大江戸恋唄



36



話を聞きながら、おさととおじんは首を傾げた。
少し前まで直樹さんが、直樹さんがと馬鹿の一つ覚えのように話していたのは確かだった。それこそ気持ちが通じる前も通じた後も。
金之助と結婚するかもとか言いだしたときは、それもありかと思ったくらいだ。
その後は何故だか大どんでん返しとやらで、結局おさまるところにおさまったと安堵したのもつかの間、その小間物問屋の嫡男は、勘当されて医者修行で長崎にまで行ってしまったという。
しかもいつ帰ってくるかわからない、とな。
少なくとも今までの会った印象では、直樹は本当にお琴を好いているのだろうかと疑問に思ったものだ。
ただ、嫌嫌な態度を見せながらも、結局お琴を構っていたところを見れば、あれはただの見せかけだったのだろうと今では思う。
お琴は直樹が帰ってくるまで健気に待ち続けるであろうことはわかりきっている。
だからこそ直樹はやや安心して医者修行に長崎まで行ってしまったのかもしれない。
しかし、お琴は妙齢の女で、江戸は女が少なく、あれよあれよという間にお琴が他の男に奪われることだってあるかもしれない、とは思わなかったのだろうか。
そしてお琴の口から別の男の名が出てくるとは。

「それでね、啓太さんが明後日にどうかって」
「…それは、あたしたちにその啓太さんとやらを紹介してくれる、というわけではなさそうね」
「あ、もしそれがいいなら啓太さんにはこそっとそう言っておこうか?いい人はいないみたいだから」
おさとはおじんを見た。
その啓太とやらはお琴だけ誘いたかったのではあるまいか、と。
「いえ、それはもういいのだけど、啓太さんは何か言ってなかった?」
「え?何も。皆で見に来てくれるなら、友も喜ぶだろうって」
「ふうん」
おじんはおさとを見た。
「お琴はさ、どうも鈍いから気を付けないとね」
「鈍いって何よ」
「だって直樹さんに悪いでしょ」
「でもおさともおじんも一緒だし、啓太さんのお友だちの芝居を見に行くだけだし」
何が悪いのか、という顔をしているお琴を見ていると、気をまわしている自分たちがおかしいのかという気になってくる。
「だいたい啓太さんに悪いわよ」
そう言ってあっけらかんと笑っている。
そして、やはり直樹についての愚痴は言わなかった。
おさととおじんは顔を見合わせて、ここは自分たちがしっかりとついて行って啓太とやらを牽制するしかないという結論に至ったのだった。

おさととおじんが福吉にやってくると、別の方向からお琴がやってきた。
そのお琴の横には見慣れない若者とその後ろをついてきた女中が一人。
それを見たおさととおじんは、まるで大店のお嬢様のようになってしまったお琴を驚いて迎えたのだった。
「はじめまして、今日は芝居に付き合ってくださってありがとう」
そう言って頭を下げたのは、お琴が言っていた啓太のようだった。
「こ、こちらこそ。図々しくもご一緒させていただいて申し訳ありません。さとです」
「じんです。あたしたちはお琴の友だちよ」
そして、お琴が後ろに控えていた女中を促した。
「おさと、おじん、こちらね、佐賀屋の女中さんのおもとさん」
「はじめまして。お琴さんたちを送るように女将に申し付けられましたので、お供いたします」
「最近佐賀屋にみえたのに、もう奥を取り仕切っていてすごいのよ」
そう言われておもとを見れば、その美貌は女中にしておくのが惜しいくらいだった。
「では、参りましょうか」
啓太の言葉に一同は「はい」と返事をして連れ立って歩き出した。
啓太の知人がやっているという芝居小屋は、芝居小屋が並んでいる華やかな通りではなく、更に一本後ろにあるひっそりとしたところだった。
芝居小屋に着くとおもとは少しばかりお使いがあるとのことで芝居は見ずにまた迎えに来る、ということだった。

「長治《ちょうじ》がやっている芝居小屋は、素人上がりながらなかなか面白い芝居を見せるというので、最近は少しばかり人気が出てきたらしいです」
そう言って啓太は先に芝居小屋の中に入っていった。
しばらくすると啓太と一緒に芝居の化粧を施した男が出てきた。これが長治と言う人らしいと気付いたが「どうぞ、まずはご覧になってください」とだけ言って中に引っ込んでしまったのだった。
琴子たち三人は一瞬どうしようかと躊躇したものの、中を恐る恐るのぞくと、そこには三人以外にも客はいるようで、ようやく中に足を踏み入れる勇気が出たのだった。
簡素な作りで、夢にまで見ていた芝居小屋とは程遠い感じはしたが、始まった芝居は確かにそこそこ面白かった。むしろ堅苦しい大店の奥方がたが通うような芝居よりも性に合ったと言っていいかもしれない。
おじんなどは特に興奮して芝居を主催している長治にお礼を言いに行くと言ってきかない。
そこまで夢中になると思っていなかった啓太は、驚きつつも喜んで紹介に行くことにした。
芝居の終わった舞台裏は、衣装の散乱と化粧を落とす役者たちでいっぱいだったが、それでも主催している長治は「どうでしたか」と啓太と一緒に訪れたお琴たちを気にしてくれたのだった。
「大変面白かったです」
おじんは先ほどの興奮そのままにあれこれと感想を述べていたが、おさとはまた違う方に目がいっているようだった。
啓太が紹介する前にちゃっかりとある男と話をしている。
お琴が首を傾げていると、啓太が苦笑した。
「あの男はこの芝居の金を出して助けている大店の息子です」
道楽でこの芝居小屋と芝居を行うための金が出せるのだから、相当な金持ちであるのは確かなようだった。
もちろんおさとはそんなことも知らずに話をし始めて、帰り際に初めて大店の嫡男であると知ったようだ。
帰る頃にはすっかりおじんもおさとも芝居を見に来た以上のいいことがあったと笑顔で帰ることになった。
啓太はそんな二人を見ているお琴が少しだけ寂しそうにしている様子を知ると、つい余計なひと言を言ってしまった。
「修業とはいえ、何年も放っていくなんて、おれにはわからないな」
はっとしてお琴は啓太を見た。
啓太はしまったと思ったが、一度口にしてしまった言葉は取り消せない。
「いや、おれもそりゃ修業するとなったら徹底的にするさ。でも、許嫁のまま置いておくのは、我慢ならねぇ」
「…直樹さんは、直樹さんなりに考えた末に…」
「…おれなら、放っておかねぇ」
「え?」
「あ、いや、おれなら、だ」
「啓太さんは、思った通りお相手を大事にしそうですね」
「…お琴さんなら」
「…はい?」
「相手がお琴さんなら、おれはもっと大事にするぜ」
「そ、そう?そんなふうに言ってくれるなんて、そんなに気を遣わなくても」
「いや、本気だ」
「……え……」
お琴の手から巾着袋が滑り落ちた。
「あの」
「寂しくなったら、また声をかけてくれ」
「け…いたさん」
ちょうどおじんとおさとが戻ってくるところだった。
啓太は何事もなかったように振舞うのを見て、お琴は先ほどのは言葉のあやだったに違いないと心の臓が踊るのを鎮めるのだった。
そして、二人の様子を見たおさととおじんもまた、何事もなかったようにお琴たちと別れたが、迎えに来たおもとだけが怪訝な顔で一行を見ていた。
店に帰り着いて啓太とお琴が別れた後もあえてお琴に何も聞かなかった。
啓太とは多少ぎこちない感じがあったものの、帰り道は普通に会話していたからだ。

「…おもとさん、直樹さんからの文、なかなか届かないわね」
ぽつりとつぶやくお琴におもとは、今だと思い口にした。
「あの、啓太さんと何かあったのでございますか」
夕餉を前にお琴がたすき掛けをしようとした手が止まった。
「え、別に」
「そうでございますか。女将に頼まれたお使いとはいえ、あの場を離れてしまった私の不注意かと」
「そんな。おもとさんのせいじゃないわ」
「なら、よろしいのですが。ところで、直樹さんの文は、そろそろだと思いますが」
「そうよね。直樹さんはお勉強に行ってるのだもの。忙しい時だってあるわよね」
「そうでございますよ、きっと」
そう言いつつ、あの文に対する怒りで文の間隔があいているのではと気が気でなかった。
「何かありましたら、遠慮なく申し上げてくださいませ。このおもと、おきよおばさまに誓ってお琴さんの味方ですからね」
思わず力いっぱいお琴に告げた。
「ありがとう、おもとさん。その、何かあったら、お話しするから」
お琴もその力の入れように少し怯みながらもおもとに答えた。
「そうですよ、一人で悩まないでくださいませね」
そうは言ったものの、大工の若者とやはり何かあったのか、朝よりもため息が多いお琴を見ると、全てがお紀の思惑通りに動いているのではないかということにおもとは身震いするのだった。
直樹さま、どうか、お早くお戻りを…!いえ、立派なお医師に…!
揺れる心をまだ見ぬ若者に願いつつ、おもとはせっせと夕餉の支度に身を入れるのだった。

* * *

あれこれと診察の場を見学し、医術を学ぶ中では、直樹は間違いなく知識も腕前も医学館一と思われた。
そんなことは誰も直樹に言ったりはしないが、医学館の誰もが直樹をそういう目で見ているということだ。
先日の丸山遊郭での騒動も含め、まだ長崎に来て半年足らずでここまでの腕を披露するとは、と教授陣にも評判だった。
だからと言って今すぐに江戸に帰れるわけではない。
技術はあってもまだ医学を学んだとは言えない。
ぐしゃりと握りつぶして懐に文を入れたところで、直樹は医学館に戻ることにした。
今回警告するような文が届いたのは二度目だった。
一度目は誰だかわからない者からの文を訝しく思うだけで、何もしなかった。
いろいろ考えているうちについお琴への文も遅れてしまい、お琴の泣きながら書いたであろう文が後に届くことになった。もちろんちゃんと遅れながらも文は送ったのできっと入れ違いになっていただろうが。
あれこれ心配しても仕方がない。
そうは思っても、そばにいればお琴を口説く輩はすべて排除してみせるくらいのことはしてやるのだが、と直樹は勉強に励んだ。
こうなれば、一刻も早く修得して帰るほかはない。
何よりも誰よりもいち早く優秀だと認めてもらい、お墨付きをもらわねばならない。
より一層励む直樹に誰も勝てる者などいなかった。
春が過ぎ、長崎の雨季は長かった。
この梅雨さえ終われば夏だろうとわかっているのに、雨は船足を鈍らせ、川を氾濫させる。
しとしとと雨の降る中、駆け込んだ医学館の入口で坂巻に会った。
丸山遊郭での禿の処置を丸投げしてから、既にひと月は過ぎていた。
すっかり回復したと聞いてはいたが、それから坂巻は少しずつ医学館から遠ざかっているようだった。
「…久しぶりだな」
思わず声をかけた直樹に驚いたように坂巻は顔を上げた。
下宿でも見かける時間が少なくなったその顔は、少しやつれているようだった。
「ああ。少し時間あるか」
坂巻の言葉に直樹はうなずいた。
医学館の横にある物置の屋根の下で、坂巻は口を開いた。
「江戸に帰る予定なんだ」
それは半ば予想してはいたが、聞くのは初耳だったので、直樹は眉をしかめた。
「仕方がない。ずっと金策に走り回ったが、どうしてもこれ以上ここにいられない」
「…金か。実家がどうかしたか」
「まあな。とうとう兄の御役がなくなって。実家は生活するだけで汲々だ。優雅に勉強だけしていられる身分じゃなくなったってところだ」
「そうか」
正直助けてやりたいのはやまやまだったが、勘当されている手前、直樹とて金の余裕などない。
「江戸へ戻ってどうなるわけでもないのは確かだが、少なくとも何らかの仕事はある。それに、いろいろ医学を勉強してわかったが、おれにはあまり向かないみたいだ」
「…今更それに気づいたのか」
「ああ、今更だ」
そう言って坂巻は笑う。
「近いうちにここを発つよ。今日は教授陣にあいさつをしてきたんだ」
「下宿には」
「ああ、またあいつらがうるさいかな」
「仕方がない」
「ああ、仕方がないな。なんなら、おれが江戸に戻ったら、許嫁の様子を見て知らせてやるよ」
「断る、と言いたいところだが、様子を見るのはともかく、うちの実家に頼れば仕事の一つや二つ紹介してくれるだろう」
「ああ、大店の若だんなだっけ」
「…違う」
「はいはい、跡取りは弟だっけ」
そう言っても、坂巻は笑いをこらえて今にも吹き出しそうだ。
「とにかく、近いうちにはお別れだ」
「江戸に帰れば会うこともあるだろ」
「…そうだな。大事なかわいい許嫁どのにもあいさつしないと」
むっと黙り込んだ直樹を見て、坂巻は堪え切れずに笑った。
物置の屋根下を一歩出れば雨が降り注いでいたが、そんなことはお構いなしに坂巻は笑って医学館を去っていく。
下宿の中では直樹と一番馬が合ったのもこの坂巻だった。京者と大坂者との雰囲気を和らげてもくれた存在だった。
志半ばで帰るのは、自分で向いていないと思う以上に無念だろうと直樹は思った。だからこそ金策に走り回ったのだろうし。
自分にも黙って金策に走り回っていたのを知り、直樹は少しだけ寂しく思ったが、どのみち助けることもできない。
それならば、自分に出来る手助けをするまでだ、と直樹は実家に当てての文を書くことにした。
勘当したとは言っても親戚を通じて連絡を寄こす両親だ。直樹からの友人だという文を持参すればそれなりに歓待してくれるだろうと信じていた。
そしてその文が届く頃には、多分梅雨も明け、暑くなっているだろう。
坂巻の道中には支障のない道程であればいい、と直樹は思った。

(2015/03/11)


To be continued.