大江戸恋唄



30


大工道具を担いだ啓太が佐賀屋のそばを通ると、お琴がいつものように佐賀屋を出て了安堂に向かおうとするところに行き会った。
お琴の方にわだかまりは何もないが、啓太の方は少しだけ足が止まった。
「おはようございます、啓太さん」
「お、おう、おはよう…ございます」
啓太の歯切れの悪い挨拶に少しだけ首を傾げると、お琴は啓太に並んで歩き出した。
啓太としては何故並ぶ事に…と内心冷や汗でいっぱいだったが、そんなことに頓着するお琴ではない。
「お琴さん、その、許嫁もいるお嬢さんが俺のような男と並んで歩いては…」
やっとのことでそう言うと、「え?あ、そ、そうよね」とようやくそこに思い至ったようだった。
それまで漠然とお琴は少しぼんやりとした女なのだろうかと思っていた啓太だったが、これで確信した。
お琴はその場の行き当たりばったりで、ぼんやりとしているだけではなく、何も考えていないのだと。
決して無口ではなく、どちらかというとよくしゃべるし、ぱたぱたと良く動いて福吉再建の折もじっとしていることはなかったし、元気がよくておとなしいだけの女でないことはわかっていたが、なんとなくこれでお琴という人間がわかった気がした。
気を使っていないわけではなく、思い至らなかっただけなのだと。
「そうは言っても、あたしもこちらの方に行く用事があって…」
「いや、別に今すぐ離れろと言っているわけじゃ」
「そうよね。だって啓太さんはお知り合いなわけだし」
お知り合い…。
啓太は少しだけがっかりした。
わかってはいる。
お琴とは顧客としての付き合いしかしていないのだから。しかも直樹という日本橋界隈どころか江戸でもこれ以上にないという美丈夫で才能余りあるほどの男が許嫁なのだ。
まだお知り合いの域に入れてもらっているだけでも贅沢というものだろう。
「しかし、あれだけ邪険にしていたくせに、よくもまあ直前で気持ちを変えましたね」
ついそんなふうに揶揄してしまった。
「え?直樹さんのこと?」
「え、ああ、そうです」
聞いていると思っていなかったが、案外しっかり聞いていたようだ。
お琴は見るからに表情を変えてうっとりとあらぬ方を見ていた。
「そうそう、あの雨の中で…俺以外好きなんて言うなって」
あ、雨の中で?と啓太はお琴を見たが、お琴は完全に自分の世界に入り込んでいて、啓太の方は見ようともしない。
「しかし、まあ、独占欲の塊みたいな話だな」
「え?どこが?」
はっとして我に返ったのか、啓太のひとり言にまたもや疑問を呈す。
「俺以外って、自分はどうなんだか知らねぇけど…と」
「そ、そんなことないわよ。直樹さんは、あのお嬢様を差し置いてあたしを選んでくれて」
勢い込んで反論するお琴にしまったと思いながら啓太は自分の口を押えた。
これ以上お琴の機嫌を損ねそうなことを言う前に、と啓太は「では、これで」とそそくさと道を曲がることにした。
人通りの激しい通りにお琴はすぐに見えなくなったが、人にぶつからないように苦心して道を歩いていくお琴は、まるでこれからの人生も同じように苦心するのではないかと啓太には思えてならないのだった。

 * * *

直樹がいなくなり、ひと月ふた月経つうちに、いなくなった時よりもずっとお琴は元気がなくなっていた。
直樹を見初めて想い続ける日々の中で、これほど直樹の姿を見なかったことがあろうかとお琴は思い起こしていた。
手習いがない日は、道場に。
道場にもいない日はお店近くまで。
もちろんそれほど町中で見かける姿は少なくて、七日も十日も見かけないことは確かにあった。
それでも今までは同じ江戸の中。
噂は聞くし、直樹をめぐる女たちの歓声をたどればたいていは見つけることができた。
同居してからはほとんど見かけない日はなかったので、いない日々の寂しさに今頃になって堪えているのだった。
今お琴を支えているものは、了安堂での手伝いと佐賀屋でのお紀とおもととの日々。
福吉での何だかんだと金之助との言い合いだったりするのだ。

「お琴ちゃん、簪《かんざし》を見立ててくれないかな」
「あら、えーと、退屈なお侍さん」
「西垣だよ、に、し、が、き」
「失礼いたしました、西垣さま」
「もう、相変わらずだなぁ、お琴ちゃんは」

そう言いながらふらりと佐賀屋に入ってきたのは、とある旗本三男坊の西垣だった。
お琴には旗本だか何だかよくわかっていないのだ。
もちろん佐賀屋の面々は承知済みで、あれほど失礼な物言いをされても西垣がお琴に対して怒らないのは知っていたが、それでもそのやり取りにはらはらとして見守っていたのも事実だった。

「ところで、またどこぞの女人にお贈りになるので?」
「今度は新しくできた茶屋の娘。かわいい顔してなかなかのもんだよ」
「まあ、西垣さまがそうおっしゃるなら、きっとかわいらしいお顔でお客あしらいもうまいのでしょう」
「だからその茶屋は大評判」
「それで贈り物を?」
「そうそう、ちょっとした差をつけるためには贈り物が一番」
「それではあたしなんかが選んでしまうのは…」
「何言ってるんだよ。お琴ちゃんのその庶民…じゃなくて町娘の感覚が大事なんじゃないか」
「そ、そうですか」

そう言われてお琴が後ろを振り返ると、既に店の手代が幾つかの簪を木箱に取り分けて「西垣さま、お琴さん、こちらへ」と奥に誘った。
店先からすぐの座敷に二人を案内すると、すぐにおもとが茶を持ってやってきた。
そのまま座敷を出ていくかと思いきや、お琴の後ろで黙って控えている。
これには西垣もほぉと目を細めていった。

「さすがに大事なお嬢さんを野郎と二人きりにはしないというわけか」

おもとはただ黙って頭を下げる。

「ところで見かけない顔だね」
「あ、おもとさんは最近御奉公に来ていただいた方なのよ。もう本当に頼りになって」
「へぇ。これまた少しばかり性別を…」

えへんおほんとおもとがわざとらしく咳払いして西垣の話を止めた。

「なるほど、お琴ちゃんには…」
「あたしが何か」
「いや、こっちの話。佐賀屋もさすがだね」

そう言って西垣は面白そうに笑った。

「さあ、お琴ちゃんの感覚で選んでもらおうかな」
「あまり期待しないでくださいませね」

お琴は腕まくりしそうな勢いで箱に並べられた簪を見比べ始めた。
西垣曰く、かわいらしい顔でにっこりととんでもないことをさらりと口に乗せる娘というのは、お琴にはなんだか想像しにくかったが、少なくとも松本屋のお裕のような華やかな顔立ちではないということなので、控えめながらもきらりと光るぎやまん(硝子)はどうだろうと見立てたのだった。

「へぇ、ぎやまんだね。うん、ではこれをもらおう」

西垣はお琴が選んだものをすいっと手に取ると、おもとが呼んだ手代に渡して支払いを待つことになった。
値段交渉もそこそこにぱっと潔く支払う西垣をお琴は不思議そうに見ていた。
旗本とはいえ、三男坊と言えば後継ぎでもあるまいし、よほど内所が豊かで小遣いもたっぷりと貰っているのだろうかと思ったのだ。

「ところで若だん…」

おほんえへんとここで再びおもとの咳ばらいが。
おもとは目力でその話題は今厳禁と西垣に訴えた。

「まあ、おもとさん、先ほどから大丈夫なの?」
「ええ。ご心配かけて申し訳ありません。少したんがからんだくらいですよ」

心配げに問いかけたお琴に返事をしながら、おもとはさりげなくもう一度西垣を見た。
もちろん西垣は察しがよいので、おもとの意向を受けて口をつぐむことにした。

「最近は了安先生のところに出入りしてるって?」
「ええ。よくご存知ですね」
「松本屋のお裕さんが珍しく大笑いしていたって」
「…大笑い…お裕さんが」
「何やらいろいろやらかしたって噂だけど」
「そんな噂が…」
「で、何やったの」
「そ、それは…」
「患者の頭に布巻こうとしていつの間にか顔まで巻いていて窒息寸前だったとか」
「うっ」
「刀傷が怖くて目をつむってお世話していたら、傷とは違うところに薬塗っていたとか」
「それは言いすぎです。ちゃんと目は開けていました」
「他にも薬包の練習で塩を包みすぎて塩がなくなっただとか」
「なっ」

後ろからぷっと堪え切れないように吹き出すおもとの様子がうかがえ、お琴は真っ赤になりながら西垣をにらみつける。
おもとも慌てて顔を引き締めたが、堪えようと思っても堪え切れないお琴の話に顔の筋肉が痙攣しそうだ。

「…とまあ、そんな具合な話をね、お裕さんから聞いたわけだ」
「お、お裕さんたら〜」
「まあまあ。なんなら了安堂の帰りにお裕さんが松本屋に寄ってほしいみたいなことを言っていたよ」
「お裕さんが?」
「こんなに近くを通るのに、私に挨拶もなしってどういうこととかなんとか」

それはきっとお裕なりの誘い文句なのだろうが、お琴は素直に「それもそうね」とうなずいた。

「何にせよ、また今度お団子でも」
「あら、茶屋娘はどうするんですか」
「それはそれ、お琴ちゃんとはまた別」
「もう勝手なんだから」

はははと陽気に笑いながら西垣は佐賀屋の座敷を出ていく。
一応品物を買ってもらった佐賀屋の奉公人とお琴たちは一同で「ありがとうございました、またお越しくださいませ」と殊勝に頭を下げた。
楽しげに帰っていく西垣を見て、お琴は少しだけ元気を取り戻し、明日は松本屋に早速伺おうと思った。
何を持って行ったら喜ばれるかしらと明日を考えることは気晴らしになる。
明日が来るということは、それだけ直樹に会える日が一日近づくことだ。
お紀に聞いて当たり障りのないお裕の喜びそうなものを相談しようとお琴はお紀に声をかけるのだった。


西垣は佐賀屋を出てからそのまま最近ひいきの茶屋に寄ることにした。相変わらず混みあっているが、座れないこともない。
せっかくの贈り物をこのまま持ち帰るのは西垣には野暮なことだ。
茶屋では店先にこれまた少しばかり不愉快な顔で茶を飲んでいる者がいた。
大工でめ組の啓太だった。
こういう茶屋にいるとは珍しいと、相席代わりに「ちょいとごめん」とその隣に座った。
あえて声をかけなかったが、茶屋の目的である茶屋娘のお智を呼ぶと、お智は心得たように茶と団子を持ってきた。いつもこの組み合わせを所望するからだ。
団子をもそもそと食べながら、変わらず不機嫌そうな啓太が気になり、西垣は声をかけた。

「め組の啓太さんだね。どうした、そんな顔して」

声をかけられて一瞬誰だこいつという顔をしたが、侍姿の西垣にうかつなことは言わなかった。
「何で知ってるかって?福吉を再建した親方のところだろう」
「失礼ですが、貴方さまは」
「西垣東馬。しがない旗本三男坊」
「…ああ」
名前に聞き覚えがあったのか、相槌を打ってうなずいた。
その聞き覚えにすごく興味がわいた西垣だったが、あまりいい噂はされていないことも承知だったので、あえて聞かずに話を進めた。
「お茶も団子もそんな顔して食べては、どこに入ったものやら」
「そうよ、啓太さん。私がせっかく運んだお茶とお団子をそんな顔で食べるなんて…」
通りかかったお智がにっこり笑い顔で言った。
「…許せないわ」
あくまでお智の顔は笑いながらだったが、有無を言わせないその口調は十分啓太を震え上がらせた。
お智はすぐに別の客に向かって愛想を振りまいていて、啓太は肩をすくめた。
西垣は苦笑しながら「お智ちゃんとは知り合いかい?」ともう一度話を振った。
「…ええ、まあ。西垣さまは福吉を知っているということは、お琴さんも知り合いなんですか」
「ああ、お琴ちゃんね。そりゃもちろん。何せあの佐賀屋とは懇意で」
「はあ、そうですか」
「なに、お琴ちゃんのことかい」
「いや、それはただのきっかけで…」
「なんだか話が見えないけれど、女の話なら任せてくれたまえ」
「女の話と言えば、女の話なんでしょうかね」
口ごもらせて啓太はお茶をすすった。
「人は約束だけで何年も待てるものなんでしょうか」
それはやはりお琴のことかと西垣は思ったが、お琴の話ではなく一般論として聞きたいならばもう少し考えねばならない。
何せお琴に関して言えば、直樹が待っていろと言えばおとなしく何年でも待っているだろう。そのうちしびれを切らして追いかけていくことさえやりかねないくらいに直樹のことを好いているのだから。
「人の心は移ろいやすいからねぇ。約束をじっと守る者もいれば、待てない者もいる。でもそれは離れている間のお互いの気の持ちようでしかないよ。
どれだけ堅い約束も相手がいなくなってしまえばそれで終わり。
そして無事に会えるかは時の運。
そんな当たり前のこと聞いて、どうしようって言うんだい」
「わからないから、聞いてみただけです」
「お琴ちゃんは、万が一若だんなが帰ってこなくても一生待ってると思うよ」
「…そういうんじゃ、ないです」
それだけ言って、啓太は茶屋を出ていった。
「やれやれ。ちょっとばかり面白そうではあるけど、厄介かな」
西垣がそうつぶやくと、お智がやってきた。啓太の食べた団子の皿と茶碗を手に取る。
「啓太さんたら、少し前からおかしいと思っていたのよね」
「へえ、そんなに前から…」
「直樹さんに勝てるわけないのに」
「うーん、お琴ちゃんも相当寂しい思いをしてるからねぇ。気分転換くらいなら問題ないだろうけど」
「啓太さんも融通聞かない人だから心配ね」
「ところでお智ちゃん、これ、茶屋で働くならこれくらいの華やかさがあってもいいんじゃないかな」
そう言って西垣は佐賀屋で手に入れたぎやまんの簪をさりげなくお智の髪に差した。
「…あら」
少しだけ戸惑った様子だったが、そこは茶屋娘。にっこり笑って「西垣さま、今回は有難くいただきますけれど、どうか物ではなくまた茶屋にいらして飲み食いしてくださいね」と言って新しく来た客に小走りに走り寄っていった。
「まあ、こんなもんか」
あっさりとかわされた感のある西垣は、お智の立ち働く様子とその髪に時々きらりと光るぎやまんを目にしてにんまりと笑うのみだった。

(2014/08/11)


To be continued.