大江戸恋唄



34



丸山に一人残った坂巻甚五郎は、禿《かむり》の傍に座ってその寝顔を見ていた。
時折ゆがむようなその表情を見ると、はっとしてしまう。
妹が同じような年頃だったのだ。
坂巻はその名が示す通り五番目の子どもで、いくら武家の出とはいえ、五番目の子に継ぐ家もなければ養子の口もなかった。元は裕福であった坂巻家も、兄の代になってあれこれと財政も厳しくなっているのは知っていた。どこの武家も内証は同じだろう。
金のあるうちにせめて自分の食い扶持を確保せねばとわざわざ長崎の医学館までやってきたのだ。
もともと腕に覚えもなく、頭もそこそこ。それでも手先の器用さだけは唯一の取り柄だったが、いざ医学館に来てみたら、それくらいの器用な者は山ほどいたことにがっくりときた。
同室の直樹は医学館始まって以来の天才と名高く、誰もかなわないのがいっそ清々しいくらいだった。
江戸ではそこそこの大店の息子だと聞いたが、それも本人から聞いたわけではなく、佐賀にある店からの届け物で判明したくらいだ。
許嫁がいるというのもかわいらしい文が届いて初めてわかったことで、それほど自分のことは何も話さない。
それだけに噂はささやかれる。
それほどの暇人はいないものだと思っていたが、勉強するよりほかに暇をつぶせそうなものはお金を出すことばかりだ。
もとよりお金のない学生ばかりで噂話くらいしかなかったのだろう。
あれこれとまことしやかに直樹の噂はささやかれているのだった。
坂巻はこの長崎に来てから物見雄山で丸山にも出入りした。
江戸の吉原ほどではないが、長崎にしかない華やかさがあった。
江戸や大坂、京などの同じ下宿生同様、丸山もあちこちから来た女たちだ。
幸い実家からの仕送りはまだ途切れてはおらず、なけなしの金を握って時々は息抜きに出かけていたのが今回は役に立ったようだった。
もちろんこの梅田屋のような高級な店には縁がない。ましてや太夫などとお近づきになることもない。
「鈴の様子は」
夜見世の前に顔を出したであろう椎乃太夫が付き添っていた坂巻に聞いた。
「今のところ、熱も出ていないし、一晩たってみないと何とも…」
「そうでありんすか。今日鈴を診てくださったお医師の方の名は」
「大蛇森医師です」
「最初に鈴を助けてくださったお若い方でありんす」
「直樹殿のことですか」
「…直樹、殿。ありがとうございんした」
「許嫁がいるのでお手柔らかにしてやってください」
思わずそう言うと、椎乃太夫は微笑んで坂巻を見ると「では、よろしくお願いしんす」と丁寧にそう言って部屋を出ていった。
そんなふうに丸山一とも名高い椎乃太夫に言われ、坂巻は少しばかり複雑な面持ちで禿の様子を見るのだった。


医学館での報告を済ませ、ようやく下宿に帰った直樹を待ち受けるかのように大坂者が詰め寄った。
「何や、何でわいを呼んでくれんかったんや。もうこいつに聞いてそらもう悔しくて」
京者ははははと「おまえさんが出かけていたのが悪いんや」と笑い飛ばした。
直樹は少し目をやっただけで医学館から借りた本に目を落とした。
「何やほんまに冷たいのう」
あまりにも取り付くしまのない直樹の態度に大坂者がやや拗ねた口調で返した。
正直言えば、直樹はその上方言葉が苦手だった。
どうしてもあの男を思い出してしまうからだ。
長崎へ来る前に和解したとはいえ、未だお琴に未練があるのは本人とてどうしようもないだろう。人の心の機微に疎い直樹でもそれくらいならわかる。
それでも託したのは、だからこそあの男はお琴の身辺にも気を遣うだろうとわかっていたからだ。都合のいい考えであるのは重々承知の上でだ。
そんなことは大坂者には関係ないと少しばかり反省し、大坂者を見た。
「滅多に拝めん椎乃太夫はどうやった?」
やはりこのお調子者には付き合いきれない、とばかりに直樹は大坂者に背を向けた。

 * * *

お紀が書くとその手蹟で初めから警戒されてしまうので、文はおもとに書かせることにした。
おもとは少々不安になりながらも女将の言うことなので、言われるがままに文を書いた。
おもとには少々理解しがたいが、これも一つの愛情なのだろう。
その文を息子である直樹に送るのだろう。
そう思うと、少々緊張していまい、文字も震える。
決して下手な手蹟でもないが、以前見せてもらった直樹の流れるような手蹟と比べれば恥ずかしいばかりだ。
お紀はその震え具合も秘密を打ち明ける緊張感めいていいと言った。
なんだかとてつもない悪事に加担してるような気分になってきて、おもとはため息をついた。
この文を見たら、直樹はどんな反応をするのだろう。
そして、それを知ったお琴はどうするだろう。
お琴はまだあの若者の好意に気付いていない。
気付かせるのは寝た子を起こす様なものだ。
だからお紀も黙ってあんな文を直樹に送るのだろう。
この文を直樹が読むのはどれ位後だろう。
早飛脚という手もあるが、いくらなんでも勉強途中もいいところで直樹を呼び出すのは本意ではないはずだ。
そして、文はこれ一つで終わるはずはない。
ある程度ほのめかしておいて不安をあおるのが今回の目的だろう。
そして駄目押しの文を送る。
おもとは身体を震わせて確信した。
お紀だけは敵に回してはいけない、と。いや、そもそも雇われている身で敵も何もないだろうが、結局この店の奥を完璧に仕切っているのはお紀なのだと実感したのだった。
当のお琴は呑気に直樹を想ってため息なんぞをついている。
決してあの若者のことを想っているわけでもないし、悩んでいる様子もない。ある意味幸せな性格かもしれないとおもとは思う。
とりあえず嘘もついていないし、悪いことはしていない、という確信の元におもとはせっせと今日も働くのだった。

 * * *

直樹はいまだお紀とおもとが直樹が読めば歯ぎしりさせるような文を送ったことを知らない。
翌朝早くに大蛇森医師を伴って、遊郭丸山の門をくぐった。
まさかこの門をこう何度もくぐることになろうとは、と大蛇森も直樹も思った。
そもそもあまり女に興味のない大蛇森にすでに嫁と決めている女以外は見向きもしない男の組み合わせだ。
二人して複雑な顔をして門をくぐると、今を時めく梅田屋に向かった。
遊郭はいまだ朝もやに包まれていて、お店者が店を開く前に名残惜しく帰る頃だった。
梅田屋に着くと下働きの若衆がそっと二人を招き入れ、鈴の寝ている病床へと導いた。
ずっと付いて歩かれなくともと思ったが、そこは遊郭茶屋では仕方がないことだろう。
江戸者坂巻は、それまでようやくうとうとしかかっていたところを大蛇森と直樹の来訪を知らされて慌てて姿勢を正したところだった。

「どうだ」
直樹が尋ねると「熱は程よくおさまる傾向にありますね」と坂巻が答えた。
「運のいい子だ」
そうつぶやいた直樹の横から、大蛇森がどれどれと診察を行った。
切った腹の具合も悪くない。
何よりも縫合部の赤みも少なく、うまくいけば膿んだりもないかもしれない、と。
昨日使った阿片の影響も程よく抜けるだろうという診断結果だった。
医師たちが来たということを伝え聞いたのか、まだ朝寝姿から整いきれなかった風情のしっとりした椎乃太夫が訪れた。
その姿を見れば、どんな男でもはっとするほどなのだが、残念ながらはっとしたのは坂巻だけだった。あと二人の朴念仁ぶりも意に介さないように椎乃太夫は鈴の顔色をうかがった。
苦しそうだった昨夜の寝息から、今は穏やかなものに変わっている。
ほつれた前髪とその寝顔のあどけなさだけが、まだ幼い禿であることを思い出させる。
同情はするが、ここはそういう場所なのだ。
ほっとした様子の椎乃太夫が「あとどれくらいで目を覚ましんすか」と尋ねたが、大蛇森は「患者次第だ」と素っ気ない返事を返した。
どうやらやはり遊郭に足を踏み入れたのは間違いだったとでも言いたそうな顔だった。
白粉の匂いをさせる女らしい女というのが大蛇森の敵でもあるかのような素振りだった。
これはまた、といった感じで椎乃太夫は目を細め、更に色香を振りまくように「黄金≪こがね≫以外の御礼は必要ないでありんすか」と笑った。
「必要ない」と言い放って「失礼する」と大蛇森は立ち上がった。
ここで交代するつもりだった直樹は、坂巻に向かって追いかけろと合図をすると、坂巻は慌てて師である大蛇森の後を追った。
直樹はやれやれといったように首を振ると、椎名太夫を見やって「真面目な師をあまりからかわないでやってください」と言い添えた。
「これでもわっちはこの丸山で太夫と呼ばれるほど芸を極めたと思うておりんす。
そのわちきが笑うても、うんともすんとも申さない殿方がおりんすとあっては、わちきの名誉にかかわりんす」
そう言って椎乃太夫はゆったりと答えた。
確かにその寝乱れたかのような風情は、他の男ならうんだろうとすんだろうと何でも言いなりかもしれないが、あいにく直樹は色っぽい女も色仕掛けの女もうんざりするほど嫌いだったのだ。
「その太夫を流し目一つで黙らせるぬしさまもただ者じゃないとわっちは思うておりんす」
そう言ってふふふと笑った。
「御冗談を。ただの小間物問屋の息子で、今は勘当された貧乏医学生ですよ。そして…」
直樹は禿の顔を見て小さくつぶやいた。
「いつか許嫁を迎えに行くと約束したつまらない男です」
禿のあどけない顔が、隣で目を見開いている太夫よりもお琴に近い気がして、直樹はふっと微笑んだ。
今頃お琴は何をしているだろう。
朝もやの中で店の前を掃除でもしているのか。
それとも寝坊して慌てているのか。
まださほど時が経っていないにもかかわらず、直樹は琴子に会いたいと思っていた。
あの騒動を、日常を欲しているなどと、今は口が裂けても言えなかったが。
そして、その横顔を椎乃太夫が珍しそうに見つめていたことなど、直樹は知る由もなかった



 * * *

ほうきで店の裏を掃きながら、お琴は今日は朝もやが強いと目を凝らしていた。
掃いてもきちんと掃除できているのか気になって、ずっと下を向いていた。

「危ない」

なので、そう言われて引っ張られた時にはわけがわからず、その勢いだけで誰かにぶつかったとしか思えなかった。

「まあ、よく見たら啓太さんじゃないの」
「お琴さん、おはようございます。いくら見えないからって、下ばかり向いていては通行人にもぶつかりますよ」
「そうね、気を付けるわ」
「本当に気を付けてくださいよ」
「わかってるわよ。もう、誰もかれもあたしがまるで目がないかのように言うんだから」
そう言ってぶつくさと文句を言っていたお琴だったが、そう言えばお礼も言ってないと啓太に向き合った。
「ごめんなさい、ぶつかるのを助けてくれたんだったわね。ありがとう、啓太さん」
「い、いや、まあ、偶然で…」
歯切れの悪い啓太を見ると、啓太は慌てたように言った。
「いや、本当に偶然で、最近はここ通ってなくて」
そう言って焦ったように繰り返した。
「ところで、気分転換はできたかい?」
「気分は…そうね、少し落ち込むことが減ったかな」
「そうかい。なら、今度芝居小屋に行かないか」
「でも高いでしょ」
「そういう気取ったところじゃなくって、俺の仕事仲間が始めた田舎芝居で…」
「じゃあ、お友だちも誘っていいかしら。そういうところならあたしのお友だちも行けそう」
「…あ、ああ、そう、そうだな。うん、それがいいかもしれない。その方があいつも喜ぶし」
「それでは、また、詳しいお話、聞かせてくださいね」
「…ああ、わかった…」
そう言うと啓太はすごすごと歩き去ったが、お琴は気にせずにほうきを動かし続けた。
折しも朝もやが晴れ、すっきりとした一日が始まりそうだった。

(2014/12/31)


To be continued.