ去られるかもしれないでしょ」
「そ、そうですか」
「ね、直樹さん、あなたが出かける時間を調整すればいいでしょう。そして、遅くなったら食事がてら福吉へ行って一緒に帰っていらっしゃい」
「連れ去られるかもしれないんだろ」
「いいのよ(むしろ直樹なら万々歳だわ)」
「何言ってやがる」
直樹とお紀双方が睨み合ったまま無言の会話をしているようで、お琴はどう口を挟んだらいいのかと二人の顔を交互に見ていた。
「付き合いきれねぇ」
「あら、かわいいお琴ちゃんをその大工とやらと二人きりで仲良く歩かせてもいいって言うの?」
「そんな、仲良く、だなんて」
部屋の襖を開けて、直樹がお琴を睨みながら早口で言った。
「明朝五つ(朝八時ごろ)だ」
しばらく呆けていたお琴だったが、ぴしゃりと襖の閉まる音で我に返り「は、はいっ」と返事を返した。
隣でお紀は満足そうに笑って言った。
「さあ、直樹の承諾はもらったから、遠慮なく送ってもらいなさいな」
先ほどの無理矢理感漂うやり取りにちょっと不安になりながらも、お琴は直樹と一緒に出歩けることにやはりうれしさを隠し切れなかった。
たいして持ち合わせのない着物のうち、どれにしようかとまで今から思い描くのだった。

(2013/10/09)


To be continued.