大江戸恋唄



33


直樹はいつものように医学館から下宿へと帰ろうとしたが、使っている筆が傷んできたので買い替えるかと道を変えて店が並ぶ一角へと足を向けた。
その通りには、高級品から庶民が使う品まで余すことなく店が並んでいる一角があり、普段あまりお金を持たない貧乏学生たちも立ち寄ったりするのだ。
そこに困り顔でうろうろとしている十ばかりの子どもがいた。
子どもの割にはなかなかに豪華な着物を着ており、店の中の様子をうかがいながらの人待ち顔は随分と愛らしかった。
それでも別に声をかけるわけでもなく、直樹が店の中に入っていくと、そこにはさらに絢爛豪華な衣装を身にまとったいわゆる遊女がいたのだった。
そうは言っても遊女も一人でいたわけではなく、そばに出島の外人らしき男と一緒に品を選んでいた。
蒔絵の豪華な筆はいかにも遊女に似合いそうなものだった。
それを横目に直樹は自分の筆を選び始めた。
とは言っても選ぶほどいい筆は今は買えない。せいぜい使い心地の違いだけで、あとは値段もそこそこのものを選ぶとさっさと店を出た。
ところが店を出たところで先ほどの子どもが徐々にうずくまっていくのを見てしまった。
できれば子ども、それもこの衣装身なりからして先ほどの遊女の禿《かむろ:十歳前後の遊女候補で太夫の見習いをして教育されることが多い》だと思われた娘に関わりあいたくなどないが、目の前で具合が悪くなるのを見逃せるほど非人道的な心持は持ち合わせていなかった。
仮にも医者見習いとなればなおさらだった。

「おい、大丈夫か」

そう声をかけると「あねさまを」と冷や汗をかいた顔で頼まれる。
店先では何だからと抱え上げて店の中に運び込み、「子どもが倒れたぞ」と声をかけた。
その場で空いていた店先の板間に寝かせて診察をすると、どうやら腹が痛むらしいとわかった。

「鈴!」

先ほどまでの優雅さをかなぐり捨てて、その遊女はぐったりとしている子どもに駆け寄った。

「どねえしたことでありんすか」

そばにいた直樹に詰め寄る。

「…ただの腹痛じゃないかもしれない」

直樹がそう言えば、遊女は一緒に来ていた外人を振り返った。
素早く外国の言葉で何かを告げる。
蘭学なら極めた直樹だったが、未だ他の言語にまで手が回らずその言葉を理解できなかった。

「ぬしさまは医者でありんすか」
「まだ見習いだ」
「この鈴は、わっちの禿にて、丸山に連れて帰りんす」
「すぐに医者に見せないと」
「…それなら、ぬしさまが診ておくんなし」
「見習いだと言ったはずだ」

直樹の言葉に遊女は首を振る。
店の者に筆を借り、文を書くとすぐに使いを出す。
直樹は有無を言わせない遊女にため息をついて、仕方なく同じように道具を借り、自分の師に文を書いた。
自分の勉強仲間にも同様に文を書き、これも店の小僧が届けに走った。
長崎には有名な丸山遊郭があった。
もちろん江戸の吉原の規模にはかなわないが、丸山遊郭には特に居留地の外人相手が多く、ここで出会った遊女も語学に堪能な様子がうかがえる上級の太夫のようだった。
直樹は遊郭に足を踏み入れていないどころか興味がなかったので、どの店の者かすら知らなかったが、駆け付けた店の衆と出会った江戸者、坂巻甚五郎《さかまきじんごろう》の話では、今丸山で一番有名な遊女、梅田屋椎乃太夫だという。
抱えられ運ばれていく禿とともに遊郭に足を踏み入れることになった。
江戸の吉原と比べると随分と遊女は自由に門を出入りしていることに面食らった。
もちろんどの遊女も出入りできるわけではないが、出島に出入りする上級遊女となると外人との付き合いも多く、求めに応じて出島へ出かけていくらしい。
どうやらこの椎乃太夫も同様で、禿を伴って出島に行った帰りだったようだ。
店の衆が付くときもあるが、今回はひいき客との買い物を済ませたら戻る予定だったので、いなかったのが災いしたようだった。
ともかく、速やかに禿は梅田屋に運ばれ、直樹の頼みでいち早く駆け付けた大蛇森医師が診たてることになった。
やはりその診断は腹の緊張具合により腸の炎症であるとのことだった。
このまま放っておいても治るものもあるが、どう診てもこの禿の場合はしばらく腹痛を我慢したことにより一刻を争うようだった。
「手術、が一番いいんでしょうが」
大蛇森医師はそう告げて、直樹と手伝いにやってきた坂巻に目を向けた。
「こんな子どもでは」
坂巻が言葉を濁す。
「それが…?」
椎乃太夫が直樹たちをきっと睨む。
大蛇森医師はため息をついてから言った。
「腹を切るのは容易ではありません。有効な麻酔もなし、手術の後は体力次第、熱が出れば命に係わる。腹を切った痕も残ります」
「しかし、このままでは」
坂巻は顔を青ざめさせて言った。
「運を天に任せますか」
大蛇森医師は肩をすくめる。助けたいのはやまやまだが、大の男でも気絶するほどの手術だ。こんな子どもが耐えられるわけもない、というわけだ。
「この鈴は、わっちの預かりものでありんす。見ているだけで死ぬるなら、切っておくんなんし」
そうは言っても「はい、そうですか」と切るわけにはいかない。
「苦しい思いをさせて、それでも助からないかもしれませんよ」
「鈴、鈴、ぬしは、どっちに賭けなんす」
「あねさまのいいように。この命、このまま尽きるなら、決してあねさまを恨みますまい」
「あい、わかりんした」
椎乃太夫は直樹たち三人に向かってきっぱりと言った。
「鈴の命、お医師の方々にお預けいたします。腹を切った後の責任は、この椎乃太夫が持ちまする」
それは、いわゆる廓詞《くるわことば》をあえて使わず宣言した椎乃太夫の渾身の決意でもあった。
直樹は、この椎乃太夫の前身が武家の出だろうと推測した。この時代、武家と言えども食うに食えず、身を堕とす娘は多かったのだ。
こうまで言われても、大蛇森医師はなかなか首を縦に振らなかった。
腹を切って死なせるのは本意ではないし、できれば面倒なことは避けたいのだ。
話を聞きつけた梅田屋の主は、目をかけていた禿の病とあってはうろたえたものの、命を懸けるほどの大事ならば、このまま見守るつもりでいたらしい。少し惜しいが死んでしまっても仕方がない、というわけだ。
しかし、椎乃太夫の決意を聞き、さすがに考えた。
その手術の費用はどうするのかと太夫に尋ねれば、太夫の年季奉公に上乗せすればよいという。もしもこれで禿が死んでしまっても、費用云々は太夫が責任を持つという。
太夫は稼ぎ頭で、この丸山界隈でも一、二を争う今を時めく遊女だった。
どちらに転んでも損はないと踏んだ主は、好きなようにしてくれと直樹たちに言い放った。
大蛇森医師は乗り気ではなかったが、少々高度な外科手術の実習として役に立つと思えばしぶしぶ承知した。
何よりも気に入りの直樹が助手につくというのだから、これを逃す手はない。
直樹の手技は、現在学んでいる見習いの中では一番の腕でもある。
暴発した銃傷を処置させた時の手際の鮮やかさで、既に医学館の指導医たちをうならせたほどの腕前だ。
江戸に帰すのが惜しいほどの人材で、できれば医学館に残って後輩を指導してほしいという話も出ている。
「そうと決まればすぐに準備をすることにしましょう」
直樹を残し、大蛇森医師と坂巻は一度医学館に帰って準備を整えてくることになった。
本来なら患者を医学館に移すのが良いのだろうが、患者は遊郭の者であり、既に移すのも困難となれば、ここで手術を行うほかない。
直樹は禿の様子を見ながら手術場を整えることとなった。
「願いを聞き届けてくだすって、ありがとうござんす」
椎乃太夫はそう言って頭を下げた。
直樹はそちらを見ずに「頭を下げるのは、この少女が助かってからです」と言ったので、その時の椎乃太夫の表情を知ることはなかった。


遊郭での大手術の話は瞬く間に医学館に広がった。
我も我もと見学の申し出があったが、大人数は入れるような場所ではないと大蛇森医師と坂巻が蹴散らした。
かろうじて同じ下宿の京者が同行を申し出た。大坂者はあいにく出かけており留守だった。
遊郭の梅田屋に着いてからも細かい打ち合わせを繰り返す。
子どもでもあるが、気つけに酒を用意することも厭わなかった。
出血は増えるが、少しばかり酩酊状態の方が手術はやりやすいのだ。
しかし、直樹はそれらに疑問を持っており、以前から麻酔については研究していたくらいだったが、麻酔薬の調合は難しい。手に入る薬も限られており、未だ巷では麻酔薬なしの手術が主流だったのだ。
この時代、華岡青洲という医師が家族を犠牲にしてまでも開発した全身麻酔薬として調合した薬はあったが、弟子以外にはなかなか広まらず、おまけに内服薬であるために効き始めるのは少なく見積もっても一刻(約二時間)を要す上、更に手術を始めるのなら二刻が過ぎてからが無難だ。
この禿の状態で一刻も二刻も待っていては、ますます命の危険が高まる。
賭けついでにどこからか手に入れた阿片を使うことになった。
子どもに対して使うものではないと通常ならば反対するだろうが、手術の痛みか阿片の危険かさらに危険な麻酔薬の効き目かという選択肢だ。
阿片の煙は強烈に禿の身体を酔わせた。
昏倒とまではいかないが、大人とは違ってやはり子どもには少々強すぎるようだった。
この阿片も医療用ではないので、表向きは何も使っていないという体裁だ。もちろん阿片の持ち主は隠匿されるし、速やかに返却もされた。
少々作用に問題はあるが、少なくともこれで痛みの衝撃で死ぬ危険性は減ることになった。
灯りを目一杯用意し、持ってきた手術道具を並べ、度数の強い酒で消毒して手術は始まった。
手術の光景は、女人には耐えがたい光景であるので向こうで待機するように言われた椎乃太夫だったが、頑として禿の傍を離れなかった。
禿の両手を頭の横で握り締めて固定させ、万が一途中で暴れたら抑えるつもりで手術場に残った。
一旦手術になってしまえば、椎乃太夫がいようが、患者が禿だろうがそんなことは関係なく進んでいく。
大人よりは華奢なその身体に刃を入れ、さるぐつわ代わりに噛まされた布を通して幼い唸り声が聞こえても、大蛇森医師と直樹は淡々と手術を進めた。
むしろ助手を務める坂巻のほうが今にも倒れそうな顔色だった。京者がそれを横目にあれこれと助手をせっせと務めた。
幼い身体を切ることが余程身に堪えたらしかった。
腸の膿みただれた部分を切り取り、洗浄して、絹糸で縫合を終え、閉腹するまでさほどの時間はかからなかったようだった。
変態と名高いとはいえ、医学館の講師を担う大蛇森医師と医学館始まって以来の天才と言われた直樹の二人が手掛けた手術である。命が危ういどころか、かなりの良い手ごたえで手術を終えることができたと言ってよいだろう。
もちろんこの手術の後が大事で、いわゆる傷口からの発熱がなく過ごせなければならない。
この手術の後に亡くなる患者も大勢いたのだ。
「ひとまずこれで様子を見るしかないでしょうね」
そう言って後片付けをする大蛇森医師と直樹に向かって、椎乃太夫は深々と頭を下げた。
「このご恩、一生忘れは致しません。もちろん鈴にもよく言い聞かせます」
「傷口は、しばらく毎日見に来ます」
直樹がそう告げたが、青ざめている坂巻を見るとにやりと笑って言った。
「坂巻殿、今宵はここで休んでいったらどうだ。貴殿ならここにも詳しいし、女の子の様子も見られて一石二鳥だろ」
「別に腰を抜かしているわけではない。子どもの処置が苦手なだけだ」
坂巻が慌ててそう言ったが、どちらにしても一晩様子を見る必要はある。
「そういうことならおれが残るよ。直樹殿はかわいいい許嫁にこんなところで過ごした言い訳も大変だろうからな」
「ああ、そうだな」
許嫁の話を出されてもあっさり直樹がうなずいたので、坂巻は「あー、はいはい、居残ります」とおざなりな返事をして大蛇森医師と直樹と京者の三人が出ていくのを見送ったのだった。

(2014/09/16)


To be continued.