大江戸恋唄



35



「おばさま、今度お友だちと一緒に芝居に行きたいと思っているんですけど」
お琴にそう告げられて、お紀は何気なしに「そう、いいこと。いつ頃行く予定なのかしら」と返事をした。
「さあ、おじんとおさとの予定も聞かないといけないですし、案内してくださる啓太さんの暇ができるかどうか…」

な、なんですって?

江戸は日本橋に店を構える小間物問屋の女将であるお紀は、思わず大声を出しそうだった。大店の女将にあるまじき振る舞いだ。奉公人にも示しがつかない。
かろうじてそれを堪えると、お紀は目を輝かせてお琴に言った。
「それは、二人だけで行くわけではないのね?」
「それはそうです。だって、直樹さん以外の殿方と出歩くわけには…」
「そうよねぇ。ええ、そうですとも」
「ええ、もちろんです」
お紀はお琴の手をきゅっと握って、あたかも内緒話するかのように顔を寄せた。
「でもねぇ、お琴ちゃん」
「はい、おばさま」
お琴は真摯にお紀の目を見る。
「こんなかわいいお琴ちゃんを放って長崎くんだりまで行ってしまうような息子だもの。
お琴ちゃんが直樹を見捨てても仕方がないと思っているわ」
傍で聞いていたおもとは、どの口がそんなことを…と思っていたが、使用人の立場で言うべきことではない。黙って話をただ聞くのみである。
「でも、いつかは直樹さん帰ってくるわけですし」
「勘当した馬鹿息子とはいえ、お琴ちゃんには娘になってほしいし…」
「私もおばさまを母のように思っております」
「まあ、お琴ちゃん!」
お紀は感動の余り目を潤ませお琴をひしと抱きしめた。
その熱烈ぶりに、お琴は目を丸くして突っ立っている。
「女将さん、旦那様がお呼びです」
本来の目的を思い出し、おもとはお紀に声をかけた。
「はいはい。では、お琴ちゃん。お芝居に行く日が決まったら、私にも教えてくださいね。とっておきの着物を用意しますからね」
「いえ、そんな。あたしはいつもの格好で十分…」
もちろんお紀はお琴の言葉などきれいに受け流して行ってしまった。

おもとは自分が先日書いた手紙がどんどん現実になっていく恐怖で頭が痛くなる思いだった。
どれだけの思いを抱えてお琴と離れて長崎へ行ったのか、その場にいなかったおもとでも想像できるというものだ。
これで本当に直樹が志半ばで万が一長崎から帰ってきてしまったのならどうしたらいいのだろうと思った。
それでも、お琴に他の男の影が現れたのは紛れもない事実でもある。たとえお琴がそれに奇跡的に気づいていないとしても。
お紀とともに観察した結果では、大工の啓太はお琴の生家で働いている金之助とは違い、なかなかの美丈夫で、さりげなくお琴に対して接しており、気持ちを押し付けるようなこともしていないようだった。
啓太自身もお琴に対してどこまで踏み込むつもりなのか迷っているふうでもあり、これがお琴のことでなければもう少し客観的に楽しむこともできただろう。
しかし、残念ながらおもとは佐賀屋に働く奉公人であり、奉公人はお店の主人に従うべきであり、しかも叔母の顔をつぶすわけにもいかず、密かに頼まれたお琴と直樹の恋路の行方も見守らなければならないのだ。
おもとは自分の行く末が少しばかり憂うるものであり、楽しみでもあり、半ばあきらめながらもこの店で生きていくことを覚悟するのだった。

 * * *

よくぞ回復した、と手術を終えて目覚めた禿《かむろ》の鈴を診た大蛇森と直樹、江戸者の坂巻は感心するほどだった。
傷は残ったが、それでも渾身の手術を行った二人の腕がよかったのも幸いし、それは支障のないほど小さくきれいなものだった。
もちろんすぐに起き上って太夫の後をついて歩けるほどではないが、それでも徐々に起き上がることもできた。
太夫の面倒見の良さに加え、坂巻の往診に鈴自身の回復力に助けられ、日に日に目覚ましい回復を見せていった。
大蛇森はもうよろしいだろうと後を直樹に任せた。
直樹は坂巻を伴い丸山に通ったが、時には坂巻の代わりに京者を連れていくなど、その役目を全うすべく全力を尽くした。
「…医学館の御医師さま方は、生真面目な方ばかり。わちきの言葉も戯言と思うておりんすね」
丸山きっての遊女、梅田屋の椎乃太夫は鈴の回復を喜びつつも直樹たちをそう称した。
それは遊郭での褒め言葉でもあり、揶揄でもあった。
何もこの遊郭において生真面目に治療だけに通うような朴念仁が揃いも揃っていたとは、さすがの椎乃太夫にも考えが及びつかなかったことだ。
男とは、差し出されればちょっとの遊びくらいはしてのけるものだと思っていた。
稼ぎにはならないが、それが鈴を助けたことへの御礼になるのなら、一度くらいはそれも良しと思っていたくらいだ。
しかも、椎乃太夫ですら目を合わせれば少しばかり上気させられるような色男ときては、それも申し分ないものだと思っていたのに、いる間中ほとんど目を合わせないどころか、話すのは鈴の容体ばかり。もちろんそれが本筋ならば仕方がないことでもあったが、あからさまに誘った太夫の言葉すら聞かないふりで退けた。
さすがに太夫の心持ちとしてはいささか面白くない。
これでも丸山では一二を争うと言われた身だ。
「それは酷と言うものですよ」
ちょっと愚痴めいた言葉に苦笑しながら坂巻が答えた。
確かに丸山に出入りしたことはあるが、坂巻に相手できるのはせいぜい安女郎で、大枚はたく太夫のような遊女はとても買うことなどできない。それも家からの仕送りがあってこそだ。
ましてや師である大蛇森はどうやら男好みで、直樹は許嫁もち。
これで相手をしろと言うのも無理な話ではある。
もちろん椎乃太夫は直樹に愛しい許嫁がいるのを承知の上で誘っているのである。
京者は自分には受ける資格がないとあれからほとんど出入りもしない。
一番堂々とやり取りしていたのは、他でもないその京者であったのだが、やんわりと笑ってどうにもつかめず、太夫と何かあったのか何もなかったのか判然としなかった。

「姉様にはご迷惑をおかけしました。お医師の方々には、命を頂戴し、ありがとうございました」
鈴は起き上れるようになって一番にそう言って頭を下げた。
「そう思うなら無理せぬことだ」
それだけ言って直樹は傷口を消毒した。
坂巻はそんな直樹を見てため息をつきながら「正直、一か八かの賭けに君は良く勝ったと思うよ。それだけで、この遊里では大事なことかもしれない」と真剣に鈴に言ったのだった。
「このような御親切、鈴はうれしゅうございます。兄さまのようにおっしゃってくださり、ありがたく存じます」
坂巻は少しだけ悲しげに笑った。
「兄ならば、妹が遊里に身を置くのを黙って見ていることなどないだろうよ」
「…いえ、お心は十分いただきました」
「いや、参った。鈴はきっと太夫に続く艶やかな花魁になるだろうよ」
鈴にそう言って少し照れたのだった。
直樹はそんな坂巻を見てから、太夫に向き直った。
「おそらく、あと少しで傷口も完全に塞がりましょう。それは私どもでなくとも問題なかろうかと」
「…いえ、最後まで見ておくんなし」
「そろそろお暇せねば、この店にも差し支えることでしょう」
「これくらいのことで文句など言うお店《たな》ではござんせん」
「それなら坂巻、其方が通ったらいい」
「私ですか」
「幼いだけに回復は早い。抜糸も済んで、あとは傷口が開かないか見るだけだ。もっとも、開かないことを前提に抜糸したのだから、あとはやることもない。他にも大勢患者がいるというのに、いつまでもかような場所に通うのは俺の本意ではない」
「…はあ」
直樹のきっぱりとした言い分に、坂巻は思わずうなずいて同意した。
そして、やはり俺が通うのか、と改めて禿を見ると「よろしゅう」と頭を下げられた。
直樹がこれ幸いとばかりにさっさと妓楼を出ていくのを慌てて追いかけた坂巻は、その背中越しに椎乃太夫のため息交じりの声を聞いた。
「このわちきから逃げなんすとは」とそれはそれは艶やかで色っぽい声音を少しだけ恨みがましそうに吐き出した。
これは羨ましいのか、つれないというのか、どちらの味方をしても恨まれそうで、坂巻は自分のことではないのに深々とため息をついた。

下宿に帰ると、下宿を管理している大家から声がかかった。
「いいところにお帰りになった」
「ただいま帰りましたが、また医学館に向かう予定です」
「今文が届いたから、お待ちなさい」
そう言って直樹を引き留めて、自分は文を取りに戻っていった。
受け取った文は読む前からどこから届いたのかわかり、大家は気を使って直樹を引き留めたのだ。
「ほら、大事な許嫁からの文だ」
わざわざ親切そうにそう言ったものだから、付近をうろうろしていた下宿生が直樹を好奇心丸出しで見ていく。おまけに同部屋の大坂者と京者もいた。
直樹は「あ、りがとうございます」とかろうじてお礼を述べたが、その文をさっと懐にしまうと、追及を受ける前にさっさと下宿を出ることにした。
本当は下宿部屋に寄って持っていきたい本もあったのだが、この際それは必要ないと今決めた。
「おうおう、直樹はん、愛しい恋文はどんなことが書いてあるんかいな」
「そんなこと教えてくれるわけないわなぁ」
坂巻は直樹の後ろでいつ直樹が怒り出すのか戦々恐々としながら立っていた。
「今からでも作ったらどうですか、許嫁」
直樹はふんとばかりに大坂者と京者に言い放った。
「かー、かわいくないやっちゃのう。そんな簡単にできるもんならとっくに出来とるわ」
大坂者の嘆きを知らないとばかりに無視して直樹はさっさとその場を抜け出した。
どちらにしても落ち着いて文を読める状況でもないのは確かだ。
「それで、どうしてはった?あのかわいい禿は」
京者に聞かれた坂巻は「あの、ええと」と少し言葉を濁しながらも「もうほとんど良いようです」とだけ答えた。
まさかこれからは自分が代わりに見に行くように押し付けられたとは言えず、坂巻はこの京者に打ち明けて付き添いを頼もうかと考えた。
「あの禿はええ花魁になる」
京者はうんうんとうなずいて言った。心底そう思っているのはわかったが、その時点で坂巻は京者を連れて行くのはやめにした。

文を懐に入れたまま、直樹は昼過ぎまでゆっくりと読む機会がなく、「どうやった?」と聞くしつこい大坂者をようやく振り切って、直樹は文を開いた。
しかし、読み始めてすぐに直樹は首を傾げた。
見慣れない手蹟だったが、これは江戸から届いたことに間違いはないようだ。
そして、お琴の手蹟ではない証拠に、その内容はお琴に新しい男の影がという忠告の文だった。
お琴は未だ気付いていないようだが、と一言添えられているのが逆に真実味を持つ。
思わず誰からの文かも知らないその内容を信じないようにしようと自分の脳内で言い聞かせた直樹だったが、その相手の男があの大工だというところで思わず文を握りしめてしまった。
金之助はお琴が幸せならと諦めた潔い男だった。伊達に何年もお琴を想ってきたわけではないようだ。
直樹は大工の啓太を思い出した。
お琴が許嫁となる前にも少々不安のもとではあったのだ。
途中で足を怪我してからとんと見かけなくなったので、直樹も忘れていたのだが。
しかし、お琴が心配だからとすぐに医者修行をやめて帰れるものでもない。
ここは長崎で、どんなに頑張って帰っても、帰り着くのは一か月も先のことだ。
そして、わざわざ離れてまで修行に来た手前、修業半ばで帰るにはあまりにも情けない。
たかが女のことだが、その女が唯一無二の女だとすれば、直樹はここまで一瞬にしていろいろと考えてしまったのだ。
長崎に来る前に決心したことの一つに、もしもお琴が心変わりをして直樹を待てなかったら、それは仕方がない。お琴が独り身ならもう一度お琴に求婚もできようが、他の男を選んでしまったなら、潔く諦めようと。
それでも、他の男がお琴を口説くのを止められないこの状況に直樹は天を仰いだ。
西垣ほどあからさまな口説きなら、お琴はきっぱりと断るだろう。
しかし、曖昧な誘いにはとことん弱い。ましてや大工がお琴を好いているなどと思ってもいないだろう。
天に任せるしかないのか。
直樹はこの親切めいた文の出所はほぼ自分の母であるお紀で間違いないと思っていたが、それにしては見慣れない手蹟だった。
このような恥にもなりかねない文をおいそれと他人に頼む母ではないが、こういう煽りをするのは思い当たるのだ。
とすれば、直樹の知らない誰かがお紀とお琴の周りに現れたと見てよいだろう。
少なくともお紀の味方であり、お琴の味方であってほしいと願わずにはいられなかった。

(2015/03/01)


To be continued.