大江戸恋唄



32


お琴からの文は、直樹の送った文よりふた月近く経ってから届いた。
これは地理的な距離によるもので、直樹とて決してお琴に文を書くのを怠っていたわけではない。
通常便で文を送るのにひと月近くかかる。
前回は忙しさで文を送るのが遅れたためもあり、更に文が遅れそうなところを運よく船便を利用できたが、陸上を介して文をやり取りすると、早便でもなければお互いにすぐに送りあってもふた月近くかかる計算だ。

「お、許嫁からの文ですか」

そう言ってからかった同室者たちには目もくれず、直樹は文を読み進めた。
ちなみに直樹の同室者は江戸者、京者、大坂者といった具合だ。
隠れてこそこそ読むのも限界があり、面倒になって堂々と読むことにしたのだ。
文の内容に今一つ理解できないことがあった。
変わった講師がいるとは書いたが、お琴の中ではすっかり気持ち悪い変態講師ということになっているらしい。
その変態講師の毒牙にかからぬように注意しろというようなことが書いてあり、その発想に直樹は思わずぷっと吹き出した。
どちらかというと有名な遊郭がそばにあり、そちらに行かないでくれというような悲愴な内容よりはいいかと直樹は思い直し、文を閉じた。


「ぶえっくっしょん、ぶえっくしょん」
前を歩く講師が盛大なくしゃみをして、「大丈夫ですか、先生」と一応声をかけた。
声をかけられた講師はうれしそうに振り返って言った。
「ああ、直樹殿、心配してくれるのですね。どうです、今夜あたり一緒に酒でも酌み交わしませんか。ルパート講師からいい葡萄酒を手に入れましてね」
直樹に声をかけたのは、お琴曰く『気持ち悪い変態講師』と評された大蛇森医師だった。
この医学館における蘭学医で、外科的処置を教えている。
確かに誘い方はいつも微妙で、毎回断っているので他の者を誘えばいいのにと思わないでもない。
「いえ。今日も同室の者たちと蘭学の勉強会をする約束をしておりまして」
「さすが直樹殿は勉強熱心ですね。惚れ惚れしますよ」
「では、約束の時間ですので失礼いたします」
講師なのであまりに素っ気なく断ると支障が出るかと心配もしたが、とりあえず講義で差をつけられるような心配はないようだった。
お琴の心配を笑い話として同室の者たちに話したところ、実際に大蛇森講師が誘うのは直樹ばかりだという。あながちお琴の話も笑い話では済まされないかもしれないと思い直したくらいだ。
「女の勘いうのは離れててもすごいもんでっせ」
自称百戦錬磨だったという大坂者が言うのだからそうなのかもしれないが、文によるとこの話題で松本屋のお裕と大いに盛り上がったと言うから、女は本当にわからない。
そもそもお裕とそれほど仲が良かっただろうかと直樹は思ったくらいだ。
「直樹はんもおちおち浮気はでけまへんな」
京者がはははと楽しそうに笑う。
「もともと浮気なんてする気もない」
「そうは言ってもいい若いもんが全く禁欲するなんて、できるもんじゃないだろう」
江戸者が揶揄する。そう言う本人は時々遊郭から帰ってこないのだから、それなりに楽しんでいるのだろう。同室の中では仕送りも時々あり、一番裕福でもある。
「他の女はどれも一緒にしか見えない」
ぼそりとそう言えば、「こりゃまいった」と江戸者が笑った。
「あちらこちらで噂になってんのも知らんと、本人はこりゃまた真面目ゆうよりもただの朴念仁かえ」
京者は肩をすくめる。
直樹はお琴を思い浮かべる。
何と言われようとも、お琴以外の女に触られるのはまっぴらごめんという気もするし、お琴以外には何の感情もわかないというのが本当だった。
「蘭学の勉強会を始めようか」
直樹の言葉に同室の三人は「うへー、口実じゃなくて本当にやるんですか」「また蘭学かいな」「ほんに真面目なお方や」とそれぞれ口では言いながらも蘭学の本を広げるのだった。

 * * *

それは福吉からの帰り道だった。
まだ料理屋が混むには早いその時刻、職人たちは早々に仕事を終えてぶらぶらと帰る者も多い。もちろん真っ直ぐには帰らず、飲み屋に寄ったりもする。
いつも通り人でにぎわう通りを歩きながら、お琴はぼんやりと歩いていた。
了安堂に通い、時々は松本屋に寄ってみたり、おさとやおじんに会って話をしたりもする。
毎日はそれなりに忙しくて、明日はあれをやろうという思いもある。
それでも、暖かくなってきて、陽気に誘われてぼんやりしてしまうこともある。
今年の春は直樹とともに花見に行くことは叶わなかった。
来年はどうだろう。
その次は…。
そんなことを思っていたので、往来で人にぶつかった時にも全くの無防備だった。

「あっ」

ぶつかった衝撃で後ろにしりもちをついた。
相手方もよく前を見ていなかったのか、ぶつかった後で「すまん」と手を差し伸べてきた。

ああ、以前直樹さんにぶつかったときは、転ばないように毎度支えてもらったんだっけ。

そんなことを思ってしまい、お琴は頬を赤らめて立ち上がった。差し伸べてきた手をつかむことはしなかったが、差し出した人を見て「あら、啓太さん」と声をかけた。
「あ、ああ、お琴さんか。…気づかなかったよ」
「あたしも」

啓太とはいつも会うわけではなかったが、以前はもう少し頻繁に顔を合わせていたような気がしていたので、しばらくぶりに顔を見たような気がした。
大工道具を肩の上に担ぎ、お琴が立ち上がって土ぼこりを払うのを見守るその姿は、十分にいなせな若者だ。
もちろん直樹にはかなわないが、との注釈は仕方がないことだろう。

「ごめんなさい、少しぼんやりと歩いていたみたい」
「俺もだな」

二人して向き合って立っていても邪魔なので、二人してなんとなく歩き出す。
橋のたもとまで来ると、ようやく足を止めた。
用事は特にないので、そこでじゃあと言って別れて歩き出せばよかったのだが、なんとなく川の流れを二人して見ていた。

「あれから、若だんなから文は届いているんですか」
「…ええ。でも、長崎は遠いから」
「ああ、遠いな」
「でも、立派なお医者様になってほしいし」
お琴の言葉に啓太が「ああ」と生返事をしてから、「少し前に」と話し出した。
「俺が足場から落ちて骨を折ったとき、運ばれた診療所に若だんながいて、治療してもらったんですが、決して腕は悪くありませんでしたよ」
「まあ、大変だったのね。それでしばらくお見かけしなかったのかしら」
「いや、まあ、それもあるが…」
まさか啓太の方がなんとなくお琴を避けていたとはさすがに言えなかった。
「啓太さんだって腕はいいのでしょう」
「どうだか知りませんがね。少なくとも江戸の中で修業ができるだけでもありがたい」
啓太自身も少しばかり意地悪な言い方だったかと思ったが、口は止められなかった。
「そう、ですよね」
少ししゅんとしたお琴に慌てて、啓太は言葉を紡ぐ。
「そ、その代わり、二年や三年では家は建てられないし、親方の技術を盗むのは並大抵ではなくて」
まだお琴に笑顔は見られない。
「そ、そう、今日だって少しばかり調子に乗って親方に怒られたばかりですよ」
懸命に言い募る啓太にお琴は「そうなんですか」とようやく微笑んだ。
啓太は眩しいものでも見るようにしてお琴を見ると、くるりと後ろを向いて歩き出した。
「あ、啓太さん」
「用事を思い出したんで、帰ります」
唐突な宣言にもお琴はのんびりと答えた。
「あ、それではまた」
啓太はその言葉にぴくりと肩を揺らすと、お琴を振り返って「ま、また、今度おいしいものでも…」と遠慮がちに言った。
「ええ。ありがとう、啓太さん、ぜひに」
お琴がそう返すと、啓太はうれしそうに笑って帰っていった。

「啓太さんたら、そんなに一人で甘いもの食べるのが恥ずかしいのかしら」
啓太ががっくりくるような言葉をつぶやいて、お琴は佐賀屋への道を急いだ。


一方啓太は、お琴を元気づける意味でも今度あの茶屋にでも連れて行こうと声をかけたのだが、一度そう決めて声をかけると、たいしたことでもないような気がしてきていた。
何も二人きりになるわけじゃないし、落ち込んでいるお琴の相談に乗るのも決して悪いことではない、と自分に言い聞かせながら。


「ただいま戻りました」
お琴の声におもとが「はい、お帰りなさいませ」と声をかけた。
そのおもとにお琴は無邪気に言った。
「先ほど橋のたもとで啓太さんに会ったの」
「啓太さんとは…?」
少しだけ嫌な予感を感じながらおもとは聞いた。
「えーとね、大工さんよ」
「…大工?」
「福吉が大火事で壊されて再建していただいたときに来ていた大工の一人なの」
「そうですか。それで」
「そう、それでね、どうも甘いものが好きみたいで」
そんなことは言っていないが、お琴はそう解釈している。
「はあ、甘いものですか」
「今度一緒に甘味屋に入ってほしいみたい」
それはただのお誘いじゃないのかとおもとは心の中で突っ込んだが、いたってお琴はそう思っていない様子だった。
一通り会話した後で思い悩みながらおもとが台所へ行こうとすると、ちょうどお紀がいた。
ここは思い切って聞いてみるのがいいだろうとおもとは聞いてみた。
「女将さん、大工の啓太さんって、知っていらっしゃいますか」
すると、女将はあっさり言った。
「ええ、知っていますよ。こう、すっきりとしたいなせな若者で…はっ、まさかお琴ちゃんに…」
さすがお紀の勘は鋭かった。
「お琴さんが甘味屋に誘われたとか」
「やっぱり。お琴ちゃんはかわいいから、誘う若者の一人や二人って、あれほど私は言ったのに」
「でもお琴さんはそうは思っていないようですから」
「ええ。あんな息子でもお琴ちゃんはずっと待ってると言ってくれるとてもいい子よね。啓太さんは、まだお琴ちゃんとあの偏屈息子が気持ちを通わせる前にも熱心にお琴ちゃんに話しかけていたのよね。もちろんあからさまにではなくて、どちらかというと話し相手というか…」
「そうなんですか。ちょっと気を付けておいた方がいいでしょうか」
「そうねぇ…。お琴ちゃんがその気じゃないから心配はないと思うけれど、世間様はうるさいし、お琴ちゃんに傷がつかないようにしてほしいわねぇ」
「そうですよね」
「でもちょっとくらいなら、気分転換にはなるかしらねぇ…。ああ、でもあんな偏屈息子と比べたら、啓太さんの方がいいってなってしまうかもしれないし。全く、勉強のためとはいえ、かわいいお琴ちゃんを放って長崎くんだりまで行くなんてどうかしてるわ。それくらいなら夫婦になっていっそ連れていけばいいのに」
「…それはどうかと…」
名目上勘当したとはいえ、嫡男は立派な息子だと聞いているおもとは、自分の息子をどんどん貶していくお紀に苦笑しながら聞く羽目になった。
「だから長崎に行く前に仮祝言でもあげなさいとあれ程…」
そこまで言って、お紀はきらりと目を光らせた。
「そうだわ。あの馬鹿息子が顔色変えてさっさと修行を終えて帰ってくるようにさせようかしらね」
にやりとお紀は笑った。
おもとはこれは何かよからぬことを…と思ったが、これでも一奉公人。いざとなれば体を張ってでも止めるつもりだったが、とりあえずお紀の様子を見て考えようと思うのだった。

(2014/09/08)


To be continued.