大江戸恋唄



31


佐賀本家を一人出て、多良の母方の実家に寄り、ようやく長崎に着いた直樹が目にしたのは、同じように医学や蘭学、他にも兵学や砲術を学ぼうとする若者たちだった。
そのうちの一部は公費により派遣されており、自費で来る者とは必然的に金銭の余裕にも違いがあった。
本一つとってもそこそこの値段はするものであり、たいていは一冊を皆が写しあうこともあり、字の下手な者にとってはなかなかに難しい。
それを得意とする者には自然と頼まれることも多く、特に蘭学も独学で堪能な直樹にとってはいい小遣い稼ぎになった。
そんな忙しい日々はあっという間に過ぎていくが、その日常の端々にお琴の姿を探してしまったり、お琴の反応を思い浮かべてしまう。
お琴の古着をほどいて作ったふんどしは、とても今は使えない。
もらった時にも思ったが、お琴が身に着けていた着物を平気で股に巻けると思うところがお琴たるゆえんだと直樹は思う。
もちろん入れ知恵をした母のお紀はわかっていてお琴に助言したのだろうし、疑わないお琴は素直に実行しただけだろう。

「直樹はん、えろう大事にしてはるんやね」
「…許嫁にもらったものなので」

直樹が眺めていたふんどし(傍目にはただの布)を何とも言えない顔で見つめていた直樹が珍しかったのか、同部屋の者が声をかけたのだ。

「どおりで女子《おなご》に騒がれても涼しい顔してはったんか」
「どれどれ」
「なんやなんや」

四人部屋で隠し事は到底できない。
次々と目ざとく見つけられて、直樹は囲まれた。
以前に比べれば人当たりは随分と良くなって、同じく勉学を志してわざわざ長崎くんだりまでやってきた同志だ。同部屋の者は直樹の一見すると冷たい態度にも慣れて、容赦なく生活に突っ込んでくる。

「ほお、許嫁の手作りか」
「これは身に着けるもんか?」
「そら浮気はでけへんな」
「あ、ちょっと」

じっくりとみられる前にふんどしを抱え込む。

「ちょっとくらい見せてくれたって減らんだろうに」
「直樹はんは大事大事や言うて、ちいっとも見せてくれへんのや」
「わしもかわいい許嫁が欲しいのお」

そんなふうにからかわれながらも直樹は苦笑いでふんどしをまたしまい込んだ。
何せよく見れば、縫い目ががたがたなのはわかってしまう。
お琴の名誉のためにもここはじっくりと見せることはないだろう。せいぜいかわいい許嫁でいてもらおうと思っていた。
金に余裕はないし暇もない。
ひたすら学び舎となっている医学館と下宿を往復する日々だった。
落ち着いたら文を送る予定だったが、この同居人たちがいなくなってからにしようと直樹はため息をついた。
夕食の後はそれぞれ勉強に励んだり出かける者もいるため、直樹は勉強する合間に文を書くことにした。
とは言っても今の学び舎のことと同室で生活している者のことくらいで、面白いことは書けそうにない。
どうせお琴のことだから、あの典型的な女子的発想で文での甘い言葉を期待しているのかもしれないが、どこでどう誰に読まれるとも知れない文に書くわけないだろと直樹は思うのだった。
それでも自主的に自分から文を書くようになっただけでも佐賀屋の面々に驚かれることに直樹は気づいていなかった。

 * * *

「お琴さ〜ん、文が届きましたよ〜」
「え、は、は〜〜〜〜い」

慌ててお琴は裁縫していた手を休めた。

「入ってもよろしいですか」

おもとの言葉にお琴は「ど、どうぞ」と返事をすると、縫いかけのものをどこにしまおうかとおろおろと歩き回ってしまった。
がらりと襖を開けて入ってこようとしたおもとは、お琴が部屋の真ん中で布を手にしてうろうろしているのを見る羽目になった。
「…何をやっているんですか」
「えーと、その、何でもないの」
「…そうですか」
おもとはそこでため息をついて、とりあえず見なかったことにした。
「直樹さんからの文ですよ」
「え、本当?久しぶりだわ」
「ええ、本当に久しぶりですわね。前に届いたのはいつでしたっけ」
「長崎に着く前だったから、かれこれ三月《みつき》も前だったかしら」
「男に筆まめは滅多にいませんけれど、三月で届いたのなら直樹さんにとっては結構まめな方なんでしょうねえ」
「そうよ。直樹さんなんていつももらった文は読まずにぽいの人だったし、書いたのは自分が本当に用事があるときだけで、あたしなんて長崎に行くから近況を知らせて下さる約束をしてようやくいただけることになったの。
だから、早く読ませて」
「ああ、そうでしたわね。はい、どうぞ、ごゆっくり」
「あ、女将さん方には何か届いていたかしら」
「いえ。お琴さんにだけですよ。一応勘当された身でお届けするものじゃないですよ。本来なら福吉の方に届いてもおかしくないのですから」
「そ、そうなの」
「気にせず読んで、何かありましたらお聞かせくださいませ」
「わかったわ。そうする」
お琴は早速文を開いてまずはその手蹟をを堪能する。
この文字を手本に文字の練習をするのだが、そうはうまくいかない。
「ああ、直樹さんの文も久しぶり…」
匂いまでかいでしまうが、やや魚臭かった。
何と一緒に運ばれたのか一目瞭然だ。
そう言えば最近佐賀からの千石船が春一番でやってきたとのことなので、もしかしたらあまりにも開きすぎた感覚を気にして船で送ってくれたのかしらとお琴は思った。
船が無事に着いたことをここは喜ぶべきだろう。船と一緒に文まで沈むことは十分あるのだから。
「えーと、な、長崎の医学館で…」
お琴はぶつぶつと声に出しながら直樹の文を読んでいく。
前回は道中のこと、佐賀本家の話も盛り込まれていたが、今度は珍しく一緒に下宿している者たちの話、学んでいる医学館でのことが書いてあった。
中でも一人の師の話が気になった。
女の勘が働くと言えばいいのか、「きっと直樹さんの優秀さを妬んでいるのね」とお琴は一人憤慨していた。
とりあえず今回の文に女の影はない。
疑っているわけではないが、直樹は尋常じゃなくもてるのだ。
直樹が相手にしなくても、相手はそうはいかない。
直樹のあずかり知らぬ間に図々しい女たちが、妻がいないことをいいことに好き放題直樹の周りをうろつくことも考えられるのだ。
幸い環境は男ばかりのむさくるしい下宿所に学び舎らしいので、その点は安心だ。
女が学問を究めるのはいまだ良しとされない。
お琴も本当なら了安堂になど行かずにおとなしく花嫁修業でもすればいいと言われたこともある。特にあの不器用さでは言われても仕方がないと思ってはいるのだが、了安医師は男女の差別なく教えを乞うものに対してはきちんと相対してくれる。
あの松本屋のお裕が大店のお嬢であるにもかかわらず了安堂に出入りしていたのは、そういう気風が了安堂にあるからだった。
直樹からの文には甘い言葉などやはり一つもなかったが、ただ一言『そういうわけでお琴からの贈り物には男ですら触らせていない』とだけあり、男ですらというところにお琴は「やだ直樹さんったら」と笑った。
もちろんその文の前には『じっくりと見せられない出来』とあったが、そこは見ないふりをしておいた。少なくともちゃんと手元に置いてあることは確かなのだ。
お琴は文をまた大事に文箱にしまうと、支度を整えた。
今日は了安堂ではなく松本屋に顔を出しに行くのだ。
おもとを探して台所に顔を出すと、既に昼餉の準備に取り掛かっている。

「おもとさん、松本屋に出かけてまいります」
「はい、わかりました。手土産はお持ちですね」
「ええ、このとお…り…あ…」

お琴は文箱の前に置き忘れたのを思い出して慌てて自分の部屋に駆け戻った。
やれやれとおもとがそんなお琴を呆れて見ていた。
風呂敷で包んだ手土産をきちんと抱え、お琴は今度こそ出かけることにした。
お紀と番頭もそれぞれ「気を付けてね、お琴ちゃん」「松本屋の方々によろしくお伝えください」と声をかけた。
「はい、行ってまいります」
お琴は見送られながら佐賀屋を出発した。
日本橋の通りは変わらずににぎわっており、少しずつ春らしい陽気にもなってきていた。
それでも今年の花が咲いても散っても直樹が帰ってくるのはまだ先だという思いがある。
皆がいる江戸は寂しくないが、直樹のいない江戸はやや色あせて見える。
そんなふうに思いながら歩いているうちに松本屋に着いた。

松本屋の店先は相変わらずお香の匂いが漂い、高貴な雰囲気のするたたずまいだった。
少し躊躇するがのれんをくぐって「こんにちは」と声をかけると店先にいた手代が「いらっしゃいませ」と声をかけた。更に「佐賀屋のお琴さんがいらっしゃいましたよ」と奥に声をかけた。
正確には佐賀屋の娘ではないのだが、お琴は気恥ずかしい心持のまま待っていた。
程なく「ようこそ」とお裕が現れた。
その美貌もいささかも衰えていない。
お琴の顔を確認すると「今日の御用は」と素っ気ない。
「あの、西垣さまからお聞きして、こちらにもご挨拶をと思いまして」
「どういうふうに西垣さまがおっしゃったのか知らないけれど、来いと言ったわけではないわよ」
「ええ。それでもお世話になったし、お裕さんにもお会いしたかったから」
「まあ、いいわ。おたえ、奥に上がっていただいて」
お裕自身はさっさと奥に戻り、お琴は言いつけられたおたえという奉公人に促されてお邪魔することになった。

お裕が奥に、と言った場所は、ただの座敷ではなかった。
「あのう、あたし、お茶はさっぱり…」
「承知の上です」
「それに、高価な茶碗は怖くて…」
「あなたに壊されて困るような茶碗は出しません」
「そ、そうですよね」
「ええ。せいぜいあなたのその簪《かんざし》三つほどです」
「み、三つ…」
南国珊瑚の高級品と聞いたあの日から、お琴はこの簪をそれはそれは大事にしている。
直樹が髪に差してくれたというのも大きいのだが、佐賀屋夫妻からのいただきものでもあるのだ。
「それならなおさら」
「お黙りなさい。大泉屋沙穂さまとご結婚なさるからと身を引いた私に少しでも同情するなら、黙ってお付き合いなさい」
「は…はい」
「まったく、ふたを開けてみれば大どんでん返しとはこのことよね」
そう言いながらもお裕は流れるような所作でお茶をたてていく。
「そ、その節は…どうも」
何と言えばいいのかわからなかった。
たてられたお茶の香りとともに茶碗が目の前に置かれた。

「ゆっくりよ、そうそう」

お琴は指導を受けながらお茶をいただくことになった。
ゆっくりとお茶を飲みほし「け、結構なお手前で」と告げて、お茶碗が目の前から去ってようやくほっとしたくらいだ。
緊張していたせいか、普段は割と平気な足がどんどんしびれてくる。
これはお裕なりの意地悪なのかとお琴が気づいたとき、お裕は了安堂の話題を出した。
「了安先生はお変わりなく?」
「ええ。とてもよくしてくださいます」
「薬一つ包めないようでは直樹さんも苦労するわ」
「練習していますから、帰ってくる頃には大丈夫です」
「まあ、いくらなんでも半年や一年では無理でしょうから、十分時間はあるわね」
「…どれくらいかかるものなんでしょうか」
「医者修行のこと?」
「はい」
「さあ、短くて三年という話は聞いたことありますわ」
「み、短くて…」
「それだけあればさぞや立派な助手になれるでしょうよ。あ、それともあなたにはやはり足りないかしらね」
「なれます!」
「あらそう。てっきり直樹さん恋しさに泣いて暮らしているから修業が進まないのかと」
「そんなことは」
「あの直樹さんがあなたを選んで、あの才色兼備と名高いお嬢様もこの私ですらそでにしたのだから、それくらいの気概を見せてくれないと」
お琴はお裕を見て笑った。
お裕なりに励ましてくれているのだと。
「ありがとうございます、お裕さん」
「それで、直樹さんから文は届いているの?」
「ええ。ちょうど届いたばかりで」
「長崎ね…。ちょっと行ってみたいわね」
「え、お裕さんまで医者修行に?」
「…誰も医者修行とは言ってないわよ」
「ああ、よかった」
「…あなたね…」
「それよりも、その医学館にいる講師に気持ち悪い方がいるんですって」
直樹の文には気持ち悪いとはどこにも書いていなかったが、お琴の中ではすでに気持ち悪い講師となっている。
「えー、何それ」
「それが…」

思ったよりも話が弾み、お琴にとっては良い気晴らしになったようだった。
その話題を早速文に書いて送ったが、それを受け取った直樹がお琴が何を心配しているのか皆目わからなかったという。

(2014/08/23)


To be continued.